本能寺の変 1582 上総介信長 8 225 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 8 兄、信広の謀叛
三郎五郎殿、御謀叛の事。
弘治三年(1557)
勝利の翌年である。
春。
束の間の平穏。
今度は、兄(庶兄)が背いた。
一、上総介殿、別腹の御舎兄、三郎五郎(信広)殿、
既に、御謀叛おぼしめし立ち、
信広は、斎藤義龍と通じていた。
義龍の魔の手が伸びた。
信広を唆(そそのか)した。
信広は、清洲城乗っ取りを策した。
美濃国(義龍)と仰せ合はされ侯様子は、
信長を誘き出し。
その「隙」を衝く。
何時も、御敵罷り出で侯へば、軽々と、信長、懸け向はせられ侯。
左様に侯時、彼の三郎五郎殿、御出陣侯へば、
清洲町通りを御通りなされ侯。
必ず、城に留主に置かれ侯佐脇藤右衛門、罷り出で、馳走申し侯。
定めて、何(いつ)もの如く、罷り出づべく侯。
其の時、佐脇を生害させ、付入りに城を乗つ取り、相図の煙を揚ぐ
べく侯。
そして、挟み撃ち。
則ち、美濃衆、川をこし、近々と懸け向ふべく侯。
三郎五郎殿も、人数出だされ、御身方の様にして、合戦に及び侯はゞ、
後切り(=後ろから切り懸かる)なさるべしと、
信広は、義龍と手を組んだ。
御巧みにて、仰せ合せられ候。
義龍が尾張へ向かった。
いつになく、落ち着かぬ様子だったという。
早速、信長の知るところとなった。
美濃衆、何々(いついつ)より、うきうきと(そわそわと)、(川を)渡り、
い(あ)たり(付近)へ、人数を詰め侯と注進これあり、
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく