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健康生活の原理-活元運動のすすめ by野口晴哉

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野口晴哉の本を小見出し事に書いきました。動画もありの保管庫。
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#健康

今あんまり言わなくなったことーその3

また他にもいろいろの問題があります。 例えば、心臓を研究する人は心臓ばかりを研究します。胃袋を研究する人は胃袋ばかりを研究する。そしてそれらを集めたものが人間の体だと思い込む。そこで、それぞれの知識をみんなで持ち寄れば人間が丈夫になるというように考えています。 けれども人間というものは、もともといろいろの部分が集まって出来たものではない。胃袋と心臓と肺臓と・・・いわゆる五臓六腑、四肢五体が集まって出来上がったものが人間ではない。 はじめは1箇の生殖細胞を作る以前のある働き

今あんまり言わなくなったことーその1

健康生活の原理と言っても、栄養をどうとれとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題と言っても胃袋がそうなるとか、肺がどうなるとか心臓がどう脈を打つとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんの方がよくご存知だと思うからです。 私がお話しするのは、今までの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸に中に肺臓と心臓があるということは、どなたもご存知ですが

「愉気」ということー二人以上の人間関係-2

人間の生活で親子兄弟は当然、仲良く暮らさなくてはならない。ところがお母さんに一言言われるとイライラしてくる、お父さんがそばに来ただけでなんとなく厭になってしまう、他人になら話ができるのに、兄弟では話し合うことができない、というようなことがざらにあります。そして自分では右を向うと思っているのに、理由もなく反発して左を向いてしまうということもまたよくあることです。 この間も、病気がなかなか経過しないで、だんだん重くなり、しまいには歩けなくなってしまった子供がおりました。小児麻痺

「愉気」ということー行動の元は漠としたもの-5

易者に占ってもらおうと思うことは、その前に自分でその易者を占っているのです。あの易者なら信用できそうだ、あの易者上手だろうと、自分の占いによって決める。その占うものは何かというと、「気」なのです。大道のいる易者の過去を精密に調べてそこに行くわけではない。なんとなしに「あの人なら大丈夫だ」、「あの人は嫌いだ」と思う。理屈ではない、後からつければ理屈はつくけれども、その前にあるなにかえでそう感じてしまうのです。 なにか漠と感じた事が人間の中心になって行動している。右の道へいこう

「愉気」ということー本能の中にある衛生の働き-6

判らないことの一番の王様は神様とか仏様とかいうものです。判らないけどそれがあるといわれ、信じるようにいわれるとその気になる。病気でも、悪魔でも、そういったようなものなのです。黴菌が人間を病気にしてしまうにだったら、大勢に人が集まって、その人の吐いた息を吸うことは恐ろしい。握手をするのも、接吻するのも怖くてできない。もちろんそれは不衛生なことですが好きだとやってしまう。しかしそのために病気になるとは限らない。 自分の中に黴菌を殺す力があるのです。天然痘に対する抵抗力でも、コレ

「愉気」ということ-自然に保たれている平衡-7

健康に生きるという事は、人間の本能です。怪我をしても自然に傷が繫がってしまう。お腹が痛いと言っては押さえ、歯が痛くても押さえてします。なぜ押さえてしまうのか判らないし、なぜ押さえて治るのか判らないのに押さえる。 これも本能的なもので、誰にでも備わっているのです。またエネルギーが足りなく成れば空腹を感じ、過剰になれば鬱散したくなる。みんな自然に平衡を保っているのです。 それなのに、衛生だ衛生だといって怖がっているのです。 養生のための、可し、可からずが何万あるか判らない。

「愉気」ということー人間の実体は気である-9

自分の体を保つために、自分の心では大丈夫だと思っても無駄なことがある。口では「大丈夫だ、怖くない」と思っていても、手が動かなくなる。肩が下がらなくなる。大丈夫だと思っていても、そうならないことがある。やる気になると普段の倍の力が出るのが、気が滅入ると普段の力も発揮できなくなってくる。 結局、生き物というのは、物として存在するというより、生活している人間同士が二人以上でお互いの気を受け取り合って生活しているのですから、人間はある意味では、気によって生きているのです。物として見

