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NTLで「善き人」を観て、好きな演劇の形を再確認した話【観劇感想文】

※物語の内容に触れています
※十年来の演劇観劇趣味を持つ人間がこういうの観たかったんだと再確認して感激して書いた、感想文です

・ナショナルシアターライブ=英国の演劇を映画館で観れるプロジェクト

存在そのものは知っていた、NTLive。
ただ外国の演劇を字幕で映画館で観て楽しめるのか不安で、実際に見ることは今までありませんでした。

今回、「善き人」を観ようと決意したのは、
・グッドオーメンズで大変印象的だったデヴィット・テナント氏が主演
・ナチスドイツ統治下で、「普通」の人が段々とその思想に染まっていくとう物語への興味
・短めの上演時間(休憩込み2時間半弱)
が主な要因で、諸々の都合もたまたま良かったのもありました。

・物語について

話の筋書きはシンプルで、公式の粗筋を以下に引用します。

善良で知的なドイツ人教授は自分の作品を読んだヒトラーに気に入られしまい、自身の意図とは関係なくナチスに取り込まれていくというポリティカルスリラー

NTL公式HPより

ナチスドイツがその勢力を強めていく時代、けれどまだあれほどの惨事を引き起こすほどの圧政にはまだ到達していない頃、「善き人」である教授が流されるままにナチスへ入党する。

すると見る見るうちに時代はドイツはナチスの支配下となり、ユダヤ人への迫害を強めていく。教授はそれでも「そこまでひどいことは行われないだろう」という「常識」で未来を楽観視し、不安がる親友のユダヤ人の医師への対応も軽くいなし、自分は新たな愛人との恋にうつつを抜かす。問題を抱える妻、認知症と眼の患いに苦しむ母親から目を逸らすかのように。

もうこの時点で、彼は「善き人」とはとても言えない。
ただそれは、その後を知っている現代人の感覚かもしれない。

時代は、ホロコーストへと突き進む。
党員として生きざるを得ない教授は、ユダヤ人医師を見捨て、妻を見捨て、愛人と新しい生活を営もうとする。そこには決意はなく、ただ欲望に流されるがままのよう、ナチスの思惑に惑わされたよう。

けれど彼は、彼自身で、選択をしていた。
党員になること、親友を見捨てること、自分を優先しつづけて、他者を見捨てつづけていた。自ら、「善き人」である外面を投げ捨てていたのだ。
その事実を、その行動がもたらした悲惨を、ラストに目にした光景で彼は思い知る。

縞模様の服を着た演奏者が音楽を奏でる光景を前にした、軍服の男の姿で舞台は幕を閉じる。何の独白もなく、その後もなく。

・物語への感想_時代の流れと、流された人と

理知的な教授の行動は、この時代の「善き人」もとい「普通の人」として、良くあるものだったのかなと感じました。入党という決意にしたって、まさかあれほどの悲惨が起こるとは思っていない。ただ褒められて認められて嬉しかったのもあるし、時代の流れに乗っかってみたほうが生きやすいと考えるのもまた当たり前、なのかもしれない。

劇中の台詞のとおり、本当にはならない、長続きしない、まさかまさか、の楽観が、いつのまにか抗いきれない地獄の中に組み込まれていた。ただやはり、時代の悲劇に組み込まれたというよりは、彼は自ら選択していったように感じました。親友だった医師の涙をにじませた表情が忘れられません。道を違えていったかつての友への憐憫をたたえた静かな感情が胸を打ちました。

党員としての人生をたどり出すとともに、彼の私生活が乱れていったのは、その選択によって何らかの理性のタガが崩れた影響もあるのかなと推測しつつも、だからといって堕落しすぎだろうとも思いました。

・主演役者三人の演技力に圧倒

教授を演じたデヴィット・テナント氏が観劇のきっかけではありましたが、
共演者のエリオット・リーヴィ氏、シャロン・スモール氏もものすごかった。

ほぼ彼ら三人の台詞の応酬と、最低限の照明の切り替えや小道具を使った演出のみで展開される物語なので、役者の胆力無しでは成り立たないタイプの演劇です。

字幕を通してでさえ、まくしたてられる台詞の抑揚や細やかな表情、所作の変化の巧みさが感じ取れ、物語に没頭できました。

刻々と変わる社会の趨勢、登場人物の関係性の変化を、台詞からのみ受け取り、理解できたのです。字幕でも、わかるんだ、というのは発見に近い驚き、嬉しさでした。

また、デヴィット氏以外のお二方は何役もの兼ね役を、暗転無し・衣装やメイクももちろんそのままに、照明や立ち位置の変化等のみでこなしていて、初見でもほぼ「人が変わった」のをぱっと理解できました。この鮮やかさそのものにも、惹き込まれました。

・シンプル・素朴な舞台セットと演出の良さ

下北沢ならスズナリと同程度?なのか、とにかく小さな舞台だというのが最初の印象でした。その小さな舞台に、壁と腰かけと照明のみ、扉すら存在しないシンプルに徹したセット上で、役者は裏に引っ込むこともなく存在しつづけ、物語を台詞で語り通す、そんな演劇。

これほどに素朴な演劇を観るのが、そもそも久しぶりすぎて、なんだか逆に新しいものを観るような感覚すらありました。

だからよそ見するものも何もなく、ただ役者の表情と台詞のみに集中し、それが可能な魅力もまたあったものだから、苦も無く2時間半没頭しつづけられました。

演劇って、舞台上を虚構とわかってて「現実」だと思い込んで楽しみあう、役者と観客の「共犯関係」で成り立つものだとよく例えられると思うんですが、
この作品においては、なんというか、役者と観客のタイマン勝負というか。
パワーを叩きつけられた、そして受け止めながら観た、そんな感覚が強かったです。

もちろん、音楽や照明など演出も重要なタイミングで差しこまれ欠かせないものですが。

演劇ってもちろんリアルで観るのが一番なのでしょうが、
字幕でも映像でも関係なく伝わる部分も強くあると改めて、思ったのです。

・この小劇場ならではの最小限の演劇の形が私は好きだったな、と

これはただの個人的な部分なのですが、
国内の演劇では今は私は最低限の好きな劇作家や劇団しか追うことができなくて、その多くの作品が映像や最先端の演出、大人数を駆使し、人気俳優を配した一大エンターティメント、になっています。

それらの作品は観ればとても楽しくて爽快なんです。
ただ、私が演劇を観始めた当初は、こういうシンプルで濃密な芝居をよく観に行っていたな、というのを、懐かしく思い出しました。

今でももちろん小劇場でこんな芝居は多く行われています。
だからこの懐かしさを、これから先、今の国内の演目でまた味わう機会を持ちたいなと、そう思いました。

パンフレットまであって嬉しかった。ありがとうございました。


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