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届かない憧れを語る人間に共鳴する〜武者小路実篤「山谷もの」論より~

武者小路実篤の「山谷もの」という連作群で卒論を書いた。もう10年も前。久しぶりに読み返したらずいぶん拙い。だが、熱かった。本当に興味のあることを書いたから、自分にとっては面白かった。

そして当時の自分に刺さった部分が、今も変わらずに刺さった。

何かを語ると言うことは、同時に自分を語ることだ。
何に目をつけ、どう語るのか。自分の憧れやコンプレックスがまざまざとあらわれてくる。
そんな私の「山谷もの」論をどうか聞いてほしい。


■前提としてなんとなく読んでもらえれば【山谷もの概要】

未読でも気楽に読めるように軽く説明します。
ちなみに武者小路実篤のことはむしゃさんと呼ばせてください、愛を込めて。

「山谷もの」(さんやもの)はむしゃさんが戦後21年にわたり書きつづけた連作で、短編・長編・戯曲など計68作品からなる。
山谷五兵衛(さんやごへい)という人物が作家「僕」に語った話、というスタンスをとったむしゃさんの作品をまとめて「山谷もの」と呼ぶ。「馬鹿一もの」と呼ぶ場合もある。(ほとんど研究もされず放置されているので適当なのです)

全作品を読むには全集にあたるしかない。文庫で今も手に入るのは『真理先生』のみ。(『馬鹿一』『空想先生』は絶版だけど入手は可能)

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これは本筋と関係ないが、連作でありながらあちこちの雑誌に書き散らしていたことも興味深い。(「心」「新潮」「改造」「群像」などの文学系の雑誌はもちろんだが、「婦人画報」「公務員」「学苑」など頼まれればどこにでも書いている)

山谷もののスタンダードな始まりは以下のようなものだ。

退屈している作家「僕」のところに、山谷五兵衛という男がふらりとやってくる。僕が「何か面白い話はあるか」と聞くと山谷が「あるね」と言って語り始める。

そうして語る内容は、山谷が興味を持った人物、絵、憧れる精神や生活についてなど。

■馬鹿一だけ覚えてもらえば大丈夫【主要人物4人の紹介】

馬鹿一 貧乏しながら下手な草や石の絵を描いて皆に馬鹿にされている。徐々に絵の理解者が増え、絵描きとして認められていく。最も多く語られていて山谷ものは馬鹿一の成長物語とする見方もある

白雲 人気の画家でお金持ち。自分の絵の俗っぽさを気にしている。馬鹿一の絵を認め、自分の絵も変化していく。

泰山 白雲の弟で貧乏書家。白雲から金銭的援助を受けていたが、徐々に書で暮らせるようになる。愛妻家。

真理先生 真理を語る人。お金を持たず、後援会の助けを得て慎ましく暮らしている。馬鹿一の絵の良さを一番最初に見出す。

登場人物はむしゃさんと常に同年代で、初期は50代、終わりの頃は70歳前後になっているようだ。
「脱俗の仙境」という評もあるが、悪い女性に惚れてだまされたり、金銭トラブルがあったり、なかなか俗なことも多い。彼らはむしゃさんが理想とした新しき村には住んでいない。

ただ、彼らは真剣に芸術に取り組み、真理について語り合う。その時、心の中でだけ、彼らは「脱俗の仙境」に行く。

■他人の成長に伴って、自分も変わっていける【山谷の変化】

さて、語り手の山谷五兵衛は「狂言回し」と評される。
ふらふらと誰かの家に遊びに行き、おしゃべりをして、それをまた他の誰かに話す。上記の登場人物らは山谷を介して知り合い(白雲と泰山は兄弟なので話は別だが)、親交を深めていく。ちなみに山谷は画商のようなことをして生計を立てているらしい。

初期の作ではよく「おっちょこちょいで嘘か本当か分からない話をする」という説明が山谷になされていた。(語りの多重構造については今回は触れない)
だが山谷は作品が進むにつれ、狂言回しや語り手ではなく、ひとりの登場人物としての人格を備えていく。私は山谷のその人格が、その切なさが好きでたまらない。

