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必要な不便利
前の記事で「好きな触感」で「木材を触る事が好き」と書きましたが
植物を見る事や自然の中にいる事も好きです。
母の趣味が「庭いじり」な事もあり、実家の庭も綺麗に手入れされたり定期的に植物が増えたりします。
20代の時には「観葉植物のある部屋がおしゃれ」という思い込みもあり、憧れを実現しようと何度も何度も植物を買ったんですが、ことごとく枯れていくんです。
日当たり?水の量?
原因が何かわからないまま何度も植物を枯らす事に罪悪感があって、結局ドライフラワーに落ち着きました。
ただ、生の植物への憧れはたまーに出てきて一時期は花を飾る生活に憧れてお花を一輪だけ飾ってたんですけど、結局水替えとか面倒だったり、茎の切り口がぬめぬめになっていくのがちょっと感覚的に苦手すぎたりして、結局ドライフラワーに戻っていました。
そんな生活を何年もしてきたのに、数か月前にまたしょうこりもなく小さな多肉植物を買ってしまったんです。
だって割引になってて。
植物で割引って何??売れなかったら廃棄なの?
なんて思って可哀想になって買っちゃったんですが、3つ株の寄せ植えの内今なんと1株がうまく成長を続けてるんです。
そうなってくると断然日々の中で気にするのは世話のいる多肉の方です。
世話と言いつつ、ほぼほぼ水を上げませんが、水を上げる目安がわかりやすくついているので、それを見逃すまいと毎日チェックしています。
そして今日なんとなくドライフラワーに最近気がいってないなぁと感じました。
改めて見てみると可愛いです。
それもそのはずで、お店で見て可愛いから買ったんです。
ただ、その時に「”部屋にドライフラワーを飾っている”という自分でになりたい」という邪まというか、そういう気持ちがあった事は確かです。
でも、そもそも植物も憧れで買ってる。
なんで今こんなにも多肉に向く気持ちとドライフラワーに向く気持ちが違うんだろうと考えて「手間がかかるか」と「変化があるか」かなぁと思っています。
時短とか、コスパとかそういった機能がインテリアや生活グッズにもつくようになって「手間がかからない」という事に対して無条件にポジティブな必要な機能ののように思いがちですが、私は「不便利」はある程度ないと生活が無機質なものになってしまうんじゃないかと思っています。
今までは「不便利」の必要性について言語化できていなかったんですが、今改めて思うと、やっぱり「五感」で感じる機会が少なくなるからだと思います。
かといって、私はいわゆる「丁寧な暮らし」ができる性格ではないので全ての事を不便利にしようとは1㎜も思っていません。
哲学を筆頭にいろいろ学問が大きく発展した事で有名な古代ギリシャのアテネですが、学問が著しく発展したのは「暇だったから」だそうです。
アテネでは暇な事が良い事だとされていたみたいで、アテネ人1人当たりに2.3人の奴隷がいて、その奴隷が家事をしたりなんだりしていたのでアテネ人はやる事がなかった。
だからいろいろ考えたり研究したりする時間があったそうです。
今日本で生きる私たちもやる事はあるけど昔の人よりは「自分時間」と呼ばれるものがあると思います。
だからいろいろ考えてこんがらがる人も、いろんなSNSやネットの中にコメントをしまくる人が出てきているだろうなと思います。
ある程度、自分の生活の中に「不便利」な事を散りばめて、余計な事を考える時間を少なくして五感を感じる時間を増やしたら今より少しみんな良い忙しさに心地よく疲れて、しょうもない事を気にする事もなく穏やかに生活ができるんじゃないかなと思いました。