「愉気」ということー不摂生も必要ー24

人間の体にとっては、良いもの、悪いものという区分はないのです。ヒ素だって梅毒を治すでしょう。毒も薬として使えるのです。薬は毒だから薬として効くのです。田の草を取ってそのまま肥しにするように、毒も薬も同じものなのです。それを良いと悪いとに、はっきり分けてしまえば、何も出来なくなる。摂生する専門になったら、体は壊れてしまいます。 自動車が走るのは、タイヤ土との間に摩擦があるから走れるのです。止まるのも摩擦で止まる。ブレーキをかけると止まるのです。けれども全く摩擦がないと、雪の日に

「愉気法」の実習ー合掌行気法-

先ず合掌して指から手掌(てのひら)へ息を吸い込んで吐く。その合掌した手で呼吸する。これをそろえる。やっていると手掌がだんだん暖かくなり、熱くなり、ムズムズ蟻の這うような感じがしてきたり、涼風感があったりするが、そのまま呼吸を続けると手掌がだんだん拡がって室中いっぱいになり、「天地一指」という感じになって、自分がどこへ座っているか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる。 もっとも、初めから誰でもそうなるとは限りませんが、やっていると、いつか

「愉気法」の実習-脊椎行気法-

疲労したり、体力の呼び起こしを必要とする時は、背骨へ気を通す。 その方法は背骨で幾をすること。背骨に息が通ると汗が出てくる。背骨の硬いところは通りにくいが、通ると、“可動性””が出て来る。息を通すつもりだけでも、やっていると息が通ることが判る。その方法は、ただ背骨で息すること。方法は簡単だが、精神が統一すると体の力は一せいに発動する。 正座でも椅子でも、立姿でも臥(ふす)姿でもよい。初めは瞑目してやる。出来るようになったら、眼を開いたままでもやれる。慣れれば歩行中でも、仕

「愉気法」の実習-澄んだ気-

愉気法というのは、他人の体に息を通すことです。離れていても、手をつないでいても、その部分に手を離れていてもよい。自分の気を相手におくるつもりで、気を込めて息をおくる。それだけである。静かな気、澄んだ気がよい。強くとも荒んだ気、乱れた気はいけない。 愉気法とは、人間の気が感応し合うということを利用して、お互いの体の動きを活溌にする方法です。こういうことが果たして出来るかと疑念をもつ人がいるが、気を感ずる人なら出来る。物しか見えない人には出来ない。 秋の空の晴れ渡っているよう

「愉気法の実習」-気の感応と体の変化-

ともかく、気というものはその使い方で、体の中の勢いを誘導出来る。特に体の壊れた人は、早く恢復しようとする動きが起こる。弱い人は丈夫になろうとする要求が動き出す。 愉気して呼びかけると、呼び出されたままに感応して動き出して来る。例えば打撲でもして時、そこに少し手を放して愉気していると、自分の手が冷たくなるような気がする。そのうちにピりピりしびれるような感じがしてくる。相手も温かい感じがしたり、ズキンズキン脈打っているような感じがしたりして、皮膚が汗ばんで来る。そしてそういう感

外路系の体育・活元運動を始める前に➖自家用薬と代用薬➖

私は、人間は自分の裡にある力によって自然に体を整え、丈夫を保つ事ができるのだから、どなたも自覚して活元運動をやりだすだろうと考えておりました。 ところが、いざ大勢の人教えようとすると、思いがけない抵抗にあいました。病気を治すのに薬なんか飲まないで治るなんて、そういう非現実的な治療法はあり得ない、と言うのです。 けれども、本当は薬を飲んで病気を治すことのほうが非現実的で、不思議なことなのです。人間にしても、他の生きものにしても、生まれる以前から、自分自身が丈夫に生きてゆくため

外路系の体育・活元運動を始める前に➖摂生のついての考え方➖体の正しい使い方-

本当に丈夫になるためには、やはり自分の体の力で、自分に体の正常さを保つように体を訓練する-それだけしかありません。足を丈夫にしようと思ったら歩くことです。足を大事にしているつもりで、歩かないで座っていたら、足が細くなってきます。頭だって同じです。胃袋だって同じです。 生きものの体は、すべて使わなければ衰えていくのです。使えば丈夫になっていくが、使わなければ衰えていく。ですから、強い人も、弱い人も、そういう体の使い方をしたからそうなったのです。 ですから、丈夫になるためには