Chapter0. Author’s Preface①
現代天文学創始者を紡ぐ歴史家曰く、現在から遡ること3,000年前、哲学者クレアントゥスは、地球の自転を支持し、太陽こそ宇宙の不動の中心なりと果敢にも発言したアリスタルコスを冒涜罪で告発した。更に2,000年後の人類の理性は膠着したまま、クレアントゥスの望みが実現した。コペルニクス、アリスタルコスに倣い、同じ真理を力説したガリレオが冒涜と不敬の罪で告発されたのだ。法廷が彼の書物を咎め、下された撤回令を彼の良心は拒んだ。
この事件に関する歴史家の見解は以下の通りである。
ガリレオが苦悩した「不都合な記憶を残す裁判の厳格な正義」は、著者も属するアカデミーの学者や学識経験者のものであることは言うまでもない。そう。不寛容とは憎悪し、嫌悪すべきであり、ガリレオの状況は一際陰惨なものであった。彼は教会に連行され、口述された棄教を大声で唱えることを強要された。「私、ガリレオは、齢70にして、猊下の前に膝を着き、私の手で触れた聖なる福音書を前に、地球の運動に関する誤りと異端を棄て、呪い、憎みます。」人間の良心に対するこの残忍な暴力に勝る残酷な拷問はない。それを犯した者がイエス・キリストの司祭となれば、これは権力の最大の濫用であり、高慢の極致である。
聖務聖省の神学者に天文学者のガリレオを裁く資格はなかったが、門外漢の身の上で持論と異なる見解を誤りと切り捨て、当時の教皇は、聖典に違反すると「神自らの口より述べられた」と言った。事実として彼等は何を把握していたのか?確かに、ただの実験結果を基に『人間の理性が如何に長期間同じ次元に停滞し続けるか』を観察するのは苦痛である。ガリレオの断罪から適切に教訓を得られたのか?そして三世紀が経過した今、「未だ理性の力を拒む者達に厳格な正義を貫く裁判」が真理の勝利の為に無私の献身をする者達を擁護し得るのか?端的に、大衆の為に他者の発見の価値を判別する権威達が排他的でなく、或いは少なくともより公平性を保ち、相反する見解に即座に口出しせず、事実検証よりも事実の否定に走ることはないか?それは興味深い。そしてこの教訓が活きていないのであれば、責任の所在は「人間の理性」であろうか?枝葉末節に拘る推論、即ち、情熱と個人的利害で頻繁に歪曲する推論の乱用こそが、私的道徳心を抑えて大衆を惑わすのではないか?そんな検証に面白味はない。
密接に融合した化学と生理学に関心が集まり、今や閉鎖的な19世紀後半を扇動した議論の顛末は、人間の本質がクレアントゥスの時世から成長しておらず、民衆の信念を変え、偏見を払拭するような、疑いない事実に基づく新理論を考案した不幸な者を攻撃・侮辱する者達が常に待ち構えていることを明示するには最適である。
遂に学識ある公衆へ贈る血液に関する本作は、1854年以来弛めることなく探求してきた発酵素、発酵現象、自然発生、アルブミノイド物質、生物学、生理学、一般病理学に関する研究の集大成である。同時期の純粋化学の研究にも幾分か関与する為、四方八方、時に予想もせぬ方面から容赦なく襲い来る批判の困難に曝されてきた。
極めて繊細な問題を解決するには、生理学・化学・解剖学的な分析法を新たに構築する必要があった。1857年以降、この研究は緻密な研究設計の下、とある目的を志向していた。即ち、有機的構造体と生命に関する新たな教義の発表である。これが生体組織の微小発酵体 理論に結実し、更に血液の第三の解剖学元素の発見によって血液の本質の解明に繋がり、自然凝固と称される現象の、少なくとも合理的な、自然な説明が可能となった。化学における物質のラボアジエ理論に相当する生物学理論であり、未知の分類系統に属す生物の発見に基づく微小発酵体理論は、まさにその生物の存在自体の否定という攻撃に遭遇してきた。斯くなる状況を踏まえ、生体組織の微小発酵体理論が化学のラボアジエ理論に相当する頑健な基盤を生物学に提供するという宣言が軽率だとされるならば、私はこの軽率を犯し、果てまで軽率を貫き、そしてより過激さを増し、より人工的に変遷する流行の意見と闘争することを選ぼう。
微小発酵体の実在を否定する最も厚顔な人物が以下の記述をしている。
大いに結構、素晴らしい。著者がこの賢明な教訓に背くよう細心の注意を払った点からも猶更である。それではここで起源に遡ることにしよう。