写真を使ってもらえたらうれしい話
思い返してみれば、写真について勉強し始めたのは、昔働いていた時計屋で商品撮影をしなければならなくなったからだった。ダイヤモンドや時計、サングラス、靴、ネクタイピン、いろんなものを小さいスタジオボックスで苦悩しながら撮影した。
私は写真を撮られるのが滅法苦手で、どの写真をみても笑顔が引きつっている。だから、カメラというものに縁があったのは本当に不思議なことだ。
仕事をしていない時でも撮影の練習がしたくて、自分でカメラを買った。初めてのカメラはOLYMPUSのTG-3というコンデジで、顕微鏡モードが使いたくて買った。当時は宝飾品などの小さいものを撮るのがメインだった。
魚のうろこ、菜の花の小さな花ひとつひとつ、砂糖や塩の結晶を撮って遊んだ。1月の真夜中、ベランダで雪の結晶が撮れた時はガチガチに震えながら喜んだ。いろんなものを撮った。日記のように、手紙のように撮ってはTwitterに載せた。
コンデジでは満足できなくなったころ、OLYMPUSのOM-D E-M10IIというミラーレス一眼と短焦点レンズを買った。2015年のことだ。
猫ちゃんへの解像度がグッと上がったのはこの頃だ。AdobeのLightroomもだんだん使えるようになった。ライティングや構図のことも考えるようになった。
毎日いつでもカメラを構えて、何かあってもなくてもシャッターを切った。猫ちゃんのころころ変わる表情、道端の花、夕暮れの空、蛇口から垂れる水滴、洗い立ての野菜、そういう日常の美しさを記録しておくのが好きだった。
2020年の3月にコロナが流行ってどこにもいけなくなり、4月に猫ちゃんを見送った。そこから写真とカメラに対するモチベーションが消えてしまった。私のフォトログは4月でぷっつりと途絶えている。
それから少し立ち直って、花の写真を撮流ようになった。花はどう撮っても美しいから。でも全然以前のように撮れなくて、私の写真はとても苦しそうなものになった。その中でもなんとか苦しそうじゃなく撮れたものを、今は公開している。
そういう写真でも、何かの役に立つのならいいなと思ってフリー素材として公開し始めた。猫ちゃんの喪失で、私はカメラと写真の目的と意味を見失ってしまった。でも技術と機材はまだ失われていない。
いつか、どこかで。私が提供する写真が意味を持つなら。それはとてもうれしいことだと思う。だからどうぞ、機会があったら私の写真を使ってほしい。そうしてもらえることで、私の中に新しい意味が生まれ、育つんじゃないか。そういう淡い期待を抱いている。
もっと高解像度の写真はunsplashにある。
どのように使ったか報告する義務はない。でも、どのように使ったか教えてもらえたならとてもうれしい。
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