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私の人生にちょっぴり関わってくれた西田敏行さん

今日、
身内でも友人でもなく、
著名人が亡くなったと聞いて、
初めて声を出して泣いてしまった。
 
西田敏行さん。
 
……………………………………….
 
中学の時は暗くて大人しく、目立つことなどない子供だった。
 
高校で演劇に出会い、夢中になった。
なんだか周りが変わって見えてきた。
 
演劇部の顧問教師が異端児で、
愛媛松山の厳しい女子高の校則を破り「演劇部員に演劇を見せるため」
劇団四季や青年座など連れて行ってくれた。
もちろん制服を着て、きちんと高校生として観に行った。
顧問は学校から毎回処分を受けたけれど。
 
そんな顧問が連れて行ってくれた「冒険ダン吉」という舞台を、
もう演劇に夢中になっていた高校三年生の時に観た。
東京に行くと決めていた17歳の時だった。
 
舞台を見ながら、泣くシーンでもないのに涙が止まらなかったのは、
「ダン吉」を演じる西田敏行さんに感動していたからだ。
 
感動と共に幕を閉じた直後、私は走り出した。
演劇部で行動していたのに、1人走っていた。
松山市民会館の左側を。
楽屋がどこにあるのかも、よくわからないのに。
 
通路を走り、
たくさんの止める人を掻き分け、
「西田敏行様」と書かれた部屋を見つけた。
とにかく人が私を止める。
でも、ドアを開けた!!
 
羽交い絞めにされた。
 
「あれ~どーしたの?」
「やめなさいよ、制服の女の子に」
 
西田さんが言ってくれ、羽交い絞めから解き放された。
 
「どしたの?ん?」
ドーランを落とそうとしている時だった。
「感動しました!私、青年座に入りたいです!!」
私が叫ぶと、
「ありがとうね~」
「あ、この人青年座で一番偉い人だから、名前言っておきなよ」
 
横にいたのは座長の森塚さんで、
「あー 言わなくていいよいいよ、直ぐ忘れるから」
 
「そんなこと言うなよ~」とにこにこしながら答える西田さん。
 
もちろん名前は言ったけど、
その後すぐ、また羽交い絞めのようにされ連れ出された。
 
「みっちゃん、どこいっとったん」
心配してた演劇部の仲間に何を言ったのか、全く記憶にないけれど、
18歳になったばかりの春、
私は、「青年座」研究所の試験を受けるため神宮外苑前駅に降りたった。
 
修学旅行の観光地以来の、、いや全然違う都会。
試験を受ける「青年館」と一緒の方向に歩いていた、すごく綺麗な人から声をかけられた「あなたも青年座?」
東京生まれでモデルをしているらしい「ふあ~凄すぎる!」
 
試験は、頭の中が真っ白で、なんとかやり切りはしたが、、
あまり記憶がない。
が、
私は何を思ったか終わった後、試験会場に戻ったのだ。
審査員に「ちゃんとできなかったから、もう一度やらせてください!」
あり得ないけど、やってしまった。
 
「あのね、いま貴女が、もう一度やらせてくださいって言っている、その言葉、
なまってるの!」
「まず方言直して来なさい!」
 
もの凄く
衝撃だった
 
だって、なにより、なまり、です。
 
だから、言われた足で、
私は恵比寿にあった「東京アナウンス学院短期コース」に入会した。
 
 
その後、青年座の研究生の募集は直ぐにはなく、劇団民藝を受けた。
しばらくはその道で進んだけれど、
新しい女性の仕事として雑誌に紹介されていた「フラワーデザイナー」とやらを目指すことになった。
 
商店街の花屋から西新橋の花屋、ロサンゼルスの花屋、
その後は芸能界やデザイン界での需要が多かった花屋で一番長く働いた。
だから俳優のお客様もたくさんいた。
真田広之さんと手塚理美さんのウエディングブーケも作った、中井貴一さんも常連で、、いつか会えると思っていたのに‥‥。
 
西田敏行さん。
一度しかお会いできませんでした。
 
高校三年生の時の「あの時」が、松山から飛び出す私の行動力となりました。
花屋として雑誌のインタビューを受けることもあるようになった時に、
好きなタイプは?と聞かれると「西田敏行さん」と答えていました。
 
大切な思い出と共に、大切にしていた存在でした。
 
西田敏行さん。
私の人生に、ちょっぴりだけど、かかわってくれた。
今でもはっきりと思い出す、
ドキドキして、暖かい記憶。

ありがとうございました。
 
ご冥福をお祈りします。
 

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