「愉気」ということー気の交流-10
人間の中にはいろいろな可能性があって、それを発揮しようとしている。いや、不可能を可能にしようとする、そういう意欲で人間が生きているということもできます。弱くなったら弱わくなったで、今度は強い自分を作り出そうとする。ところが、心で努力しても、体で工夫してもできないことが、「気」ではできるのです。
自分の言うことを聞かない子供を、スパルタ式の鞭とか叱言ちかお菓子で、家畜を訓練するように考えている人がいますが、そういうのはどんなに訓練しても、そばへ行くだけでさっと逃げてしまう。
また或る人は、その子供に特別に何もしていないのに相手が好きだと飛びついてゆき、言うことをよく聞く。そう言うことは、その人の持っている「気」の力なのです。
しかし「気」はなかなか解らない。死んだ人間を解剖してしらべたる、あるいは生きていても、体だけ調べていたのでは「気」は解らない。けれども人間はそういう「気」というものを、お互い同士感じ合って、「気」によって生活しているのです。
例えば、宴会で一人厭なことを言った人があると、一座がサッと白気てしまう。また一人が騒ぐと、みんなワイワイ騒ぐ。人の家が燃えているというのに、それを見ようとワイワイ集まって行く。そういうことは何故かというと、野次馬だからです。野次馬も一人一人はみんなまともな人なのです。けれども、大勢になると、物を壊したり、電車の窓まで割ったという人もいました。判っていながら、そういう「気」が起こってくると、それに巻き込まれる。
人間が生きているということは、そういう気の交流によるのだといえます。
人間の生活で一番重要なものは、物の交換でなくて、気の交流であるといっても過言ではない。いくら立派な贈り物をもらっても、それで嬉しいとか限らない。贈り主の気が細やかなら、庭に咲いた花を持って来てくれても嬉しい。その人が一生懸命作ったと言って持って来てくれればなお嬉しい。心がこもっていなければ、高価なものでも嬉しいとは思わない。それは、いつの間にか「気」えい「気」で感じているからです。
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(本)健康生活の原理・活元運動のすすめ、、より
細かく区切って書いています、、ー晴哉はつづくー。