本能寺の変 1582 上総介信長 6 211 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 6 道三の最期
信長は、下四郡の統治に難儀していた。
なるほど、尾張の内、その半分は手に入れた。
しかし、前途多難。
多くの難題を抱えていた。
一、上総介信長、尾張国半国は御進退なすべき事に侯へども、
木曽川・長良川の河口流域は、服部左京進に押領さている。
河内一郡は、
二の江(愛知県弥富市荷之上町)の坊主服部左京進押領して、
御手に属さず。
知多郡には、今川勢が進出していた。
智多郡は、駿河より乱入し、
残りの二郡も、まだまだ、不安定な状況だった。
残りて二郡の内も、乱世の事に侯間、慥(たしか)に御手に随はず。
此の式に侯間、万(よろず)御不如意千万なり。
(『信長公記』)
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