令和ロマンのM-1優勝とハイツ友の会の解散に思うこと。
まず最初に。
令和ロマンやハイツ友の会を批判したいのではない。
賞レースに対して問題提起をしたいのだ。
2023年、令和ロマンがM-1で優勝した。
M-1の令和ロマンの漫才は、M-1で優勝する漫才だった。
一般的な芸人さんのネタの土台にあるのは「自分たちが面白いと思う」ネタだが、令和ロマンは「審査員が高得点をつけるネタ」を作った。
私が思うM-1は「自分たちが面白いことを世間に証明する」賞レースだったが、「審査員が面白いと思う漫才を作る」賞レースにシフトチェンジした瞬間を見たような気がした。世に出ていない漫才師が審査員の審査の傾向を分析・攻略し、M-1のためにキャラを作り、得点が高い漫才で勝つ時代が来る。(M-1決勝者や知名度がある漫才師となると過去や普段との比較も審査対象となる)
令和ロマンが優勝したとき、賞レース向けの漫才をする芸人さんが増えるのではないか、と私は怖くなった。それだけならよかったのだ。
M-1から約3か月後、ハイツ友の会が解散してしまった。
2024年は解散ラッシュである。
解散するとは思わなかった中堅芸人さんたちが続々と解散した。
右肩上がりの時期での解散ではないし、おそらく相方との方向性の違いも理由の1つなので仕方ないと思える部分もある。
しかし、ハイツ友の会の解散は別である。
https://x.com/812nishino/status/1774436541106102512?s=20
この西野さんのコメントを私は
「自分たちのお笑いが評価されない中でお笑いを続けることに意義が感じられない」と読み取った。「自分たちが面白いと思うネタ」で賞レースで勝てないと悟った若手芸人が夢に見切りをつけたのだ。2人は同じ方向を向いていた。ハイツ友の会の笑いの根本の部分を変えないと、賞レースでの優勝はない、と分かってしまったのだ。
お笑い芸人さんの中には、どんな方法でもいいから目の前のお客さんを笑わせることが一番、と考える人もいる。これも正しい。でもハイツ友の会は、自分たちが面白いと思うことで評価されたい、評価を得るために形を変えてまでお笑いを続ける気がない芸人さんだと私は思っている。例えば、ハイツ友の会は正反対の「陽」の芸人さんとロケをするだけでウケると思う。でも、ハイツ友の会はそれを望んでいなかった、2人とも心の底で「それの何がおもろいねん」と思っているはずだ。
令和ロマンの話に戻るが、私は令和ロマンを知らない。令和ロマンがM-1で優勝したネタが令和ロマンらしいのか分からない。ただひとつ言えるのは、自分たちが面白いと思えて審査員も面白いと思えるネタで勝負したということだ。
私はこれが悪いと思わない。
審査員がネタへコメントをする限り、芸人さんがそのコメントを元に対策を練ることは自然なことである。むしろM-1という大会が何年も続いているのに令和ロマンのような戦略的なコンビが出てこなかったことが不思議なくらいだ。
この数年で一般人が芸人さんを見る目は大きく変わった。
芸人さんが漫才中に相方を殴ったり叩いたりすることへの批判が増えた。
相方に手を上げたら客席から悲鳴が上がるようになったとも聞いた。
私は、アインシュタインがあまりテレビに出ていなかった頃、稲田さんが出演するライブを見に行ったら、稲田さんの登場にお客さんが悲鳴を上げた。お客さんが引いていた。それが今は「かわいい」と親しまれている。
なのに、賞レースの審査システムは全然変わっていない。音楽の世界だって、国民全員が同じ曲を聴いているとは限らない、万人ウケを狙う時代ではなくなったのだ。
それでも、お笑いの賞レースの審査では万人ウケが求められ続けている。
審査員からすれば、項目ごとに点数を振り分けて採点して合計した方が複数芸人を公平に審査ができる。理にかなっている。
審査員が求めるネタはだいたいこうだ。
・最初のツカミで笑わせる
・意味のない長い描写は省く
・ボケ数を増やす、ツッコミでも笑わせる
