見出し画像

本能寺の変 1582 信長の台頭 3 273 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

名刀、左文字。

 「義元左文字」と称される。
 現在、京都の建勲神社に所蔵されている。 
 元々は、三好宗三(政長)が武田信虎(信玄の父)に贈ったものと云う。
 それが、さらに、信虎から、今川義元に贈られた。
 すなわち、三好宗三から→武田→今川→信長へと主を変えたことになる。
 刀の差表*に、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」。
 差裏*に、「織田尾張守信長」、とある。
 そして、やがて、→秀吉→家康へ。
 戦国の世の変遷を見た名刀である。

   *差表 刀を腰に差した時、体に当たらない側。表側。
   *差裏   〃  〃  、体に当たる側。内側、裏側。
 
  今度、分捕りに、
  義元、不断さゝれたる、秘蔵の、名誉の、左文字の刀、めし上げられ、
  何ケ度も、きらせられ、
  信長、不断さゝせられ侯なり。
  御手柄、申す計りもなき次第なり。

                          (『信長公記』)

今川勢は、全軍撤退した。

 これで、東方の脅威は消えた。
 信長の、失地回復、成る。
 
  さて、鳴海の城に、岡部五郎兵衛(元信)、楯籠(たてこも)り侯。
  降参申し侯間、一命助け遣はさる。

  大高城・沓懸城・池鯉鮒(知立)の城・鴫原(しぎはら)*の城、
  五ケ所同事に退散なり。
                          (『信長公記』)

家康が岡崎城に入った。

 今川勢の撤退により、岡崎城が空き城となった(愛知県岡崎市康生町)。 
 家康は、これを見て、入城。
 幸運だった。
 否、運が向いて来た。
 ここから、である。
 そのまま、籠城を続けた。

  一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?