見出し画像

本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 3 166 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代 

信長、初陣。 

 天文十六年(1547)
 信長は、三河の吉良大浜に出陣した(愛知県碧南市音羽町)。
 初陣である。
 平手政秀が後見役をつとめた。
 信長、十四歳の時。
 
  翌年(天文十六年)、織田三郎信長、御武者始め(=初陣)として、
  平手中務丞、その時の仕立(準備して調えた)、
  くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ(鎧)の出立(いでたち)にて、
  駿河より人数入れ置き侯三州の内吉良大浜(=今川の属城)へ御手遣ひ。
  所々、放火侯て、其の日は、野陣を懸げさせられ、
  次の日、那古野に至つて御帰陣。

道三が、頼純を殺害した。

 同年。
 美濃。
 ついに、その時が来た。
 道三は、手段を選ばない。 
 頼純のみならず。
 その弟までも。
 「次々に」
 これが、戦国時代なのだろう。 

  其の後、土岐殿(頼武)御子息次郎(頼純)殿・八郎(頼香)殿とて、
  御兄弟これあり。

  忝くも、次郎殿を聟(むこ)に取り、
  宥(なだ)め申し、毒飼を仕り、殺し奉り、

  其の娘を又、御席(むしろ)直し(=後妻)にをかせられ侯へと、
  無理に進上申し侯。 
 
  主(ぬし)は稲葉山に居(す)ゑ申し、
  土岐次郎(八郎頼香の間違いか?)殿をば山下に置き申し、
  五三日に一度づゝ参り、御縁に畏まり、
  御鷹野へ出御も無用、
  御馬などめし侯事、是れ又、勿体なく侯と申しつめ、
  籠(かご)の如くに仕り侯間、
  雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で侯ところ、
  追い懸け、御腹めさせ侯。
                          (『信長公記』)

 太田牛一は、頼武と頼芸を混同しているようである。
 前の守護土岐頼武は、大永五年(1525)に死去したものと思われる。
 文中の「土岐殿」とは、その頼武のこと、
 「子息次郎殿」は嫡男頼純、「八郎殿」はその弟頼香のことだろう。
 この時、頼純は、まだ二十四歳という若さだった。
 「国盗り」をめざす道三にとって、邪魔者だった。

 これと同様の記述が、「春日文書」(永禄三年七月二十一日付六角承禎
 書状)にもある。
 *【参照】141・152

          ⇒ 次回へつづく

いいなと思ったら応援しよう!