なぜみとん今治は「今治愛に欠ける」と指摘されるのか その18
私のTwitter(蛍雪スピリット)でもつぶいやいたのだが、
荒木氏とのトラブル疑惑を抱えるあさぬー氏が、Twitter上で荒木氏からのリプライだけをスルーしている、という状況が続いている・・と書こうと思ったら先日、病床の荒木氏を見舞うtweetをしている。
そもそも荒木氏のリプライの内容についても、学生のあさぬー氏に対して自分が年長者であるということだけを根拠にした、上からのマウンティングのように受け止めざるを得ない内容になっているのがやはり同郷人として誠に恥ずかしいものである。
また、みとん今治アカウントが「あさぬ―氏が作成した6月のカレンダー」の通知をアカウントの固定ツイートとしていることも、非常に理解しがたい。
普通に考えると「6月のままほったらかしにする」というのは変であり、単に見逃している、というよりは、何か荒木氏の意図を感じざるを得ない。
とは言っても、そうすることが荒木氏にとって何もメリットがないような気もするが真相はいかがだろうか。
恐らく、あさぬー氏は9月には今治に来ないのではないか、と踏んでいる。
それは本当に来られない理由が発生する場合もあるだろうが、もしそうでない場合でもそれ相応の理由を繕って「今回はパスします」となる、と。
月が替わって8月になったが、カレンダー更新のお知らせは聞こえてこない。
前回の記事と合わせてこれまでに色々と考察したが、最近は単に
荒木「デザインやってるの?カレンダーやってみてよー」
あ「面白そう!やってみますー」
あ「(やっぱりモチベーションわかないんで)ちょっとお休みしますー」
荒木「オッケーオッケー。また気が向いた時に作ってくれたらいいよー」
くらいのものなのかもしれないとも思うようになってきた。
荒木氏がよく言っていたフレーズで言うと「チャレンジしようとすること自体が尊いんだからどうなろうと『余白』をもって見守ってくれよ」というところだろうか。
みとんちゃんカレンダーはこれからも飛び飛びで、年に3回くらいUPされたら御の字なのかもしれませんね。
その感覚ってデザイナーとしてどうなのか、あさぬー氏の周りの人に直接確認する、ということはぜひとも近日中にしてみたいことだ。
話題を変えて。
皆さんもお思いだろうが、確実にみとん今治を始めた頃の記事と、ここ1年くらいの記事のテイストは全く異なっている。
このことについては、少し前に荒木氏がさりげなくtweetで「以前とは変わっているところもある」と呟いたこともあったので本人も自覚がある部分であろう。
また、これまでだと同じ店の紹介の時に、以前の記事はコチラ、とした上で「コチラ」の部分にハイパーリンクをかけてリンク付けしていたが、最近はその作業をほとんどしなくなっている。
単なるモチベーションの低下が故の作業の省略かもしれないが、私が思うに、以前の記事の熱量(テンション)と今の記事の熱量(テンション)のギャップをさらけ出すのが怖い(気恥ずかしい)からではないだろうかと推測している。
みとん今治が始まったころの記事は
荒木氏の「主観」がバリバリ入った記事が満載でそれが賛否両論を起こしていたが、サイトとしての「味」として存在していたのも事実である。
今は、その「味」がすっかりなくなって、「無味無臭」のような記事構成が多くなってしまった。
その辺りの真相こそ、ノートで表現して欲しいところだが最近はそういう核心のようなところにスポットライトをあてて表現することもめっきり減ってしまったように思う。
いわば、荒木氏はギラギラしていたころのキングコング西野氏のような勢いをもってみとん今治を創り上げてきた。
荒木氏が以前によく呟いていたが、荒木氏のような事業は創業後3年から右肩下がりになっていくことが多いようである。
自分が思い描いていたようにできていないことにモヤモヤしていることが最近は多いようだが、表面的でなく、今の正直な深層心理を語って欲しい・・。
7月31日付の愛媛新聞にも荒木氏の記事があったが、依然として商店街の人とコミュニケーションをとることに苦しんでいるようである。
私の好きな本に「共感で人を動かす話し方」という本があり、ぜひ荒木氏に読んで欲しいと思っている。
チャレンジを~、柔軟性を~という理屈を振りかざすのではなく、みんなを自然と巻き込んでいくような、いや、みんながいつの間にか荒木に巻き込まれているような、推進力のある営業活動を頑張って欲しい。
そのためには、荒木氏と交友のある70seedsの岡山氏のようにストーリーを語ることがやっぱり大事だと思うんだけどなあ。