ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌 #03

参   最後の夜叉
 
 
神山――
頂上を挟んで鬼太郎と楓とは、ちょうど反対側の山道を下っている者がいた。
さとりである。
髪の毛針の直撃を受けて傷を負った尻が痛むのか、ひょこひょこと足を引きずるようにしながら、ゆっくりとした歩調でおそるおそる歩いていくその姿は、敏捷性が自慢のさとりとはとても思えない。これではただの〝ノロマな大鹿〟である。
「ああ、ひでえ目に遭った。くそっ、あの偽善妖怪め! 色気を出し過ぎちまったぜ! こんなことになるんだったら、無理して攻撃なんぞ仕掛けるんじゃなかった……」
 晒(さら)してしまった醜態は、もうあのお方の知るところとなっているだろう。いったいどんな言い訳をすればいいのか。「鬼太郎を連れてこい」――それが自分に下された指令だった。ちょっとしたいたずら心から、つい調子に乗り過ぎたために、その命令を果たせずに逃げ帰ることになってしまったのだ。なんらかの懲罰は免れまい。それを思うと気が重かった。
 いっそこのままトンヅラこいちまおうか……さとりの脳裏にふとそんな考えがよぎったとき、彼の目の前に一人の男が立ちはだかった。
「あん……?」
 男に目をやるさとり。見憶えのない奴だった。
 顔が半分隠れるほど長い黒髪を、腰の辺りまでまっすぐに伸ばし、どこか異国風の装束に身を包んでいる。腕に抱えているのは……たしか胡弓(こきゅう)、とかいっただろうか、これも異国の楽器のはずだ。
 ここで、さとりにもぴんときた。
「はは~ん、わかったぜ」といいながら、唇を歪めて男に近づくさとり。さっきまでの弱気な表情は顔の奥に閉じ込めて、精一杯の虚勢を張った態度で男を睨みつける。
「異国から招かれた客分ってのは、あんたのことかい。わざわざお出迎え、ご苦労さん。俺は、さとりってもんだ。ま、あんたの先輩ってわけだな。よろしく頼まあ」
「……」
 男は無言だった。いや、声だけではない。黒髪に隠れた端正な顔にも感情らしきものはなにひとつ浮かんでいない。
完全なる無表情。完璧なる沈黙――それが男の返答だった。
 その不遜(ふそん)な態度に、さとりはかちんときた。
「なんだよ、だんまりか? 無駄だ、俺は心を読めるんだぜ。……まあ、仲間の心を覗き込むような無粋なまねはしねえがな」
 さとりが「仲間」といったとき、男の顔にほんのわずかだけ、注意深く観察しなければ見過ごしてしまうほどの、かすかな、かすかな表情が浮かんだ。その表情とは――侮蔑。
「なんだ、その態度は! てめえ、心、読むぞ!」
「……」
 男が再び完全な無表情に戻ったとき、さとりは彼の心を覗き込んでいた。精神を集中し、心のひだを一枚一枚剥いでいく……その向こう側に必ずあるはずなのだ、相手の感情が、心理が、思いが……ところが――
「な、なんだ、これは!?」
 そこにはなにもなかった。いや、あるにはあったのだ。だが……それは果てしなく、どこまでも続く闇、また闇……。男の心の中には、闇しか存在していなかった。
「そ、そんな……俺が心を読めない奴など、この世にいるはず――」
 狼狽し、混乱するさとりの前で、男が初めて動きを見せた。抱えていた胡弓を腰の位置で構えると、手にした弓でおもむろにそれを奏で始めたのである。
!?
 これまできいたことのない、複雑で、そして不快な響きを伴った不協和音が、さとりの耳に飛び込んできた。不協和音は一音ごとにその音量と音圧を高めながら、さとりの全身を包みこんでいく。さとりの全感覚器官が悲鳴をあげ始めた。
 目には、色とりどりの無数の光。
 耳には、鋭利な刃物のような金属音。
 そして全身には、皮膚を這いまわり、生き血をすする山蛭(やまびる)のような感触――
 それらが渾然一体(こんぜんいつたい)となって、さとりのすべてを呑みこんでいった。
「ぎゃああああああああっ!!」
 断末魔――さとりの大きな体が、朽木が倒れるように地に伏した。
 あいかわらずなんの感情も示さないまま、さとりの最期を見届けた男は、弾いていた胡弓を抱え直すと、踵を返していずこかへ去っていくのだった。
 
