連載「須田一政への旅」
いつも遠からず、近からず、
写真家須田一政の写真と人となりを現場で見ていた
2020年1月号より12月号まで日本カメラに連載した記事を再録
第一回 「眼」の写真
昨年(2019年)の3月に他界された須田一政さんの写真について改めて落ち着いて考えてみたい。
私は長年、写真学校で須田さんの助手を務めていたが、プライベートな出来事を多く知っているわけではない。かといって事務的な補佐に徹してもいなかった。いつも遠からず、近からず、写真家須田一政の写真と人となりを現場で眺めていた。記憶は断片的で錯綜する。しかし幸い常に新作を志向してきた須田さんの膨大な写真群がある。これらを手がかりとして、過去にフラフラと遡行して行きたいと思う。
新刊「GANKOTOSHI」(2019・Akio Nagasawa Publishing) は看板の「眼」の写真が連なっている。なぜ「眼」なのか。どうしても解き明かしたい不思議がここにある。
須田さんが自らの手でセレクションした最後の作品集。解説ページで長澤章生氏が紹介しているように「街中にある眼の画像が気になってついつい撮ってしまう。自分でも何故それを撮っているのか分からない」と須田さんは語っている。何かに誘われるようにしてスーッと忍び足で対象に近づいていく撮影方法は、もちろんこの「眼」の看板だけに限らず須田さんの撮影方法のひとつ。ハッセルブラッド500CMを構え、看板を熱心に撮っている姿こそ奇妙そのものだが、ご本人は眼と対峙するというよりは、それら眼の中、身体の中に吸い込まれていくような妙な感覚を感じていたのではないか。シュールレアリズムを体現するような経験。そこにはどうしても「つげ義春」の世界への深い傾倒が感じられる。
つげ義春の名作「ねじ式」(1968)には、腕の血管を押さえた少年が「ちくしょう目医者ばかりじゃないか」とつぶやきながら眼の看板ばかりある街をうろつく絵がある。元は「台湾」の街角の写真だといわれているように、眼科の多いこの台湾へ、須田さんも何度か訪れ写真を撮っている。街角をうろつき執拗に眼の看板を探しつつ、猥雑で混沌としたイメージを同時に捕獲したはずだ。須田さんが80年代初め、初めて訪れた「海外」は香港だったが、次が台湾。「昔の東京のような街だった」と当時興奮気味に話していた。そんなエアポケット感の中で頼りになる羅針盤が他ならぬ「眼」であるとしたら、台湾であろうが、東京であろうが変わりなく胎内回帰への欲望を抱えながら、迷宮のような街を彷徨う至福を手に入れていたのだろう。つげ義春が描くところの終わりのない物語と重なる須田写真の入り口が、「眼」からさらに奥へと広がっていく。
日本カメラ2020年1月号