
【推しの子】絶対にハッピーエンドにしたかったので最終話の続きを書きました
当然ながら、B小町の復活ステージは大成功した。
ルビーはひとり、控室の壁に背をつけて座り込む。
打ち上げは自粛してもらって、スタッフは丁重に追い返した。Memちょにも帰ってもらった。有馬かなはすぐに帰った。拍手と歓声が鳴り止むよりも早く、あっという間に。
きっと彼女もひとりになりたかった。
ステージは楽しくて、生きる理由と前を向く理由で溢れていて、だけどそれを分かち合いたい人が、ここにはいなかったから。
「泣いていないんだね」ツクヨミに声をかけられて、ルビーは顔を上げた。
「観にきてくれてたんだ」反射的に作った笑顔に、暗い星が宿る。「全然気が付かなかった。いつからそこにいたの?」
「君がこんなに早くこの世界に復帰するとは思わなかった」ツクヨミは無表情で、どこか怒っているように見えた。「もう事件のことは吹っ切れたのかい?」
「吹っ切った、とはちょっと違うけど」ルビーは冷静に答える。「立ち上がれた理由はあるよ。私は、もっと不幸な人生があることを知ってるし。それに、私とお兄ちゃんは、ちょっと特別な体験をしてるから」
ルビーは立ち上がり、ツクヨミのそばの椅子に座り直した。そして彼女の腕を掴み、抱き抱えるように膝の上に座らせた。
「わ、ちょっと」
「ツクヨミはさ、そういうの詳しいよね」蛇のように、ルビーの手がツクヨミに絡みつく。「来てくれてよかった。私、ちょうどあなたに会いたいと思ってたんだ」
「な、なんの話かな?」ツクヨミは身体をこわばらせた。
「わかってるくせに」ルビーは囁く。
「私は子供だから、難しいお話はよくわからないなあ」
「嘘つき」ルビーは逃さない。「ねえツクヨミ。私ね、奇跡が現実にあるって知ってるんだ。たとえば、寝たきりだった女の子が夢を叶えてアイドルになったり。探しても探しても見つからなかった人が、実は初めからすぐ隣にいたり。隣にいたその人が、転生した初恋の人だったり」
ツクヨミは、神の眷属の写身は、憐れみと共にルビーの声を聞く。
「だったら、同じ奇跡がもう一回起きるかもしれないよね。ううん。もしかしたら、それ以上の奇跡だって……」
「じゃあ君は、アクアがまたどこかに転生するか、あるいは生き返るかもしれないと?」
「うん」
それは無理だ。という言葉を、ツクヨミは飲み込んだ。もっと早く話してやるべきだった。アクアの魂は確かにこの世界から消えている。アイの魂と同じように。
そも本来、神は人に執着しない。わざわざ奇跡を運ぶこともない。月の光と共に人を導き、運命を司る神たる自分の主人は、かつて確かにルビーとアクアに奇跡の糸を結んでやった。魂を移す奇跡の糸を。しかしそれは、現世にまだ魂が残っていたから叶ったことで、もしまたこの身を賭して頼んでも、もう同じ結果は導けないだろう。まして蘇生なんて、その神々が紡ぐ奇跡の糸を集めて、布を織るくらいの無理難題だ。史上それを成し遂げたのは、八百万の神々に寵愛を受けながら、兄神の謀略で命を落とした、かの大国主命くらいではないか。
「だからツクヨミ。お兄ちゃんに伝えて。もしあなたにそういう力があるのなら」
ルビーは真剣に言った。ツクヨミは目を閉じ、自らの無力を呪う。
「絶対また会えるって信じてる。だから私はステージに立つ。ステージで待ってるって」
「……ああ、わかったよ」
ツクヨミは嘘をついた。ありえない希望に縋るルビーが、あまりにも不憫だった。
--------------------------------------------------------------------------------------
アクアが目を開けると、そこは天国だった。
「あ、やっと起きた」
目の前にアイの顔があり、頭の下にはアイの膝があった。
「……久しぶり」アクアは身体を起こす。そこは見渡す限り気持ちのいい草原で、太陽のない空が淡く光っていた。
「驚かないんだ?」
