本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 3 124~130 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 3 信長、出陣
*124~130は、バックナンバーです。
124 天正十年1582、三月五日。
信長は、安土を発った。 『信長公記』
近衛前久も、京から出陣した。 「兼見卿記」
吉田兼見は、粟田口で前久を見送った。 「兼見卿記」
光秀は、大勢の兵を率いて参陣した。 「兼見卿記」
兼見は、別本も残している。 「兼見卿記」別本
125 信長は、仁科信盛の首を検分した。 『信長公記』
信長は、岐阜城に着いた。 『信長公記』
光秀は、岐阜にいた。
126 信忠は、諏訪から甲府に入った。 『信長公記』
信忠は、武田の一族・重臣を成敗した。 『信長公記』
信忠は、軍勢の一部を上野へ派した。 『信長公記』
信長は、戦わずして、上野一国を手に入れた。 『信長公記』
127 信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。『信長公記』
信長の勢威、恐るべし。
光秀は、まだ、この光景を知らない。
信長の勢威は、丹波では通用しなかった。
光秀は、甲斐攻めが長引くものと思っていた。
128 信長の勢威は、確実に成長していた。
「長篠効果」
「本願寺効果」
信長は、自分の実力に気づいていない。
「武田効果」
129 信長は、岐阜から岩村城へ向かった。 『信長公記』
柴田勝家は、越中松倉城を攻めていた。 「古今消息集」
信忠は、勝頼を追っていた。 「古今消息集」
130 信長にとって、信忠は自慢の息子だった。
信長は、関東見物をするつもりだった。 「古今消息集」
信長は、岩村から信濃へ入ろうとした。 『信長公記』
⇒ 次回へつづく
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