Chapter1. フィブリン研究史概説⑦
前回⇩の続き
フィブリンおよびフィブリン性微小発酵体による過酸化水素水分解理論
この章の冒頭で、有機的組織(例:肝臓)が過酸化水素水を分解する現象を発見したテナールについて述べた。氏の構想では、フィブリンは過酸化水素水を分解する近成分であり、近成分の中でこの特質を備える唯一の物質であった。だがこの分解現象の本質とは一体何か?テナール曰く、フィブリンと有機的組織は「金属(例:白金)と同じ原理で過酸化水素水を分解する。一切の成分を損失させず、僅かにも酸素を吸収することもなく、視認可能な最小限の変化も起こさない。」端的に、フィブリンによる過酸化水素水の分解は、二酸化マンガン等の金属を例とする「存在による作用」「接触触媒作用」に起因する。数年前の科学の実態であり、恐らく現在も変わりない。血液や有機的構造全般の正確な知識を得るには、この現象の事実と原則に関する真意の立証が不可欠であった。テナール自身が発酵現象の有望な解釈として提唱し、「存在の作用」「触媒作用」と称される仮説の嚆矢 であり、これが真の発酵理論が大いに誤解される原因なのだから猶更である。
実際的には、酸素放出を伴うフィブリンの過酸化水素水分解は、二酸化マンガンのような「存在の作用」ではなく、以下の実験の通り化学反応の結果である。
新鮮な雄牛の血液フィブリン30g(100℃乾燥で3.79g)は過酸化水素水60㏄(酸素がその10.5倍量含有)を三度連続して分解した。2、3回目の添加で酸素の放出は徐々に遅延し、3回目から24時間後、過酸化水素水に未分解の量を残しつつガスの放出が消失した。過酸化水素水180㏄に含まれる酸素1,890ccの内、計1,600ccが放出された。フィブリンが一切の分解を受けず、そこに化学反応が無ければ、(過酸化水素水が連続作用した)溶液に有機物は存在しない筈である。しかし、この溶液を蒸発させると可燃性残渣が残り、100℃乾燥を経てその重量は(灰成分を除き)0.1046gであった。即ち、湿潤フィブリン100部分に対して0.5333部分、100℃乾燥のフィブリン比で2.76%である。
フィブリン性微小発酵体が過酸化水素水を分解すると、自身の成分の一部を放出する。微小発酵体6g(新鮮で湿潤状態から100℃乾燥で0.8g)の分解作用が枯渇した後に100℃で乾燥させると、溶液の蒸発の後に(灰成分を除き)可燃性残渣0.06gが残った。即ち、湿潤微小発酵体100部分当たり1部分、乾燥微小発酵体の重量の7.5%である。故にフィブリンおよびその微小発酵体による過酸化水素水の分解は、溶液中に自身の成分の一部が検出される以上、白金や二酸化マンガンと同じ原理ではない。
テナールの判断の誤りは、第一に、氏が放出される酸素量のみに着目した点である。氏にはこれが過酸化水素水の酸素量の全てであり、また酸素の吸収量が極微量であり、一方のフィブリンには一切の変化がなく見えた。だが残渣物が過酸化水素水に作用せず、澱粉も液化せず、バクテリアも発生しない以上、実際には顕著な変化がある。
これらの観察は過酸化水素水処理後に回収した微小発酵体にも該当する。この微小発酵体は処理前と形態学的類似性がありながら、澱粉液化もバクテリア進化も起こさない。従って、フィブリンやその単離微小発酵体による酸素放出の伴う過酸化水素水の分解は、分解活性を枯渇させたその物質の特性上の変化が伴う化学反応と相関関係にある。
また、フィブリンと単離微小発酵体それぞれの反応生成物(残渣物)の溶解量を割合比較すると、微小発酵体の供給量が遥かに多いと判明する。フィブリン内の微小発酵体の量、即ち湿潤フィブリン60g(100℃乾燥で5.79g)当たり0.0335gだけで換算しようと、微小発酵体の供給量はフィブリンを遥かに上回る。
実際には、乾燥フィブリン100部分に対する2.76部分の成分を仮定し、フィブリン性微小発酵体の反応生成量を単離微小発酵体比で算出すると、後者7%の代わりに4%だと判明する。私はこの差分をあまり強調しないが、それは計量の困難と不正確さが部分的に寄与している可能性がある為である。だがこの比較により微小発酵体の供給量が単離の有無を問わずフィブリンを上回ることは明白であり、後述の通り、微小発酵体架橋質には過酸化水素水分解作用はない可能性を示唆している。
何れにせよ、微小発酵体の構成成分の一部(恐らくは近成分)が供給、変換されることは明白であり、またその質量の大部分と形態が維持される以上、過酸化水素水分解の作用因子は微小発酵体そのものではない。だがこの物質とは何か?正確な定義は困難だが、本質的にアルブミノイド物質だと分かる。何であれ、特定条件下でのみ分解に作用する事実の把握が肝要である。
例えば、遊離酸を含む過酸化水素水はフィブリンやフィブリン性微小発酵体による分解を相互に受けないが、ブシャルダと同じ実験条件下で塩酸に溶解したフィブリンは、条件として塩酸が希釈され、かつ微小発酵体が存在し、そして培地が中性の場合にのみ過酸化水素水を分解する。だがアルブミノイド物質は一部の酸と結合し、間違いなくこの物質の塩酸塩、硫酸塩等を形成するが、何であれ過酸化水素水による変化を受けず、過酸化水素水自体も分解されない。
この現象の説明には以下の特殊な酸の影響に関する興味深い例を参照しよう。リービッヒは、フィブリンに青酸を垂らすと過酸化水素水分解作用が喪失する現象を観察した。この観察は真実だが不完全であり、青酸の影響が一過性に過ぎない為である。事実、十分量の過酸化水素水の下、一定の間隔の後に酸素の放出が再開し、この間隔は青酸の量に応じて延長する。分解が再開するのは、過酸化水素水が酸素放出の伴わない酸化現象により青酸を破壊する為である。