本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 36 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 5 分かれ道
ここが、二人の分かれ道であった。
この辺りからである。
信長と光秀。
二人の、目指す方向に、微妙なズレが生じてきた。
見方を変えれば、それがわかる。
信長は、天下統一、さらなる夢へ。
「人間五十年」
信長は、この時48歳。
「滅せぬ者の有るべきか」
目的意識の高い男である。
「あと二年」
時間と戦っていた。
信長は、東西へ目を遣った。
一、東の武田。
先ずは、調略。
木曽の義昌。
一、西の毛利。
信長は、引きずり出そうとしていた。
「報せよ」
これは、秀吉。
因幡、鳥取。
秀吉は、その準備に余念がなかった。
信長は、着々と手を打っていた。
これらを下せば、・・・・・。
「天下布武」は、成る。
そう、見ていた。
そして、次。
「さらなる夢」
信長は、会うのを心待ちにしていた。
「伴天連ども」
イエズス会の宣教師たちである。
そして、その夢は、次第に膨らんでいく。
光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
あの時は、何も無かった。
「なれど」
今は、違う。
家族がいる。
一族がいる。
多くの家臣たちがいた。
広大な領地があり。
立派な城があり。
豊かな、田畑があり。
数多の領民たちがいた。
名誉があり。
地位もあり。
武力があった。
与力たちもいた。
明智は、絶頂期にあった。
光秀は、その家長。
自身の年齢のこともある。
後継者光慶のこともあった。
それらの全てが、己の一身に懸かっていた。
「守らねばならぬ」
そう、思った。
極めて、自然な流れだと思う。
二人の距離は、少しづつ、離れていく。
本能寺の変。
天正十年(1582)、六月二日。
これが、その一年二ヶ月ほど前の状況であった。
時は、刻々と流れて行く。
⇒ 次回へつづく