「松本にて」


 古い記憶が何かのきっかけで他の記憶と結びつくことがある。

 新しい日本語学校を立ち上げるための必要な過程を踏むため、松本に来た。駅から程近い学校を訪ね、参考になる話を聞くためだ。それをレポートにまとめ、立ち上げのための資料にするという目的なのだ。
 仕事は順調に終わり、他の職員は日帰りで帰ったのだが、こちらは一泊することにした。この地へはずっと前に家族と来ており、再度松本城付近を散策し、前の記憶を確かめたいと思ったのだ。もう夕方の時間だったのでその目的は翌日にまわし、駅近くのビジネスホテルへチェックインした。アパホテルやドーミーインの流れからか、最近は立派な浴場を完備したところが多く、そのホテルも温泉付きを謳っていた。
 さっそく仕事の汗を流し、少し日の落ちかけた街を散策して目にとまったアイリッシュパブで1パイントのビールを何種類かのつまみでゆっくりと。仕事で来たとはいえ、もう既にそれは終わり、あとはこちらの時間となればもうすっかり旅行気分である。
 ほろ酔いで店を出、帰り路にあったコンビニで缶ビールとサンドウィッチを購入し、部屋へ帰って、テレビを見ながらゆっくりと夕食タイム。こんな時間は本当に最高だ。
 長野に大学時代の友人がおり、何年か前に彼が上京した折、久しぶりに一杯やり楽しい時間を過ごした。松本と彼のいる所はどのくらい離れているのかわからなかったが、せっかくここまで来ているのだからと電話してみた。かなりの距離があることがわかり、ではまた機会のある時にと声だけ聴いて電話を切った。
 翌日、予定通りゆっくりと松本城周辺を散策する。家族と来たときに歩いた道を探す。確か幅の広い車の通る道に面した店の二階で昼食を食べたのだが、歩き廻っても記憶にある道は分からない。かなりの年数が経っているので、風景自体がすっかり変わってしまったのだろうか。「あの道」は確かに記憶に刻まれているのだが、そこへ辿り着けないもどかしさ。
 諦めて、松本城へ上って周りの風景を眺めた時、窓の下の表示に「旧開智学校」とあって頭の中でピンと音がした。ひょっとしたら、記憶の隅にあり、あれはどこだろうと思っていたのは開智学校かもしれないと思ったのだ。昔の学校の教室に昔の机と椅子が並んでおり、懐かしい木造りの匂いとで急に時代が揺り戻る感覚。幼い頃訪ね、記憶にはあるのにそこがどこだったか正確に思い出せないもどかしさ。確か校庭を横切った記憶もあった。
 訪ねると、まさに「そこ」だった。幼い頃の「あそこ」は「ここ」だったのだ。何か時が瞬時に過去へ飛び、懐かしさでいっぱいになる。
 あれ、家族で松本へ来た時にはここへは寄らなかったのだろうか、とその次に思った。有名な観光資源なので、寄らないはずはないと思うのだが、もうその時のことはすっかり頭から抜け落ちてしまっている。
 結局、「あの道」を探せないまま、しかしなつかしい「旧開智学校」に辿りついたことで満足して帰りに新幹線に乗った。
 ここで、話は終わらないのである。松本から帰ってしばらくした休日の夕方、過去のアルバムの整理をしていた。ああ、こんなこともあったな。ああ、あの時の山行の写真だなどと、だんだんと過去へと遡る順番でアルバムを繰っていたが、ある写真を見て愕然とした。
 今よりずっとずっと若い自分が友人と写真に納まっている。問題は人ではなく、そのバックに映った風景なのだ。後ろにあるのはあの「旧開智学校」ではないか。友人が五平餅を食べて気分が悪くなったという変なことは覚えていた。たぶん、その時の旅行で訪ねたのだろうが、その際の「旧開智学校」の記憶は見事なほどするりと欠落していたのである。
 どうにも記憶というやつは、へんてこりんなものであるなあ。


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