「公園の手品師」

 土曜日の昼下がり、何気なくテレビの番組表を見ていたら「小三治追悼特集」という文字が目に飛び込んで来た。些事のことにせよ、自分の運を理由もなく信じられるのはこういう時だ。見逃さないで済んだ。。
 既に番組が始まって10分経っていたので、慌ててテレビの電源をオンにした。
 正蔵との対談、「まくら」のさわりを集めた映像、そして最後に小三治にしか演じられないだろうと思われる駄々っ子が白眉の「初天神」全編まで。あっという間に番組は終わり、エンドロールになったが、そこで流れたのがフランク永井の「公園の手品師」のメロディーだった。最初はそれとわからず、あれ、聞いたことあるなと思った次には彼の声が耳元で鳴っていた。テレビの中では音楽のみだったが、自分の頭の中では彼の歌声が鳴っていた。
 フランク永井と言えば勿論「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」が定番で、この曲はあまり知られていないかもしれないが、隠れた名曲だと前々から思っていた。軽やかなメロディーが彼の低音の声と不思議に調和している。歌詞もいい。「イチョウは手品師老いたピエロ、薄れ日に微笑みながら季節の歌を~歌っているよ、秋がゆくんだ冬がくる、イチョウは手品師老いたピエロ。。。」
 番組が全て終わり「ああよかった、見られて」と思った次の瞬間、ひとつの疑問が頭をよぎった。どうして、この番組の作り手は最後にこの歌を流したのだろう。それはプロデューサーであるかもしれないし、スタッフの意見を採り入れてのものかもしれない。本当のところはわからない。でも、そこに何か意味があるはずだと考えずにはいられない。ただ単純に、枯れる前のイチョウの輝きを小三治の晩年に仮託したのだろうか。それでは単純過ぎると思ってしまう。そしてついつい思考は巡るのだ。

 小三治は81歳で亡くなる直前まで高座に上がり、まさに最後の最後まで芸の道に生きた。かたやフランク永井は、というと、53歳の時に自殺を図るも夫人に発見され一命はとりとめたものの、好転した時もあったようだが最後は脳障害が残り、最晩年は幼児レベルの知能状態だったとも伝わっているそうだ。このあたりに、番組制作者がエンディングにこの歌を使った理由があるのでは、と想像してしまう。実際には全く関係ないかも、にしてもだ。
 どちらも最高のポジションを極めて、そして最後まで芸を極め続けた者、だからこそ途中でそれを放棄した者。
 その極端な二律背反の典型としてこの曲が使われたのではないだろうか。
 「公園の手品師」の中の「イチョウは手品師老いたピエロ」というフレーズがやはり特に印象深い。これから冬が来る晩秋の中で木々は赤に黄にと人々に万華鏡を見せる。それを100パーセント美の世界と捉えて見とれる人もいるだろうし、まもなく枯れてゆく定めをそこに見て惹かれる人もいるだろう。(日本人はこちらが多いだろうか)
 40歳で亡くなって早かった、100歳まで生きて大往生だった、その人の亡くなる年齢に対して人々は色々な感想を言うが、実はもっと長い地球の寿命、太陽の寿命、宇宙の寿命に比べれば、人の一生は本当に微々たるものだ。大事なのは、その時いかに懸命に生きたかだ、ということを暗にメッセージにしたくて、小三治とは対極的な生き方をしたフランク永井の、しかも「老いたピエロ」という印象的な言葉のある「公園の手品師」をエンディングに置いたのではないだろうか。
 考え過ぎ、とは自覚しながらも、こうして色々と思いを巡らせるのは楽しい。
 この歌をエンディングに決めた番組制作者が小三治のファンであり、また同時にフランク永井のファンでもあったということならいいなと思う。
 そしてまた、こういう話は聞いたことはないが、ひょっとして小三治が実はフランク永井のファンで、よく彼の曲をお風呂の中で歌っていた、などと想像するのもまた楽しいものである。


追記  

 これを書いてから、小三治の「ま・く・ら」を読み返していたら「フランク永井のゴルフ」というまくら(文章)があった。実は二人はよく一緒にゴルフをしている仲で、ちゃんと接点はあったのだ。すっかり忘れていた。フランク永井の打つボールはみんなスライスで、最初から隣のコースへ向かって打っていたというところでは笑ってしまった。再読の価値を改めて再発見した。

 



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