       ※※※※※
 
 そこは〝異形たちの村〟だった。
遠い昔――遠い異国の最果ての地に、その村はあった。
 そこに住む者たちはみな、人間ではなかった。「人間以外の何者か」だった。かといって、彼らすべてがみな同じ種族だったというわけでもない。その外観も、性格も、そして生まれもった特殊能力も、それぞれ異なる複数の種族たちが「たまたま」集落を形成していただけだ。
 ある者は人間の魂を好んで喰らい、永遠の生命を保っていた。
 ある者は夜の人里を徘徊し、目についた人間たちの生き血を吸った。
 そして、またある者は一子相伝の蠱毒の術を用い「ヒ一族」なる生物を生み出すことで、人間ならぬ妖怪と呼ばれる者たちの天敵となる道を選んだ……。
 その村に住む異形たちを、近隣の人間たちは恐怖と畏怖とを込めて、こう呼んだ。
「夜叉」――と……。
 
 夜叉たちの村にもいちおうの秩序が存在した。彼らの中で知性、感性、体力、そして特殊能力に最も秀でた者が、いわば族長としてすべての夜叉をまとめていたのだ。族長ははるか昔よりひとつの血統が独占していた。実力者揃いの夜叉たちの中でも、その血統を継ぐ者と互角にあいまみえることができる者は、過去の歴史上ひとりも存在しなかったのである。
人間と夜叉との間にあるのと同じか、ひょっとしたらそれ以上の圧倒的実力差が、族長の血筋と他の夜叉たちとの間に横たわっていた。族長の血統こそが、いわば「夜叉の中の夜叉」――名実ともに、夜叉の王だったのだ。
 
 その子供は、族長の長男として生を受けた。村の夜叉たちは未来の族長の誕生を祝った。族長の血統が続く限り、村もまた永遠に滅びることはない。新しい命の誕生は、夜叉の未来への祝福だった。
 父である族長から、その能力のすべてを受け継ぎ、そして戦いの技術の粋を教えこまれながら、子供は若者へと成長していった。
 
 彼の素質は父をすら驚かせた。彼らの血統が始まって以来、最も才能に恵まれた夜叉こそが、まさしくその若者だったのだ。このまま成長し、やがて彼が族長の地位を継いだとき、夜叉の村はさらなる発展を迎え、近隣の里はおろか、この国に住むすべての人間、いや、妖怪や悪鬼にいたるまで、すべての者が夜叉一族にひれ伏すことになるはず――夜叉たちはそう確信していた。
 しかし――
 
 その若者は優しすぎた。
 彼は無益な殺生を嫌った。
人間を襲わないというだけの意味ではない。動物も、虫けらも、草花も……この世の生命あるものすべてに、彼は愛と情とを捧げていた。
一度、自身の不注意から山犬を死なせてしまったときなど、彼は自らの手でその山犬をていねいに埋葬した。後悔と懺悔(ざんげ)の涙を流しながら、墓穴を掘り、山犬の亡骸を埋めた。葬儀という概念自体が、夜叉一族には存在しないというのに……。
 
そして、あるとき――彼は恋をしたのだ。それも、あろうことか、人間の女に!
夜叉にとって、人間とは「狩りの対象」である。心を通わせる相手などではない。単なる獲物であり、収穫物――それが人間という生き物なのだ。にもかかわらず、族長の後継者ともあろう者が、その収穫物と恋に落ちてしまった……。父である族長にとっても、他のすべての夜叉たちにとっても、それは到底、容認できることではなかった。
 
 族長は、息子である若者の中にある「優しさ」と「甘さ」を、それまではあまり気にとめることもなく、そのまま放置してきた。心配せずとも、いつかは「夜叉の本分」に目覚めるときが来ると、そう楽観視していたのだ。だが、その結果が今回の醜態である。自分の教育方針が間違っていたのだと、族長は認めざるをえなかった。
ゆえに族長は決意した。
息子の将来のため、夜叉一族の未来のため……荒療治が必要である、と。
 
