Chapter5. 血液と循環系①
出血直後の血液の真の性質/血液の生きている部分/原形質/近成分の混合物にある不変の特徴/卵黄素微小発酵体と血球/血管系/血液:流体組織
血液には三種類の解剖学元素:赤血球、白血球、微小発酵体分子顆粒が存在する。解剖学的には三種類の有形成分、そして第四の要素である液体で構成されるが、この液体とは即ち血清を指すのだろうか?この液体は血球や顆粒の間隙に充満する物質である。
これら解剖学元素は微小発酵体の存在により組織化されている点から、三種とも生きている。この微小発酵体にはその発酵体としての機能、ビブリオ属進化という独自の能力が備わる。その生理学、化学的にも斬新な能力に因み、私は微小発酵体が生物だと証明した。
だが赤血球に限定すれば、1846年にその萌芽がある以上、この主張に斬新さはない。J.B.デュマの(被引用の無さから注目に値する)回顧録には第一級に重要な観察記録がある。赤血球をその完全性を維持したまま分離するには、硫酸ソーダ液と混合した血液を空気に晒さねばならない。この工程を省くと赤血球は変質し、色素物質を喪失し、色素物質自体も変質するに至る。氏は述べる。
赤血球は呼吸をしており、この現象の解釈には細胞膜の存在を想定せねばならず、従って動物の呼吸の目的とは赤血球への酸素供給、並びに「その変換後の生成物の排泄」にあると明言した。また、呼吸機能の考察とその計算結果から、従来まで血液は常に均質な液体と想像されたが、この品質は血清にのみ該当すると指摘する。静脈の動脈化現象における血清の関与を軽視したのではないが、赤血球の比重が優勢だと強調した。
血液の理解には、デュマが回顧録で展開した思考の順序に着目し、拡張せねばならない。斯の傑出した学者も当時の如何なる学者も、血液中に血球を除く解剖学元素の存在を認めた者は皆無であった。氏は血液に三種類の含窒素有機物たるアルブミン、フィブリン、血球を認めたが、まだ他にも存在するのである。
血清成分のリン酸塩やその他鉱物質の割合を氏が考慮した点も付言しよう。
瀉血直後の血液は、血管内の循環血液そのものながら動静脈の混合血とも想像されてきた。また是迄の説明通り、この瞬間の血液が生きているという徹底した想像が、凝血現象は血液の死を意味すると想像させることになった。
血液が生きているとすれば、ビシャの教義に準ずると、他全ての生体組織と同様、そこに棲息する存在は解剖学元素のみだと認識する必要がある。即ち、血液を構成する四つの要素の内、三種の解剖学元素だけが血液に棲息する存在であり、第四の要素たる血清(…へと変化する成分)、即ち血球・顆粒間物質は存在条件の一つを充足させるに過ぎない。
だがこの結論は諸学派が抱える先入観に相反し、対抗するにはその正体を理解する必要がある。この先入観はビシャの教義の否定であり、真逆の教義の為である。解剖学元素である血球は、パスツール氏の言う「植物でも動物でもない類器官に過ぎない」、即ち組織的ながら生きていない存在だと主張され、一方の血液中で未だ血漿と呼称される液体は、全成分が完全な溶液状態、即ち一切の解剖学的な有形構造を持たぬものが生きていると主張される。繰り返す通りこれが科学の実態であり、当にラヴォアジエやビシャ以前の自然哲学者シャルル・ボネが組織化を「物質の最高級の変質」と表した如くである。フランス国内でも、ビシャの象徴的な構想よりも、大同小異の原形質構想が称賛を受けた。だが原形質やその同義語である再生芽は、構造を持たぬ組織的な生ける物質と考想された。斯くなる物質を最も正確に表現したものが以下の通りである。
ヴァン・ティーゲム曰く
トーマス・ハクスリー曰く
コヴェ 曰く
クロード・ベルナールまでもが
と述べた。
パスツール曰く
引用はこれで十分である。原形質とは近成分~純粋な化学秩序の物質~の純粋混合物とされる。例えばコヴェ氏やフレイ氏は原形質顆粒を観察し、純粋近成分だと想像された。一部の学者がこの混合物は持続的転換の過程にあると主張し、パスツール氏はその能力が備わると言った。だが当にその争点となる部分、即ち斯くなる混合物が自然変質し、細胞や微小発酵体等の何等かの生物を誕生させ得るかに関しては一切の根拠が不在であった。仮に原形質がその想像通りならば、ビシャの構想は純粋なるキメラであろう。