「まぁるい月が出ている」


 あれは、やはり親と子の物語だったのだろうと、その写真を見て思った。

 所属する合唱団で、札幌行きの話が出たのは何年前だろう。それは毎月開いている所属する合唱団の懇親会の中での会話から始まった。団員の中で一番若いMさんが何かの話のきっかけから「実は、父親も北海道で合唱やってるんです」と言った。それを聞いた合唱団の代表が、思わず「それなら一緒に歌いたいもんだね」と合いの手を入れた。それぞれが男声合唱団で、人数もむこうが少し多い程度。そんなことも踏まえての発言だったが、その時は代表のSさんの中でも具体性は全くなかった。
 酒の席での勢い、で終わってもおかしくなかった代表の一言だったが、その一言が頭の隅に残っていたMさんが、北海道にいる父親と電話で話している時、こんなことを代表が言っていたよ、と伝えた。それはもうなんの気なしのもので、実現がどうのといったレベルではもちろんなかった。でも後から振り返ると、それはMさんの父親の胸に刻まれていたのだろう。
 故郷を離れ、都会でしっかりと根を張って頑張って生活している息子。しかも、今は自分と同じ趣味を持ち、演奏会も開いているという。そんな中でひょっこりと出た「一緒に歌ってみませんか」のメッセージが父親の胸にしっかり残ることは不思議でも何でもないことだったのかもしれない。
 それにしても、実現は難しい。お互いの団に言えることだが高齢者が多く、しかも神奈川と北海道の距離もある。さらに団員のそれぞれの予定を合わせるとなると、これはもう実現のためにはかなりのハードルの高さになる。
 言い出しっぺのこちらが札幌まで行くとしても、ただ行けばいいというものではない。もし一緒に歌うとしたら、どういう形で歌うか。細部を詰めるとなると、かなりの労力が必要になることは目に見えている。
 そんな中で、こちらの合唱団の団長の背中を押す「あること」がひょんなことでわかった。やはり飲み会の時にその話題が出たのかもしれない。指導いただいている指揮者の先生のおばあさまがアルト歌手で、札幌時計台にまつわる「時計台の鐘」の歌い手だったというのだ。
 こんな縁はもうなんとかしなくては、と代表が思ったにしても不思議ではない。
 それと同じ時期に、息子から聞いた「一緒に歌えたらいいですね」というこちらの代表の話をしっかり覚えていたMさんの父親は、やはり団長や団の指導者にその可能性について話をふっていたのかもしれない。
 そして、その二つの話が結びついて、こちらの団長と札幌の団長、指導者との間で「一緒に歌う可能性」をさぐるやり取りが行われるようになった。
 そして、結果から言うと、個々の予定を合わせる必要があるので、実現決定までには幾多の調整と幾多のややこしいことがあったと思うのだが、なんと見事にそれらはクリアされることになったのだ。
 そして、先方の札幌の合唱団の皆様にはかなりの骨を折ってもらったと思うのだが、最終的には、札幌時計台のホールにて二つの男声合唱団の「合同演奏会」実施という帰着を迎えた。誰もこんなことが実現するとは思っていなかったと思う。全ては、「実は、父親も北海道で合唱やってるんです」という一言から、そしてそれを聞いた、ちょっとした団長の思いつきから始まったことなのだ。
 人生、おつなものだね、と思いたくなるような成り行きだった。
 そして、予定通り、ちょうど平成から令和へ変わる年に、札幌の地の時計台ホールで二つの合唱団による合同演奏会が行われ、先方の責任者のお声かけだと思うのだが、地元の新聞社も取材に来て演奏会のことが記事になり、そのおかげもあってたくさんの観客が集まった。木造りの天井の高いホールは音響もよく、二つの団の声も気持ちよいほどによく響いた。そして、盛況のうちに我々の演奏会は終わった。
 その夜の打ち上げがまたすごかった。気分はもうお互いに成功の中で酔いしれ、そこにさらにアルコールが入る。お互いに初対面どうしにも関わらず、杯を重ね、忌憚なく歌について人生についてそこかしこのテーブルで話に花が咲く。
 何と、先方の合唱団の中には、第1次南極観測船の「宗谷」に乗った人もいた。
 また、男声合唱の曲として有名な多田武彦作曲の組曲に「吹雪の街を」という歌があり、その作詞者が詩人伊藤整なのだが、彼にまつわる話を聞いた。組曲の一曲目に「忍路」という歌があるのだが、端折ると、「枯れた林の傍をのめるように直滑降してから~吹雪の忍路の村を覗いた~そこに頬の淡い、まなざしの佳い人があって、浜風のなでしこのようであったが」という歌詞なのだ。この詩だけ読むと、かっこうのいい詩人がさっそうと村の中を歩いて、美しい一人の少女と出会い、お互いに交流を重ねて、としか読めないのだが、地元の人はやはりよく知っているもので、その人はこう言った。
 「あれはね、どう見ても夜這いです。今で言うと、犯罪ですよ。だってその気がない女の子のとこへ無理やり訪ねるんだから、強引にね」
 何かメルヘンチックな素晴らしい詩の世界に余計な茶々が入ったようにも感じたが、その反面こういうこともおもしろいと思ってしまう性分なので、その人の言葉を興味深く聞いた。たぶん、詩の世界に限らず芸術の裏には様々な実話、逸話もあるのだろう。
 会の中では、この演奏会実施にむけての経緯も説明され、もちろんMさんとその父親もそれぞれマイクを持って挨拶した。普段、周りに気を使いつつ冷静に行動するMさんが、傍から見てもわかるほど高揚していた。父親ともども、とびきりの笑顔だった。
 そんなこんなの打ち上げも終わり、翌日はサッポロビール園で、こちらだけのメンバーでふたつめの打ち上げをした。美味しいジンギスカンに美味しいビールで、たぶん団員のみんなが幸せな気分に包まれていたのだと思う。
 
 それから何年かして、所属する合唱団の50周年の演奏会と、それを祝う会が催された。企画のひとつをこちらが考え、「50年前はこんなんでした」というアルバムを作ろうと、それぞれの個人写真を集めることになった。なにせ、ずっと前のことなので、人によっては写真がない人もいた。その中で、合唱団で一番若いMさんが提出したのは、どこかの湖畔で彼が父親に抱かれている写真だった。もちろんまだ幼子だ。
 その写真を見て、札幌での演奏会のことを思い出した。そして、思った。あの演奏会の全てはこの親子から始まったことなのだ、と。

 そして、また思い出した。美味しいジンギスカンと美味しいビールをいただき、サッポロビール園を出て、すっかりとほろ酔いで空を見上げると、満月が出ていた。他の人々もその月を見上げたり談話したり笑い合ったりそぞろ歩きしたりしている。もう一度夜空を見上げる。演奏会の成功を祝うような、我々の人生を祝福するかのような、そんな見事なまぁるい月だった。


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