コロナ・失語症日誌

「歯医者へ」
父が、私を自転車にのせて、私の痛みを、父が受け止め、急ぐ父は、下り坂で、私共々田んぼの中へ、

「萱場の爆弾」
父と母が働きに行っている萱場、朝鮮戦争、我が家に爆弾が幾つも、花瓶にしたり、鉛筆立てにしたり、

「森山用水」
家の前を流れている、幅2メートル程の、田んぼに水を入れる時は堰止め、深くなった所で水遊び、

「ケイコの高熱」
妹が高熱を出し、清水の側に、ベッドをしつらへ、父は奔走し、何処から、「クロロマイセッチン」

「ドジョウ採り父の記憶」
父がドジョウを採りに行くかと言ったのは、私と遊ぼうとしてではなく、私に栄養をつけなくてはと考えて、以前も魚が食いたいかと言って、箱いっぱいの蟹や魚を持ってきた。レバーといえば何枚もを、いつか母が語った父、オオバーコートが無いと言ったら、給料全部使って買って来てしまい、翌月から生活に困ったと。父と母、仲よく自転車に二人乗りして土田の萱場工業へ働きに行っていた頃。このドジョウ採りの記憶は父がもう働らかず家で寝てばかりいた時期。母は一人多治見のタイル工場に行っていた。 前のたんぼの水路にドジョウはいくらでもいた。でもそれを採って食べる人はいなかった。父は本家のどこからか大きな笊を探してきた。父と二人のドジョウ採り、私はワクワクしている。父が水路に入ると、手馴れた様子でドジョウの居そうな場所に笊を差込み、片足で追い込む。笊を上げると何匹かのドジョウが入っていた。瞬く間にバケツいっぱいのドジョウが採れた。翌日、裏の清水で泥抜きしたドジョウを料理することになった。 「いいか」父は私の様子を確かめると、もう充分に熱が廻り、煙が立っている鍋の蓋を取り私に持たせ、自分は笊に上げたドジョウを片手に、もう片手には一掴みの塩を持って、 「それ!」ドジョウの投げ入れと同時に、塩の一振りと、私の持つ蓋の閉めとが一瞬の内に行われ、鍋の中では凄まじいドジョウたちの跳ねる音がして、父と一緒に押さえていても蓋が飛ばされそうなほど。薄い鍋の蓋を通して、手にドジョウたちがぶつかって来る一匹一匹の音が伝わって来て、私は少し怖くなってくる。そんな私を見つめる父の嬉しそうな無邪気な顔があり、私は踏ん張って蓋を押さえ続ける。やがてドジョウたちの跳ねる音の間隔も長くなり鍋の中は静かになった。蓋を取ると塩にまぶされ、曲がった姿のままのドジョウがあった。ドジョウが旨かったか、まずかったかは記憶に無い。ただ凄まじいドジョウたちの跳ねる音の記憶が残っている。」

こんな私対世界の蜜月へ、突如舞い込んだ

「武漢封鎖とカミュの「ペスト」」

2020年1月23日 武漢での感染爆発
2020年2月03日 クルーズ船感染拡大

そんな中で、「ペスト」を読む、34才、700枚、オランの人々の不安と、葛藤が、そして、医師としての誠実さとは、治療を続ける事だけと、絶望に対する態度を、
腺ペスト、30~60%死、24時間以内、黒死病、
AD165~180、350万~700万人死、人口の7~14%、541~842、人口の40%、1348~1420、死者2000万人~3000万人(1/3~2/3)
ペストとルネサンス、モンゴルとペスト、イタリアのユダヤ人虐殺、ラテン語から英語に、ニュートンの発見とペスト、
鼠の大量死は記録されていない、シュミレーションでは人=蚤、シラミ、公衆衛生、上下水道、

「カミュ「ペスト」1947、34才、」

ペストという、不条理に対する、不安と葛藤、絶望、それらへの人の態度を、人は様々に対応する、が、コロナがペストと違う所は、コロナが不条理ではなく、人為的な、生物兵器による、ペストにおいても、歴史的には、公衆衛生の未発達、不備による、1940年代の設定だが、カミュは不条理という命題を、ペストに仮託し、そこでの人の態度を理想主義的に、リウーの誠実のように語り、人為であろうと、絶望に対して、人の取れる態度は、誠実で、

「9.11とコロナ」

9.11でイスラムを悪人に仕立て、実はアメリカのやらせだったのだから、正義はアメリカを告発することこそ、同じように、コロナが、アメリカによって仕組まれたものであるなら、中国共産党を悪にするのではなく、アメリカを告発することこそ、世界を牛耳っているアメリカと、その背後の勢力をこそ、アメリカの嘘が完全にばれ、陰謀論として冷笑していた事が、次々と明るみとなり、コロナの犯罪を通して、世界が覚醒し、大きな嘘は、世界を本質的に変え、

「相模原殺人事件」

人間性とは何かが、問われ、突きつけられ、それは、政治においても、文学、哲学においても、
生きるに値しない生命はあるのか、老人より、若い人の命が大切か、人は、怒りで、恨みで、金目当てで、愛で、命を奪う、障害が家族に与える苦しみ、介護職員の低賃金、知的障害者自身が生きていたいと思っているのか、知的障碍者の高犯罪率、家族自身が障害を嫌う、出生前診断、優性思想、発達障害、20年で7倍、世界人口の15%が障害者、
自閉症とワクチン、大気汚染、農薬、ニコチノイド、放射能、脳障害と被曝、人口削減計画、
全て、障害は、放射能、薬害、大気汚染、農薬、災害、人間社会に起因しているのだから、それらは全て社会の責任なのだから、社会が看ていく、そのように捉えられないことが、生命に優劣をつけることに、
植松の考えは、社会の責任を無罪化することに、人のどのようなことも、社会に責任があるという観点が無いなら、優性思想、生命の優劣、価値の有無となる、

「カミュのペスト」

リユウ医師の「誠実」を、絶望に於いての希望としているが、3.11より、10年を経るにあたって、コロナウイルスのパンデミックを迎えるにおいて、絶望が一般化してしまい、只、死を待つ存在に、マスコミ、権力に、従順、ロックダウン、マスク、唯一者としての、人は、反モラル人間という程に、吸収され、過去となるばかり、40歳のあの時、死んだ私は、この30年の過程は、今や、只の時となり、累々たる屍、友等の知人等の、その一人の私となり、
ペストは不滅、世界は神秘、悠久と、不条理の定義を、宇宙存在の下に捉え、ニィチェの永劫回帰へと、
絶望もそれでいいのだが、絶望を通すこと、不条理を通すことを通して、恩寵、存在の信仰へと、それが私のテーマである、
病人が恩寵に至るのは、絶望を通してである、人間とウィルス、戦禍を通してであるということ、

「この世界に無は存在しない」

有が全て、存在が全て、無とは存在が、形を変えただけ、死と言えど、原子という存在に帰るだけ、意識とは記憶の合成作用に過ぎず、悲しみの、喜びの、様々な記憶から形つくられた、有機物の持つ感情という現象、時間と、
体験と、千変万化に組み合わされた、しかし、意志という、向日性のような本能を持った、人という生命、AIで人間を管理、AIに人間の代わりを、と、

「コロナと原発」

体育館を隔離施設にはできない、人と人は接触してはいけない、絆は良くない、まして、入浴サービス、炊き出しなど、家族は、各部屋で、マスクをして、息を殺して、

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