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本能寺の変 1582 上総介信長 7 221 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 7 弟、信勝の謀叛 

信勝の謀叛が明らかになった。

 弘治二年、八月。
 
「噂」が真実になった。
 信勝は、自己の野心を抑え切れなかった。
 林兄弟・柴田勝家に煽られ、その気になった。
 篠木三郷を押領。
 あからさまな敵対行動に出た。
 
  一、林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。
    信長御台所入り(直轄地)の御知行、篠木三郷(愛知県春日井市)
    押領。

信長は、名塚に砦を築いた。

 佐久間大学を入れた。
 
    定めて、川際に取出を構へ、川東之御知行、相押ヘベく候の間、
    其れ以前に、此の方より、御取出、仰せ付けらるべきの由にて、

    八月廿二日、お多井川(庄内川)をこし、
    名塚(名古屋市西区名塚町)と云ふ所に、
    御取出仰せ付けられ、佐久間大学、入れおかれ侯。

信勝方は、千七百余。

 柴田勝家と林美作が出撃した。
 その数、千七百余。
 名塚砦へ向かった。
 
  翌日、廿三日、雨降り、川の表十分に水出で侯。
  其の上、御取出御晋請首尾なき以前と存知侯歟、
  柴田権六人数千計り、林美作勢衆七百計り引率して、罷り出で侯。

信長の御人数、七百には過ぐべからず。

 これが、その頃の全兵力なのだろう。
 
  弘治二年丙辰八月廿四日、
  信長も、清洲より、人数を出だされ、
  川をこし、先手あし軽に取り合ひ侯。

  柴田権六、千計りにて、いなふ(同西区稲生町)の村はづれの海道を、
  西向きに、かゝり来たる。
  林美作守は、南、田方より、人数七百計りにて、
  北向きに、信長へ向つて掛り来たる。

  上総介殿は、村はづれより、六、七段きり引きしさり(下がり)、
  御人数備へられ、
  信長の御人数、七百には過ぐべからずと申し侯。
  東の藪際に、御居陣なり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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