・歌ネタの封印
・いろんなパターンのボケの用意
・少しずつ加速し大爆発させる
・独創性がありつつもお客さんを置いていかない
・その人らしさを出す
・オチ付近で失速しない
手っ取り早く分かりやすく笑わせる、というのは時代の反映かもしれないが、もうそろそろ飽和状態ではないかとも思う。
もっと独創性を評価し優勝すると箔が付く賞レースがあってもいいのではないか。
「一番面白いやつが優勝」と言うが、実際は枠の中に納まった面白いと思った人が優勝である。
例えるなら、カレーを作る大会で審査員好みのカレーを作る大会である。
実際は見た目は普通のカレーなのに少し隠し味が利いていて、誰もがうまいと思うカレーが求められる。
やたら白米が美味しいカレー、素材にこだわったカレー、ましてやビリヤニなんて求められていない。
「カレーなら何でもいい」と言っておきながら、一般的な美味しいカレーが求められているのである。
最初は自分が美味しいと思うカレーで勝負していたがどんどん審査員の好みに合わせていっているように思う。しかし、審査員も生放送で審査しているし、どれだけビリヤニが美味しくてもビリヤニに票を入れるのは難しいだろう。だから「賞レース向けではない」などとコメントをする。ではそのネタは賞レースではなかったら何点なんだ。
M-1やその他の若手の賞レースは若手芸人のための賞レースなんだから、これからどうにだってなるし、ビリヤニが優勝してもいいんじゃないか。
と書いている私が審査員だったとしてもすゑひろがりずを最高得点にする勇気はない。だから一概に審査員が悪いとも言えない。
もちろん、賞レースを目指さずYouTubeやライブだけで生計を立てていけるかもしれない。でもそれは自己満足に近いし、同業者からの評価は得られにくい。
「この芽を摘みたくない」「可能性に秘めている」「独創性」なども審査基準にしなければ、こうした独創性がある芸人さんたちがいなくなってしまうのではじゃないか。
せめて賞レースの審査員は独創性がある芸人さんのすごさを世に伝えてほしい。
ハイツ友の会は大衆に毒を吐くネタなので、大衆の共感が必要な賞レースでは勝ちづらい。私も大衆の中に居場所がないと感じたことのある人間なので、ハイツ友の会の快進撃をもっともっと見たかった。大衆にガツンと言わせたかった。だからとても悔しい。
もし賞レースの審査方法が違う方法だったらハイツ友の会が解散しない可能性だってあった。とてもいたたまれない。
今年のM-1で決勝に残った芸人さんは、負ける可能性が高くてもさや香の見せ算のようなネタをしてくれるのか?これからの賞レースが審査員票を狙うものではなく、好きなネタができる賞レースになってほしい。次のハイツ友の会を出してほしくない。
審査員がどのような芸人さんの輩出を望んでいるのか分からないが、ハイツ友の会のような賞レース不向きの芸人さんを諦めに導いているのは確かだし、今のところ歯止めになるものはない。
何をもって面白いと定義するのかは難しいが、一定数の熱狂的なファン(アンチ)がいる芸人さんが称号を得られる優勝すれば箔のつく賞レースができてほしい。
ハイツ友の会が賞レースで落とされないようなそんなお笑い界になってほしい。ハイテンションで分かりやすくて畳みかけるように盛り上がるものだけが漫才なのか?
それにしてもハイツ友の会のYTV漫才新人賞でのハイツ友の会の清水さんによるブラマヨ吉田さんへの返しは痺れた。辞めると決めていたからこそできた返しなのか。
ハイツ友の会のファンを名乗る男性がXでハイツ友の会の解散に関するつぶやきとともに、アイドル風の写真とサインを載せていた。彼女たちはアイドルじゃない、漫才師や。そういうところやぞ。
最後に
どうせなら女性芸人さんに付きまとう顔ファンの男性をいじるネタをやってほしかった。
そこに愛がないから無理か。
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