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「愉気」ということー気と気が感応するー気の集注密度ー19
外から気を伝えるとというのではなくて、気と気が感応して、相手の中に元気が湧き起こるのではないだろうか。誰だって元気はあります。今死ぬという人にだって元気はある。だから死にかけている人でも、元気な人が手を当てると共感して、丁度、野次馬になると自分が考えられないようなことをやってしまうように、元気が出てくる。元気が出てくれば、そのまま病気を経過するという可能性だってあるかもしれない。
気の集注密度
ともかく、心をずっと集注してその密度を亢めますと気が亢まってくる。よくなる方向に気がある人なら、その人はよくなる気を呼び起こす。死ぬ方向にある人なら、安らかに眠るように苦しまないのです。愉気の感応とはそういうものなのです。
また、危篤と言われて私に逢いたいというだけで二日も生き延びた人もあるのです。七十幾つのお婆さんでしたが、私の顔を見るまで死なないと頑張っていて、逢ったら急に死ぬのが厭になって、止めたような人もずいぶんおります。
愉気をするのに、生かしてあげよう”などという親切は私にはありません。逆に「古くなったのだからもう死ねばいい」などと思うこともあります。年を取ってくると、私自身も「また新しくなったら面白いのに」と思う程ですから、それほど生々溌剌としているとは思えないし、生きていようという欲もないです。
もっとも、生きる力がある内はあまりそういう欲はないのです。どうしても生きたいと思う人は、足りなくなってきているからです。
どうしても生きたいと思う人は、まだ力があるのかも知れないけれども、頭の中ではそんなに欲張って生きようと思っていない。だから人に愉気するほど活発であるわけがないのです。
けれども私が傍へ行っただけでみんな元気になる。会って会って何か話していると、その人に勢いが出て来るし、手など当てると、いつの間にか元気になる。それは、私の中の気が感応して、相手の中の居眠りをしている気を呼び起こすからかも知れない。
ともかく心を一ヶ処ずっと集注して、その密度が亢まると、気の感応行われて行われます。手を当てて、気を集注すると、それに応じて相手の内の力が発揚されることを感応と言います。積極的に下腹に息を吸い込んで、手から吐くような気持ちで相手の中送るのを愉気法と申しております。二つ分けてはいますが同じことです。ただ気の集注密度が亢まるか否かという、たったそれだけで、病気の経過が全く違うのです。
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