私はまだDr.フランケンシュタインを恨んでいるのに曲に置いて行かれた話と歌詞の考察。
Creepy NutsのDr.フランケンシュタインという楽曲に置いて行かれた話。
2024年5月14日の大阪のライブで、私はこの曲に置いて行かれたと思った。
まずは2024年5月14日以前のDr.フランケンシュタインの考察を書く。
曲はこちらから。
Dr.フランケンシュタインを初めて聴いた時、
Rさんはこんな声優しい声も出せるんや、と驚いた。
Creepy Nutsの2人によると、この曲は卒業ソングらしい。
私は「あんたのおかげで俺はこう育ちました。これがあんたのお望みでっか?」と皮肉っているように受け取った。
Creepy Nutsの楽曲では珍しく一人称が「私」だし、「お前」や「あいつ」など距離感の近い代名詞ではなく、固有名詞「Dr.フランケンシュタイン」が実質2人称として使用されている。生業の歌詞の「あなた」は倒すべき対象で怒りがあるが、Dr.フランケンシュタインのあなたには怒りをまっすぐに表現していない。
当時の「私」がDr.フランケンシュタインの前で歌っているかのような歌い方だ。
歌詞はこちらから
1番の歌詞
1番の歌詞は集団の中にいる自分・過去について歌っている。
自分の意志ではなくDr.フランケンシュタインの指示通りに生きていたことが分かる。
当時の所属先に居心地の悪さを感じながら精製(教育)され、本来の自分のアイデンティティが消えた。
Dr.フランケンシュタインの指示・指導のせいでこうなった、自分の意思など持てなかった。(狭い部屋に押し込まれて来た定め)
ここでの主語はDr.フランケンシュタインではなく私である。しかも受け身表現を使っている。仮に「あなたは同じ方へ歩かせました」という表現だっら私にも拒否権がありそうに見える。しかし「歩かされて来たからです」と表現することで、拒否できず自分の意志ではなかったことを主張できる。
2番の歌詞
二番の歌詞は、集団から離れた自分=現在の自分である。
Dr.フランケンシュタインの元を去った後も、Dr.フランケンシュタインが植え付けた価値観は自分の価値観にもなっている。
救いなのは、Dr.フランケンシュタインが正くないという判断力をしっかり持ち続けていることだ。過去も現在もDr.フランケンシュタインに染まり切っていない。
1番が過去・集団、2番が今・自分の対比の曲である。
Dr.フランケンシュタインがいなかったら整えられなかった。でも整えられたから今の自分がいる。恨んではいないけれど(ホンマか?)、感謝もしていない。
この歌詞の救いは元の居場所や形は分からないことに関するネガティブな描写がないこと、「今の居場所、今の自分が分からない」と歌っていないことだ。
今を否定的に捉えていない。
「Dr.フランケンシュタイン 恨んでいない あなたのおかげで私がいる」が何度も歌われている。自分に言い聞かせているように思う。(Creepy Nutsの楽曲では同じ歌詞を何度も歌うことは少ない)
最後の歌詞のDr.フランケンシュタインの部分だけ「あなたのおかげで」で切れている。やはりまだ納得しきれていないのではないか。
私には特定のDr.フランケンシュタインがいる訳でもないのに、この歌が私の心に刺さっていた。誰かを恨むことで今の自分を責任転嫁したかったのかもしれない。
どちらにしろ私には「恨む」気持ちがあるのだ。
歌詞について触れてきたが、韻の踏み方もすごい。「フランケンシュタイン」と「恨んでいない」で韻を踏んでいる。
3音節の英語と7文字の日本語で韻を踏んでいる。
フランケンシュタインで韻を踏める言葉を100個書きだせと言われても私には到底「恨んでいない」が浮かばない。
文字だけ見ると、
「Dr.フランケンシュタイン 恨んでいない」、文字数も違うし、韻を踏んでいるなんて気づかない。日本語のローマ字で書くとなおのことだ。
Fu ra n ken shu ta i n
U ra n de i na i
歌詞に英語を使う場合、Rさんは英語の音節、発音で歌う。
フランケンシュタインの音節
/ ˈfræŋ.kən.staɪn/
3音節
私が思う歌詞内の恨んでいないの音節
/uran dei nai/
3音節
「でい」「ない」の部分を長母音化(音節に区切らずに連続して発音させる)して3音節にしている。「恨んでいない」は「うらんでーない」のように歌っている、だから綺麗な韻を踏める。
日本語ラップの中に英語があっても心地よく韻を踏んでいる。
ここまでが、2024年5月14日の大阪ワンマンツアーに行く前の考察だ。
私は大阪ワンマンの前に名古屋のワンマンにも足を運んでいる。その時もこの歌を歌っていたが、アルバム曲のこの歌を歌ってくれるとは思わず感激して、落ち着いて聴けなかった。
2回目の大阪はスタンド席ということもあり、落ち着いて聴けた。
ここからはライブでの私の感想だ。
曲の歌い出しの優しさは力強さへと変化していた。
Dr.フランケンシュタイン(過去)とは決別したかのような歌い方で、本当に恨んでいないし、過去を卑下したり美化することなく、何気ない日常として歌っていた。
音源が当時の自分がDr.フランケンシュタインに歌っているのに対し、ライブでは今の自分がDr.フランケンシュタインに歌っているかのようだった。Dr.フランケンシュタインとは同じ世界にいないかのような歌い方だった。
そして何より最後の「元の居場所がわからない」の歌詞に寂しさがなく、別に分からなくたっていい、今に満足してるし、と言った歌い方だったのだ。
私の中ではまだDr.フランケンシュタインを恨んでいたのに、
ライブで急に置いて行かれた。
曲に置いて行かれた。
私が感じたのとは違う意味を持つ曲になってしまった。
それこそがHIPHOPだ。
私は生でHIPHOPを体感したのだ。
一方でRさんが3年間で心境を変化させたのに、何も変わっていない自分に絶望した。
この3年間は何だったのか。
寄り添ってくれた曲はもう違う方向を向いている。
私はこの三年何を学んだのだ。
音源では私を守ったり寄り添ってくれるが、もうライブではDr.フランケンシュタインを恨んでいないスタイルしか聴けないのか。
私はいつまでDr.フランケンシュタインを恨み、曲に置いて行かれたと感じるのか。
RさんはこのままDr.フランケンシュタインを恨んでいない人生を歩み続けるのか。
私はこの先ライブでDr.フランケンシュタインを聴いて何を感じるんだろう。
Dr.フランケンシュタイン
恨んでいない あなたのおかげで私が
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?