なぜ「みとん今治は『今治愛に欠ける』と指摘されるのか 1
1 記事の目的と予定
みとん今治は「今治を元気にしよう」という意思表明の元、様々な活動に取り組んでます。
しかし、表題のような現状を黙っているわけにもいきません。
これから数回にわたり推敲していきたいと思います。
これが5回になるのか、10回になるのかは商店街の人などの意見も聞きながら考えたいと思います。
今回はイントロとしての記事です。
第1回のサブタイトルは「表現者としてのみとん今治」と名付けてみます。
次回の第2回は「立場から逃げる人に人は集まらない」という仮題にしておきます。
では、第1回を。
2 「ポジティブな軸を感じられない」
いきなりコチラ側の造語のようなタイトルで恐縮ですが、他にうまい表現がどうしても見つかりませんでしたのでご容赦ください。
ここでの「軸」とは、物事に対する捉え方の「芯」というか感情のようなものの例えです。
例えば、逆に代表の今治に対するネガティブな軸は嫌というほど感じられます。
と言いますか、そのネガティブさオンリーな現状に市民が嫌気を差しつつあるというのが今の状態でしょうか。
記事から感じられることとしては、
「不便」「向上心が低い」「質の高い文化が入ってこない」 「若者がいなくて活気がない」 「地方の衰退に関心がない」
「狭いコミュニティで排他的(これに関して、今治はそういう街ではないことは明らかだが代表自身は「排他的な街」と捉えている節が言葉の端々から感じられる。)」
などでしょうか。
では。
振り返ってみて、『みとんに貫かれているポジティブな軸』って感じられますか?
少なくとも私には感じることができない。
私自身は今治が大好きです。
県外の市と比べて、また、これまで居住したことがある県内他の3市と比べて、今治に対する「『ここが好き!』という固有のポジティブな軸」というのが数本、屋久杉のように太くあります。
(もちろん、他の街にも固有の良い印象を持っていますし、今治を含むそれぞれの街に対して悪い「軸」もあります。)
荒木君にはその「ポジティブな軸」が感じられない。
だから、(本人の言葉を借りて言うならば)「ありのままの事実」を言ったつもりでも、どうしても「今治愛を欠いた表現だ!!」「今治を踏み台にしている!」として受け止められるのではないでしょうか。
もし、日頃から「今治へのポジティブな『軸』」があったら?
きっとこれまで同様の記事だとしても、もっと素直に受け止めてもらえるでしょう。
(ただ、彼自身の表現に読者に対する敬意が欠ける部分も大いにあるのですが…)
実際問題、彼の心の中に今治に対する「ポジティブな軸」は存在しているのでしょうか。
当たり前のようだけど、ここ今治だから感じられる幸せ。
気づきにくい、気づかれにくいけれど確実に僕らの幸せを支えているもの。
もし、もし彼にそれが存在するなら。それをもっともっと意図的に『言語化』していく必要があるのではないでしょうか。
そして、人の心を動かすためにみとんに足りていない部分とは?
ここも後日、提案します。
3 今日のまとめ
今は市民側も本来持ちたくない「負の感情」の眼鏡をかけて「荒木君の記事を、心を」読んでしまっている、ということです。
これも代表に言わせれば「揚げ足取り」「読むのやめれば?」でしょうか。しかし、
「不愉快になるくらいなら読むのやめれば?」
この発言は非常に無責任な発言であることに荒木君は実感として気づいていません。(少なくとも言葉としては決して出していない)
そこがまた市民の怒りを買っていることに繋がっています。
次回はその辺りを中心にお話しようと思います。