 その日は、年に一度の祭りだった。
 村中の夜叉が族長の屋敷に集まり、盛大な宴が繰り広げられるのだ。族長の息子である彼も当然、出席しなければならない。
 若者にはひとつ気がかりなことがあった。昨夜、愛する女との逢瀬に出向いたとき、約束の場所へ女が姿を見せなかったのだ。これまで、ただの一度とて、交わした約束を違えたことなどなかったというのに……。
胸の奥に不安の澱を淀ませながら、若者は宴の席へと就いた。父である族長は、ひどく上機嫌だった。息子を自分の隣に座らせると朗らかな声でこういったのだ。――今宵はお前のために、特別料理を用意させた……と。
そして目の前に運ばれてきた、〝特別料理〟を目にしたとき、若者の体は硬直した。大きな皿に盛られたその料理とは……彼の愛する女の、変わり果てた姿だったのだ。
目にした光景が信じられず、無言のまま、ただ震えている若者に、父がいった。
人間の肉を喰らい、肝をしゃぶり、生き血をすすって、夜叉は初めて夜叉となる。しかも、それが己と心を通わせた相手のものであるのなら、まさしく申し分はなかろう……と。
さあ、喰らえ、と父は続けた。
肉の一片、血の一滴、骨の一本まで喰らい尽くして、今こそお前は夜叉になるのだ……!
族長に続いて、宴席に集った他の夜叉たちも声を合わせた。
喰らうのだ。
しゃぶるのだ。
すするのだ。
そして――夜叉になるのだ……。
若者の理性は、そこで断ち切られた。
 
 ほんのしばしの時が流れた。
 夜叉の村で、息をしている者はただ独り……。若者だけだった。限度をはるかに超えた憎しみと怒りとが、彼の中に眠っていたすべての戦闘本能を一気に覚醒させたのである。
 若者の腕は、生まれて初めて「殺戮(さつりく)」のために振るわれた。目に入った者はすべて引き裂き、臓物を掴みだし、骨を粉砕した。
 殺した、ひたすら殺した。殺しまくった。犠牲者の流した血で全身が真っ赤に染まり、それがやがて乾いて、どす黒く変色するまで、若者は殺戮をやめなかった。
 そして一番おしまいに彼が手をかけたのは――父である族長だった。
父の望んだ通り、いや、望んだ以上の〝夜叉〟として目覚めた息子を前に、父は満足げな笑みをもらしていた。
 そう、それが夜叉だ。お前は今日、このときより、本物の夜叉となったのだ。
「最後の夜叉」に――
 
 若者……いや、最後の夜叉は、その日からいっさいの感情を捨てた。
 
       ※※※※※
 
ほの暗い地下空間の奥深く――
 設(しつらえ)えられた祭壇の前で、ぬらりひょんは黙想し続けていた。目の前ではかがり火がゆらゆらと揺れながら、ときおり周囲を思いのほか明るく照らす。その揺れる炎が天井の闇の向こうを、一瞬だけ映しだした。
 それは、胎動していた。どくんどくんと脈を打つように、規則正しく、まるで生き物のように、闇の奥でうごめいていた。
ちらと天井に目をやったぬらりひょんが、それとほとんどわからないくらい、ほんのわずかだけうなずく。天井はまたすぐに闇に覆われた。
 ぬらりひょんの背後では、書き付けらしき物をひろげながら、蛇骨婆が数を数えている。
「九十六、九十七、九十八……九十九! しゃっしゃっしゃっ……」という満足げな笑い声が、蛇骨婆の唇からもれた。
 と、かがり火の炎によってつくられた影の中から、何者かの姿が立ち上がってきた。直立した影法師のように真っ黒だったそれは、すっかり屹立(きつりつ)すると、すぐに和装の女の姿をとった。
 白装束。
 長い黒髪。
そして、頬に幾重にも貼りついた銀色の鱗(うろこ)……。
「かごめ女」……いや、濡れ女、だった。
 気配に気づいたぬらりひょんが、振り返らぬまま背後の濡れ女に視線を送る。蛇骨婆もまた、彼女を出迎えるように、座っていた椅子から立ち上がった。地面の上を滑るように移動しながら、ぬらりひょんに近づいてきた濡れ女が、か細い声でいった。
「ぬらりひょん……私との約束は憶えていような?」
 濡れ女に背中を向けたまま、ぬらりひょんが応じる。
「案ずるでない。魂をすべて集めたら、お前をもとの美しい姿に戻してやろう」
 蛇骨婆が続けた。
「我らが欲しいのは、古(いにしえ)の修験者、鬼道衆が末裔の魂じゃ。ほれ、この書き付けに記された家系図のうち、残るはただひとつ! 比良本楓……。よいか、とり逃すでないぞ」
「……」
 無言でうなずく濡れ女。現れたときと同じく、地面に映った影の中へと音もなく姿を消していく。それを見届けてから、蛇骨婆がぬらりひょんの背中に声をかけた。
「それにしてもじゃ、ぬらりひょん。そなたには本当におそれいったぞ。あの濡れ女を抱きこむとはのう……」
 ぬらりひょんはなにも応えない。構わずに続ける蛇骨婆。
「魂の扱いにかけては、あやつら人魚族にかなうものはおらぬ。実に役に立つわい……」
「道具、としてはな……」
 ぬらりひょんの言葉からは、なんら感情を読み取ることができなかった。長年の側近であるはずの蛇骨婆をもってしても、である。
 そのとき、背後の空間に冷気のようなものが走った。いや、冷気ではない。絶対零度の氷の精神を持つ者のみが発する、冷たい殺気だ。ぬらりひょんの背中がぴくりと動いた。殺気の主は、夜叉――秘伝の音響妖術によって、さとりを惨殺したあの男だった。
 ぶるりと身を震わせた蛇骨婆が、夜叉に向かって声をかけた。
「なんじゃ、誰かと思えば夜叉ではないか。……役立たずの始末は済んだのか?」
 いいながら歩み寄ってきた蛇骨婆の目の前で、手にした胡弓の弓を振るう夜叉。危うく身をかわしながら、蛇骨婆が声を荒げた。
「なにをする! いかに異国の客分とはいえ、無礼にも程があるぞ!」
「……」
夜叉は応えない。ただ無言のまま、祭壇の間(ま)の片隅にすっと腰を下ろすのみ。蛇骨婆がさらに言葉を続けようとしたとき、その着衣の袂(たもと)がはらりと切れ、落ちた。
「!?」
動きを止めて、夜叉を睨みつける蛇骨婆。夜叉のもつ弓からは、鋭い刃が覗いていた。
 弓剣――夜叉の武器のひとつである。その切れ味をさっそく見せつけられ、さしもの蛇骨婆もまるで毒抜きされたように押し黙ってしまった。
 ややあって、ぬらりひょんが口を開いた。
「出かける」
 蛇骨婆が首をかしげた。
「そなたが外へ? いったい、どこへ行く気じゃ?」
 ゆっくりと振り返りながら、ぬらりひょんが答えた。
「……幽霊族の末裔に、用がある」
 座っていた夜叉が、すっくと立ち上がった。
 