「いや、驚いてるよ。死後の世界があるんじゃないかと考えたことはあったけど、もしあっても俺は地獄に堕ちると思ってたから」アクアには前世の記憶があった。無関係な肉体に記憶が引き継がれたのだから、記憶を媒介した何かが肉体の外にあるはずだ。それはきっと魂と呼ばれるもので、ならば死後の世界があってもおかしくはない。アイはもうどこにもいない、とツクヨミは言ったが、それは『この世界の』という意味だったかもしれないし、受肉した神であるツクヨミの観測範囲を超えただけかもしれない。だけどその誘惑は検証不可能で、復讐の邪魔になる毒のような希望だったから、それ以上考えないようにしていた。
「まさか今になって、もう一度母さんに会えるなんて」
「うぅーっ」アイは悶えた。
「どうした?」
「お母さんって呼んでくれるの、嬉しい!」
「そりゃあ、他に呼びようがないだろ」アクアは平静を装う。
「私が生きてた頃は、あんまり呼んでくれなかったじゃん」アイは頬を膨らませた。「刺された時も『アイ』呼びだったし。地味に傷ついたんだよ、あれ」
「いや、それは」アクアは言葉を濁す。当時はまだ星野アクアとして生まれたばかりだったから、雨宮五郎の影響が強く出ていたのだ。
「なんてね。見てたよ。もう知ってる」アイは聖母のように微笑んだ。「アクアは、他の人の記憶があるんだよね」
「ああ」アクアは素直に頷いた。
「驚かないの?」
「そうだな」アイの纏う空気は生前よりもなお超越的で、全てを見透かされているような、むしろ見透かされることが当然のような錯覚があった。「驚くというより、申し訳ない」
「どうして?」
「いや……」
「嘘つきだから?」アイは悪戯っぽく言った。その通りだった。
思えばこの人生は初めから嘘だった。愛されるべき普通の子供であるという嘘。悪意や打算で吐いた嘘ではなかったけれど、愛情を受け取る資格があったのかは疑わしい。
「大丈夫。アクアは私に似て……はないか頭いいし。だけどさ、やっぱり私の子供だよ。だってあんなに嘘つきで、それもこれも全部、とびきりの愛でしょう?」私の方が嘘は上手いけどね、とアイは笑った。「それより、ちゃんと驚いてほしかったなぁ。ここから地上を観るのって結構凄いことらしいよ? 誰にでもできるわけじゃないんだから」
アイは立ち上がった。私服だったはずが、いつのまにかアイドルの衣装になっていた。
「死んですぐ、アマノさんって神様にスカウトされてさ。芸能の神を自称するちょっとイタい人なんだけど」
「アマノ?」アクアは呟いた。ありふれた名前だが、神様というなら思い当たるものがあった。アマノーー天鈿女命。天岩戸を芸の力でこじ開けた神々のアイドル。原初の踊り手たる芸能の女神である。
「うん。このまま輪廻の輪に還るか、神様の世界でアイドルに挑戦するか選ばせてやるって。私はもういいかなーと思ったんだけど、トップアイドルになれたらルビーとアクアを見守る道具をくれるっていうから、やることにしたの。こっちにもファンクラブがあってさ、神様相手に握手会とかするんだよ。ウケるでしょ」
ウケない。
神の定義はさまざまだとツクヨミは言った。前世の記憶を継いでいるルビーやアクアも、肉体的にはただの子供であるツクヨミも、ツクヨミの定義では神であるらしい。そして神には神の理があり、現世に直接干渉するのは理に反すると。
ならば神には神の世界があるはずだ。集合があり、社会がなければ共通の理は生まれない。
「ここは、じゃあ、神の世界なのか?」
「さあ、そうなんじゃない? アマノさんはそう言ってたよ」
アクアはアイの頬を引っ張った。
「ふぁにするの?」
「いや、これも夢なんじゃないかと思って」
「急に冷静になるね。実体あるよ。さっきまで膝枕してあげてたじゃん」
「だけどおかしいだろ、そんなの」アクアの声が震える。「アイはまだわかる。才能があるし、ストーカーに未来を絶たれた被害者だ。そりゃ神様だってつい手を差し伸べるだろう。だけど俺は凡人で、カミキヒカルを殺して自殺した罪人だ」
「あれは正当防衛ってやつでしょ」
「こんなの都合が良すぎる。俺は間違った道を選んだ。罰を受ける責任がある」
「何の罪で?」
「復讐にみんなを巻き込んだ」
「それは15年の嘘を上映した時に終わってた」アイはアクアの頬に触れた。「いい映画だったねあれ。私も泣いちゃった。ルビーもすごく立派になってさ。アクアのおかげだね」