山谷は馬鹿一の成長に伴って変化していく。

石ころや雑草を愛で、その美が見えるのに描けないと泣く馬鹿一を、最初は山谷も仲間とともに馬鹿にしていた。

それで僕達の間に、何とかして馬鹿一に、お前は馬鹿なのだ。お前の仕事は無意味なのだ。お前程無意味な存在はこの世にないのだと言ふことを知らせることが出来るかどうか、かけを行はうと言ふ相談が行はれたのだ。『馬鹿一』

そんな無邪気に残酷な山谷が、三つのきっかけを経て変化していく。

一つ目は、真理先生が馬鹿一の絵を理解してくれた時。一生現れないと思っていた理解者と出会い、馬鹿一は感激し、絵に変化が生まれる。
その時、山谷も初めて真剣に馬鹿一の絵に向き合った。

たしかに変わつた画である。間抜けな画でもある。だが変に可愛いい画である。愛してかいてゐる事がわかる。微笑ましい画である。『真理先生』

そして山谷は馬鹿一の絵を購入した初めての人となる。馬鹿一は「君も変わったね。皆に気が違ったと言われるぞ」と驚く。
以後、作を重ねるごとに山谷は馬鹿一の絵とそれを描く姿勢に感銘を受けるようになる。

二つ目は馬鹿一が金目当ての女に騙された時。

本気になつて彼のことを心配する者が居なかつたら、彼はどうなるかわからない気がした。今にも彼はひどい目にあつて、一人でどうしていいかわからないで困つて居はしないかと言ふ気がした。『馬鹿一と或女』

他の登場人物が「絵かきとしての馬鹿一」にしか興味がなく、傍観している中、山谷は馬鹿一を助けようとひとり奮闘する。
絵かきだからではなく、人間としての馬鹿一を山谷は気にかけ、敬意を払う。


そして三つ目。連作の終盤、馬鹿一が突然亡くなった時。そこからの山谷の取り乱しが人間臭い。
死後の整理をしながら「彼は本当の意味の友達はなかった」と馬鹿一の孤独を再発見するも、「我が貴き友」と片思いのように呼びかける。

馬鹿一の死後、山谷を主人公に連作は続く。
馬鹿一の代わりに、馬鹿一の家で憑かれたように絵を描こうとする話。何度も馬鹿一を夢に見る話。山谷は馬鹿一の死を惜しむ。苦しみながら惜しむ。

「今になつて私には馬鹿一はただの人間ではないような気がするのです。(中略)私が死んであいつが生きるのでしたら、それこそ死んでやつてもよかつたと言う気がするのです。私自身さえそう思うのですから、あなた方がそう思つていらっしやるのは無理がないとおもいます」

こんな悲痛な言葉を周りに投げかけては幾度も泣いた。
そして3年かけて少しずつ山谷は落ち着いていき、以下のように語る。

私は彼に逢わなかったら、彼のような生き方があると言う事は、想像出来なかったと思います。しかし私はこの目で彼を見、彼の仕事ぶりを見、彼の生活を見、現在彼の仕事を見ています。『三人の話』

人は人に会って変わっていく。
「お前程無意味な存在はこの世にないのだ」と馬鹿一に思い知らせようとした山谷が、馬鹿一を愛し、死後も悼みつづける。馬鹿一の生き方に感化され、山谷の世界は深く広がった。

■憧れを語る「わかった気」の切なさ【山谷の悩み】

馬鹿一に感化され成長した山谷は、徐々に主要登場人物らに認められていく。
しかし山谷は彼らのように一途に専念するものがない。そのことをたまにこぼす。次の文は山谷と泰山の会話。

「私は時々考へるのですがね。私の生活には前進がないのがいけないのではないか、あなた達の生活には前進がある。いい書をかく、と言ふことがありますがね」「それは君の生活にだつていくらでも前進の道はあるさ。現にきみだつていくらか利口になつて来てゐるよ」『暴君と書家』

泰山は山谷の成長を認めてくれるが、山谷への評価は甘いものだけではない。

白雲が、仕事がものになってきた喜びを噛みしめて、
「僕の気持ちがわかるのは、泰山一人かも知れない」と言ったのに対し、
私にだってわかりますよ」と山谷は応えた。すると白雲はそれをたしなめる。