       ※※※※※
 
 ゲゲゲの森の奥深くに建つ、鬼太郎の家。その下に人待ち顔の猫娘がいた。
表情に落ち着きがない。もう何度めになるだろう、そわそわと森の入り口のほうへ目を凝(こ)らしてみる。……と、猫娘の顔が初めてぱっと明るくなった。
「鬼太郎!」
 思い切り手を振って、かなたを見やる。が、次の瞬間にはせっかく明るくなった表情に一抹(いちまつ)の曇りが生じていた。猫娘はしっかりと見てしまったのだ。帰ってきた鬼太郎の横にいる人間の少女の顔を。出発前とは明らかに異なった、楓の表情を。隣を歩く鬼太郎に向けられた楓の視線の中には、かつてあったような猜疑心(さいぎしん)や、それに若干の敵意がかけらもなくなっていた。そこにあったものは……そう、信頼と親愛のまなざし……。
 生じた曇りをなんとか払いのけると、猫娘は二人のもとへ駆け寄っていった。
「おかえり、鬼太郎! 無事でよかった」
「ただいま。大丈夫だよ、猫娘。あのくらい屁でもないさ」
 そういって胸を張る鬼太郎に、楓が心配そうな声で話しかける。
「でも……本当に大丈夫ですか?」
「平気だってば。心配症だな、楓ちゃん」
 猫娘はもうひとつ気づいた。変化していたのは楓だけではない。鬼太郎も、だ。
 五月病とか、反抗期とか、猫娘自身も揶揄(やゆ)したあの無気力な雰囲気が、たった半日離れていただけできれいさっぱり消え去っている……。神山でいったいなにがあったのだろう。猫娘の心が再び曇りがちになった。
「私のために、本当にごめんなさい」といいながら、鬼太郎に頭を下げる楓。それはどういう意味なのか?――と問いたい猫娘だったが、ぐっとこらえて鬼太郎にいった。
「ねずみ男の奴、絶対になにか知ってるわ。磯塚の祠を暴いたのも、たぶん偶然じゃないわね」 
 ぼりぼりと頭をかきながら、鬼太郎がうんざりした口調でいった。
「ねずみ男が余計なまねをするのは、今に始まったことじゃないさ」
「ごめんね。締めあげて白状させようとしたんだけど、あいつ、逃げ足だけは速くって」
「いいさ、ほっとけよ。……それより、おばばたちは?」
「あ、そうそう――」と応じながら、鬼太郎の家を指さす猫娘。
「みんな待ってるわよ。さ、早く!」
 頷いた鬼太郎の顔に、それまでとうってかわった緊張の色が滲んでいた。

――「#04」へ続く――

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