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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 3 164 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代 

斎藤利政は、出家して道三となった。

 天文十四年(1545)
 
おそらく、この頃だろう。
 利政は、頭を丸め、詫びを入れた。
 出家して、道三と号す。  

道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。

 それにしても、何とも凄まじい人物ではないか。
 今度は、懐柔策をとった。
 篭絡し、油断を誘う作戦に切り替えた。

そして、講和。

 天文十五年(1546)
 頼純と、和睦成立。

道三の娘が頼純に嫁した。

 条件の一つだったのだろう。
 「次郎殿を聟(むこ)に取り 」 
 道三は、土岐頼純を己の掌の内に取り込んだ(「春日文書」)。


          ⇒ 次回へつづく

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