「本当にわかるかね。この気持ちが本当にわかるのには自分でもそれだけの経験を持っている人だけだよ。泰山にはわかる」

山谷は「私にはわからないのですかね」と引き下がらざるを得ない。
このようなことが連作の中で何度もある。

山谷は積極的に様々な人に会い、興味を持ってその人の話を聞くが、それは実体験ではない。だからいつまでも「わかる気」だけでそれ以上にはならない。

人生の妙味は実感で味わえる時、一番その人の幸福な時と思うが、私はそう言う時を自分で経験した事は少ない

白雲に先ほどの台詞を言われたあと、珍しいことに山谷は上記のように自省する。

また、山谷は作家「僕」とこんな会話をする。

「先生、人間て生きてゐても、面白いことはありませんね」
「君は何もしないからだよ」
「今から何も出来ませんからね」
「何かやつて見たいことはないのかね」
「何もありませんね」
「君のほめてゐる人は皆、何かやつてゐる人ぢやないか。君も何かやつたらいいだらう」

今までもこれからもやりたいことはなく、生きていても面白くないという山谷の暗い一面が描かれている。(浮気でしくじり落ち込んでいた時でもあった)

また、泰山が「全力を出し切れる時だけは生きた気になれる」と言ったのに対し、「全力を出さないでゐられない人は、選ばれた人ではないのですか」と彼らのようにはなれない自分を顧みて、彼らへの羨望を覗かせる。

■それでも存在は肯定される【山谷ものの包容力】

山谷の暗い一面について焦点を当ててみたが、それは時おり垣間見えるだけで、話の主題にはなっていない。だがその痛みやもどかしさが「山谷五兵衛」を思い浮かべる時に最もリアルなその人らしさに感じる。

しかし山谷ものの心地良さは、そのような暗さを全て飲み込んで肯定できるところにある。

山谷は自分を振り返ってこうまとめている。

僕は今日まで何に一つものにならず、ぶらぶら過して、それでも別に後悔もしないでくらして来たのは、いろいろいい人を知つて、その人達から不思議に愛されて来たからだ。『山谷の結婚』

山谷は何者にもなれていない自分を悔やむことなく自己肯定していて、それは周囲の人のおかげだと感謝している。

山谷は山谷らしい生活をしてゐる。彼は自分の力以上の生活を別にしたがらない。彼は誰にも悪意が持てない男で、又野心家ではない。彼は誰にも尊敬はされないが、しかし愛されてはゐる。彼は相変わらず、いろいろの人を訪ねて、相変わらず生きてゐるのだ。『山谷五兵衛』

作家「僕」もこのように山谷を肯定している。

ここまでをまとめてみる。
馬鹿一の成長と死を通して、変わっていった山谷だが、今までもこれからも、全力で打ち込めるものがない。
人に聞いた話で分かった気になるが、経験していないから実感できない。
そのため、憧れる人たちに「わかっている」と認めてもらえない。
という悩みを抱えていた。

しかし、その悩みはあるままで、自他共に肯定され愛されている存在として山谷は描かれている。

■むしゃさんにとって山谷ってなんなのか?【武者小路実篤論】

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(真理先生+馬鹿一+白雲+泰山)÷5=この男

『真理先生』の口絵に、自画像のスケッチとともにむしゃさんはこう書いた。そしてあとがきで以下のように述べた。

出てくる人物にモデルはない。(中略)四人とも僕の分身で、僕をいくらか純にし、誇張した所がある。だから四人を合わせて四でなく、五で割ると僕に近い人間が出来るわけと思ふ。『真理先生』あとがき

なんとなく分かる気がするが、それでは山谷はどこへ行ってしまったのだろう。彼はむしゃさんの分身ではないのか?