「……ルビーを傷つけた」アクアは絞り出すように言った。「ルビーが望まないとわかっていて、あの子の未来を守りたいという俺のエゴを優先した。彼女が傷つけられるどんな小さな可能性も許せなかった。それで結局、俺自身がルビーを傷つけることを選んだ。俺が死んでも、有馬がいれば立ち直れると思った」
「それから?」アイは優しく言った。
「有馬を傷つけた。卒業ライブを見に行ってやれなかった。ずっと好意を向けてくれていたのに一度も応えないまま踏み躙った。それでも、きっと有馬は最初に前を向いて、ルビーが立ち直るまでB小町として活動を続けてくれると思った。有馬の強さと優しさに期待して、最悪の形で甘えた」アクアの口は、堰を切ったように言葉を吐き出した。傷つける覚悟はしていた。うまくいくという計算もあった。アクアの死で15年の嘘は確実にヒットする。ルビーの背負う物語は更に劇的になり、有馬やMEMの支えを受けて立ち上がった彼女はスターダムを駆け上がる。B小町は日本で一番有名なアイドルグループになるだろう。長期的に見れば、あの映画に関わった人物は、業界での地位を確実に高めるはずだ。しかし、そんな理屈をいくら並べても、大事な人をいま傷つける罪悪感が消えてくれるわけではない。「あかねを傷つけた。あいつはいつも俺を救おうとして、道を踏み外さないように、踏み外しても一人にならないように、こちらに手を差し伸べ続けてくれた。俺はその全てを振り払って一人で死んだんだ。到底返せないくらいの借りを借りっぱなしのまま踏み倒した。MEMも、社長も、監督も……。俺は」
「そうだね。それがアクアの罪」
アイは背を向けて、アクアから離れるように歩き出す。
「だから、次は同じ失敗をしちゃダメだよ」
「待ってくれ。どういうことだ?」追いかけようとしたが、足が動かない。アクアは叫んだ。「俺に次なんてない。置いていかないでくれ」
アイは足を止めて振り返り、心臓を撃ち抜くようにアクアを指差した。
「アクアの過ちを嘘にしてあげる」
その距離は、ちょうどアリーナ最前列とステージの間くらいだった。
「あの日、神木くんは本当にアクアを刺す。そして二人で崖から落ちて、たまたま近くにいた漁船に救助される。アクアは奇跡的に助かるけど、神木くんは打ち所が悪くて意識が戻らない。そういう嘘を、世界に信じさせる」
これまでのお話はフィクションでした。
タイトルは仮題でした。
これから語り直される物語が、星野アクアの本当の人生です。
「アクアは精一杯頑張ったよ。神様に与えられた役割を果たして、ルビーを守るためにできることをやった。ならそんな立派なお兄ちゃんのことは、親の私が守ってあげなくちゃね」
アクアは呆然とアイを見るばかりだった。アイが何を言っているのかわからなかった。
そして彼女は唄い出す。
「天鈿女命さま、かつて天岩戸をこじ開け、闇に堕ちた世界を再生した大いなる我が神よ。私の集めた寵愛と、歌と踊りを贄として、あなたの永遠の眷属が、畏み畏み申します。その偉大なる権能と、八百万の加護とをもって、かの魂ををちかへり給え」
それは歌というより祝詞で、踊りというよりも舞だった。神々しいステージに一瞬で目を奪われ、言葉を奪われ、ただ無心で見つめるうちに、魂の輪郭が崩れるように、アイの姿が遠くなっていく。
「またね、アクア。今度はあなたも幸せになって」
最後に見えたのは、神々をも虜にした、完璧で究極のアイドルの笑顔だった。
--------------------------------------------------------------------------------------
アクアが目を開けると、そこは病室だった。
「え、お、あ、起きた?」
目の前には有馬の泣き腫らした顔があり、頭の下には枕があった。
「あんたいま目あけたわよね! ルビー! ルビーちょっと起きて! アクアが!」
「……腹式呼吸で叫ぶな。ここ病院だろ」
「返事した! あかね! アクア起きた! ナースコールー!」
あっという間に、病室はとんでもない姦しさに包まれる。アクアはつい笑った。
腹の傷がとても痛くて、生きている感じがした。