本能寺の変 1582 光秀の苦悩 2 17 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 2 志向の相違
光秀は、信長の「さらなる夢」を知っていた。
信長とフロイスが居た場所に、光秀も居合わせたかどうか定かではない。
しかし、耳には入っていただろう。
信長にとって、光秀は重宝な存在。
終生、坂本から離さなかった。
安土には、屋敷もあった。
光秀は、織田家の出世頭。
万事につき、抜かりのない人物だった。
信長との意思疎通を絶やさず、信長に関するあらゆる情報を、貪欲に収集
していたものと思う。
そのための、ネットワークのようなものがあったのではなかろうか。
光秀の坂本城は、安土城の対岸にある。
琵琶湖を挟んで、直線でおよそ26㎞。
間に、遮るものは何もない。
当時は、視認できたかもしれない。
きわめて近い位置にあった。
舟を利用して、「早く」、「楽に」、往来することができた。
出仕するのも、容易だっただろう。
光秀には、妹の妻木氏がいた。
天正七年(1579)、四月。
京である。
光秀の妹妻木氏が吉田兼見に尋ねた。
十八日、癸巳(みずのとみ)、
妻木惟向州妹、参宮、
神事の義、書状を以って尋ね来たる、
月水(月経のこと)の義なり、
同年、九月。
兼見が妻木氏を訪ねている。
不在だった。
「姉」とあるが、「妹」の誤り。
廿五日、戊辰(つちのえたつ)、
惟任姉妻木、在京の間、罷り向かふ、
双瓶・食籠持参、
他行なり、
女房に渡し、館に皈(帰)る。
(「兼見卿記」)
妻木氏は、信長の側近くに仕えていた。
天正九年(1581)、八月。
本能寺の変の前年である。
この時、光秀は、郡山城の普請を検分するため奈良に入っていた。
以下は、多聞院英俊の記録である。
廿一日、
今暁、惟任帰られおわんぬ、
殊に儀なく、珍重々々、
光秀は、妻木氏失った。
同日条につづく。
この少し前、妻木氏が亡くなった。
「一段のキヨシなり」、とある。
信長のお気に入りだった。
光秀は、大いに落胆した。
去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
信長、一段のキヨシなり、
向州比類なく、力を落とすなり、
(「多聞院日記」)
妻木氏は、信長と光秀を繋ぐパイプ役だった。
その役割は、大きい。
情報源として、きわめて重要な存在だった。
明智一族の存亡に、深く関わっていたと言っても過言ではあるまい。
光秀は、大きなダメージを受けた。
その損失は、計り知れない。
⇒ 次回へつづく