武者さんを小説家だというとXが残る。画かきというと矢張りなにか残る。宗教家、哲学者といっても何か残る。結局武者さんを縛る縄も掟もない。武者さんは人間であるというより仕方がない。『腹の虫』

むしゃさんの友人中川一政はむしゃさんについてこのように書いている。
これを山谷ものの登場人物に当てはめてみる。

小説家は、小説家「僕」
画かきは、馬鹿一と白雲と泰山(泰山は書家だが、むしゃさんの画は絵と字がセットなので)
宗教家哲学者は、真理先生

それぞれ割り振っても、残る何か。

それが山谷ではないか。
むしゃさんの最も「人間」らしい部分。なにものでもない部分。

さらに「人間」というキーワードから、私はむしゃさんの処女作の序文を思い出す。

学力と文才に就いて自信なき私にとりて、唯一の自信は「自分が人間である」と云ふ事です。私が人間である以上は自分の思ふ事を正直に書いたならば、必ずその中に他人の心と共鳴し得る或ものが有ると思ひます。今の私にとりて他人と共鳴する事は無上の喜びです。(『荒野』序)

処女作序文はむしゃさんには珍しいほど謙虚な文だ。でも「人間である」ということで全てが肯定される強くあたたかい文。


むしゃさんはその後、白樺派の精神的支柱として「今にやるぞ」と周囲に大見得を切り大言壮語を吐きつづける。
理想郷「新しき村」をつくるが人間関係や金銭面で生涯苦労する。
第一次世界大戦では反戦を叫ぶも、太平洋戦争では熱に浮かされ戦争を支持し、のちに戦犯となる。戦後おおいに後悔する。

むしゃさんはその時々で愚かなほどまっすぐで、思ったとおりのことを言ってしまう。
だが、それすら人間らしい。

芸術を愛するむしゃさんは小説や詩、絵などに生涯本気で打ち込んできた。
しかし失礼ながら、彼が憧れる一流の域にまで届かなかったのかもしれない。むしゃさん独自のリズムや勢いのある率直な文が私は大好きだが、芥川や志賀と比べて文学的価値が高いかと言われると厳しい。

だが芥川はむしゃさんの登場を「文壇の天窓を開け放って爽やかな空気をいれた」と評し、志賀はむしゃさんを生涯の親友とし、多くの影響を受けた。

書かれたものだけが、芸術の成果ではないのかもしれない。
向日的なむしゃさんの存在が、語りが、新しい何かを生み出したのかもしれない。
それは山谷五兵衛にも言える。

ところで、むしゃさんの小説に出てくる主人公は、やる気と才能に満ちた努力家ばかりだった。
しかし晩年、やる気のない山谷五兵衛というキャラクターが生まれた。ただの狂言回しだったはずが、いつのまにか人格を持ち主人公になっていった。

なにものでもない山谷に、私は一番共鳴する。

大事な人の死をずっと引きずり苦しんで。
自分に欠けた部分を気にしつつも変われなくて。
認めてほしいけど自信がなくて。
憧れには届かなくて。

それでもそのままで山谷は愛され、存在を肯定されている。
武者小路実篤のように。

********

■おわりに

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
いつか書いてみたかったものをこの機会を得て書き上げられました。ひとりよがりでなければいいのですが。

書きながら気づいたのですが、山谷が憧れながらも欠けているものこそ、教養なのかもしれません。ただ知識として知っているだけではなく、己の日々の実践の中で身についていく言葉や行動。
私自身もそれに憧れています。それなのに頭でっかちで行動が伴わなくて、山谷に共感を抱きながらうじうじしていました。

けれどnoteを知って、自分でも書きはじめられた。
noteには素敵な文がいっぱいあって、それを書く素敵な人がいっぱいいて。自分もそんな文を生み出したいと憧れを糧に書いています。

最高傑作を書く!と力んで何も書かないより、エチュードでいいからまずは書いてみることが大事、と日々自分に言い聞かせつつ。
未熟だけど、山谷より一歩進めたかもしれません。

けれど憧れに届かなくて、不安は幾度もやってきて。黒く固まった自分は気にも留められず、素敵なnoteがどんどん流れてきます。

認められたい、自分も「わかってる」仲間に入りたい、という山谷と同じ欲求で今もひりひりしています。

それでもそれを含め人間として、誰かと共鳴しあえたらいいな。届いたらいいなと願って、これからも書いていこうと思います。


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