本能寺の変 1582 光秀と信長 3 74 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 3 上洛
久秀は、天下の大名物九十九髪を献上した。
久秀には、大いなる下心があった。
松永弾正は、我朝無双のつくもがみ(唐物茶入)進上申され、
信長は、多くの人たちから挨拶を受けた。
来訪者、引きも切らず。
今井宗久、是れ又、
隠れなき名物松島の壺(葉茶壷)幷(ならび)に紹鴎茄子(じょうおうなすび)
を進献。
往昔(おうじゃく)、
判官殿(義経)、一谷鉄皆がガケ(鉄拐山=鵯越ひよどりごえ)召されし時
の御鎧(よろい)を進上申す者もこれ在り。
(『信長公記』)
信長は、久秀の大和支配を認知した。
義昭は、面白くなかった。
「兄の仇」
しかし、信長の具申。
承認する他なかった。
斯くして、久秀は大和一国を手に入れた。
五日、
一、松少、昨日、上意(義昭)幷びに織尾(信長)へ礼これ在り、
和州一国は、久秀進退たるべしと云々、
(「多聞院日記」)
信長は、芥川山城に十四日間滞在した。
まだまだ、流動的だった。
「大和」、「河内」、「和泉」。
信長は、周辺の様子を窺った。
異国・本朝の珍物を捧げ、信長へ御礼申し上ぐべしと、
芥川に十四日御逗留の間、門前市をなす事なり。
(『信長公記』)
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