連載「須田一政への旅」第10回
須田さんが この現在の神田にいたら、なにをどう撮っていただろう
「角の煙草屋」を探して
須田一政さんは神田須田町の出身ではなく「神田富山町」。昨今はそうした地名も行政的にほどよくまとめられてしまったが、久しぶりに歩いた須田さんの旧家の近くには「神田紺屋町」、「神田北乗物町」という江戸期からの町名も残っていた。須田さんが江戸っ子であることのなによりもの証明だ。80年代から90年代にかけて、須田ゼミの授業や須田さんの個人ギャラリー、「平永町橋ギャラリー」へと毎週のように神田に通っていたことを思い出しながら、真夏の神田駅界隈を「煙草屋」を探して黙々と歩いた。
須田さんの「東京」を撮った作品は、「わが東京100」、「人間の記憶」、「現代名所図絵」など数多いが、私にとっては1980年にカメラ毎日に連載された「角の煙草屋までの旅」が至極の名作だ。「私の写真人生で地味ながらも大きな位置を占める」とご本人がいうように、東京の写真日常を素朴に記した映像詩のようなものだ。2011年に刊行された同名の写真集には掲載されていないが、実は連載当時、写真の下には増田れい子さんの珠玉のエッセイが付いていた。だからだろうか、須田さんの写真がそれまでの「東京」に比べ柔らかい。切々というか、日々シャッターの余韻を一人静かに楽しんでいるような親近感があった。
一人で食事をするお父さん、蕎麦屋、酒場のギター弾き、三社祭、痔の病で入院した病院の看護師と影絵。お見舞いの「じゃこ」。そこにはストロボ光で一瞬を凝結させるような鋭い切れ味はない。須田さんは多分、はるか遠くを見ていたのだと思う。その時代よりもっと遠い、かつての「東京」を。自らのイメージの虜になるのではなく、東京の暮らしのささやかなディテールをなぞっていた。愛おしいものとして。そこからは近所のよしみに加え、多少の照れを見せながらリラックスしたシャッター音が聞こえてくる。神田から上野、そして浅草に流れながらも感傷的にはならず、近所全般の短い旅を楽しんでいた。
神田の今の風景に戻ろう。駅前に連なるおびただしい数の居酒屋など混沌とした風景は変わらない。記憶を元に探したら「笹鮨」や「神田新八」という懐かしい店もいくつか残っていた。須田さんの応接室、いや教室でもあった「珈琲園」も再開していた。しかし風情あるガード下にひっそりとあった「成人映画専門館」も「キャバレー」もない。「ガールズバー」ぐらいがちょっとしたドキドキ感か。須田さんがこの現在の神田にいたら、なにをどう撮っていただろう。「愛しい東京」はそこにまだ果たしてあるものか。そっと後ろからフレームを真似てみたかった。
日本カメラ2020年10月号