「愉気」ということ-類は類をもって集まるー12
生活している人間ということを考えますと、どうしても「気」というものを無視する事は出来ない。そしてその気が有ると無いとでは違う。欲の気の有る人同士が集まると、その人が嫌いでもその気に引かれて話に乗る。食の気の旺盛な人同士だと、ほかのことでは余り面白い話もないのに、食べることになると話がはずむ。
例えば、マグネットなら鉄にしか吸いつかない。だから吸いつけば、そこに鉄があると思うのは常識です。私の銀のライターを持っていました。そのライターにマグネットを当てると吸いつくのです。銀が吸いつくなんて、これは銀ではないのだろうと思っていました。ところが、中味を抜いてやってみると、吸いつかない。つまり銀を通して、中にあるライターの鉄に吸いついたのです。
だから、欲で繋がり合う場合には、それがどんなに綺麗な言葉で包んであっても、欲の気があったのです。悪い事を相談してそういう気になるのは、そういう気が中にあったからでしょう。
人間の気にはいろいろなものがあって、なかなか判らないものもあります。親切かと思っていると、存外、内側にあったものが欲だったと言うことも時にある。中味によって引き合うものは皆違うけれど、同じ傾向の気は、同じ傾向の気に感応するということに変わりはない。ベラベラ喋るエネルギーはあっても、散らかっている物を片付けるエネルギーがないという人が沢山おります。そう言う人が愉気して手を当ててくれても、気はベラベラ喋る方にある。また「台所にお菓子が置いてあるが、愉気をしたらあれをくれるかしら」と気がお菓子に行ったりする。それでは、気の感応で相手に元気を呼び出せるわけがない。
歩けなかった子供のお父さんは、お父さんが愉気すると、動けなくなるのです。心配を、不安を愉気していたからです。それで、「お父さんは止めなさい。あなたが愉気しているのは“不安”だ」と言いました。お母さんは、何が何でも丈夫にしてしまおうと、“闘争心”を愉気していた。しかし、上がるまいと気張れば気張るほど上がるように、赤くなった顔を赤くしまいと思えば思うほどいよいよ赤くなるように、病気と喧嘩していたのでは、病気の方が強くなるんです。
(本)健康生活の原理・活元運動のすすめ、、より(細かく区切って書いています、、ー晴哉はつづくー。)