本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 89 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出
勝頼は、田野に追い込まれた。
勝頼は、都留郡の小山田信茂を頼った。
名残おしくも、住み馴れし古府をばよ所(余所よそ)に見て、
直ちに、小山田を憑(たの)み、勝沼と申す山中より、
こがつこ(駒飼)と申す山賀(山家=山村)へのがれ候。
勝頼は、小山田信茂に見捨てられた。
漸く、小山田が館程近くなりしところに、
内々、肯(がえん)じ侯て(承知の上で)、呼び寄せ、
爰にて、無情無下に撞(つ)き堕(おと)し、
拘(かか)へがたきの由申し来たり、
上下の者、はたと、十方を失ひ、難儀なり。
供の侍たちが離散した。
新府を出でられ侯時、侍分、五、六百も侯ひキ。
路次すがら引き散らし、
遁(のがれ)ざる者、纔(わず)か四十一人になるなり。
勝頼は、覚悟を決めた。
山梨県甲州市大和町田野。
ここが、終焉の地となる。
田子と云ふ所の平屋敷に、暫時の柵を付け、
居陣侯て、足を休められ候。
多くの女房衆が付き従っていた。
左を見、右を見るに、余多の女房達、
我一人を便(頼り)として、歴々とこれあり。
自分一人で、あれこれ考えても、どうにもならぬことであった。
今さら、誅伐する事など、考えたとて、自分には出来ぬことであった。
我身ながらも、僉議(せんぎ)区(まちまち)為方(せんかた)なし。
さるほどに、人を誅伐する事、思ひながらも、小身の業に叶はず。
噫、哀れなる勝頼かな。
織田勢の足音が迫っていた。
国主に生るゝ人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、
人数を殺す事、常の習ひなり。
信虎より信玄、信玄より勝頼まで、三代、
人を殺す事、数千人と云ひ、員(かず)を知らず。
世間の盛衰、時節の転変、捍(ふせ=防)ぐべくもあらず。
間髪を容れず、因果歴然、此の節なり。
天を恨まず、人を尤(とが)めず、闇より闇道に迷ひ、苦より苦に沈む。
噫(ああ)、哀れなる勝頼かな。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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