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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 26 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信盛は、光秀と真逆の人物だった。

 最早、打つ手無し。
 信長は、止まらない。
 脳裏にあるのは、明智光秀。

武将としても。

 強欲で、武士道精神が欠如していると言っている。
 
  一、大まはしに、つもり侯へば(大略を言えば)、
    第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘(かか)へず、
    其の上、油断の様に取沙汰(職務怠慢との噂)侯へば、

    畢竟(ひっきょう)する所は(結論として)、
    父子とも、武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。

所領の扱いについても。

 信盛は、与えた所領を無駄にしている。
 兵を養わず、銭金に替えている。
 信長は、そう、言っている。
 立腹、収まらず。

 同じことを、繰り返している。
 余程、頭に来ていたのだろう。
  
  一、与力を専(もっぱら)とし、
    余人(味方になりたい人)の取次にも構へ侯時は、
    是れを以て、軍役を勤め、

    自分の侍(さむらい)相拘(かか)へず、
    領中を徒(あだ)になし(所領を無駄にして)、
    比興(卑怯)を構へ侯事。
 

与力・家臣の扱いについても。

 信長は、信盛をこのように見ていた。
  
  一、右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(しんしゃく=遠慮)侯の事、
    たゞ別条にてこれなし(特に変わった理由があるわけではない)。

    其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、
    錦の中にしまはり(針)をたてたる上を、さくる様なる
    こは(怖)き扱ひに付いて、かくの如きの事。
                           (『信長公記』)
 


          ⇒ 次回へつづく 


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