本能寺の変 1582 光秀の年齢 4 147 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 4 最大の敵
光秀は、老人に近づいていた。
時は、容赦なく流れて行く。
それとともに、肉体は、劣化して行く。
確実に、・・・・・。
光秀にも、その時が近づいていた。
最大の敵は、時間だった。
その様な年齢だった。
光慶は、若すぎた。
光秀は、晩婚だった。
先に、三人の娘たちが生まれた。
嫡男光慶が生まれたは、そのずっと後である。
これもまた、運命。
光秀は、高齢者。
光慶は、まだ、13歳。
後継者としては、力量不足。
信長が、これを引き立ててくれる保証など何もなかった。
むしろ、その逆である。
「役に立たぬ」、となれば、・・・・・。
領地が没収される恐れがあった。
斯くなれば、明智は、再び、没落する。
光秀の最大の悩みは、光慶だった。
親ならば、当然のこと。
「今のうちに」
光秀は、光慶を守ろうとした。
「手を打たねばならぬ」
そのことに、頭を悩ませていた。
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