過去の再接種との関連が疑わしい黄疸の流行~種痘後B型肝炎(1885)~
19世紀に流行した血清肝炎。ワクチン接種者のみに流行したことから、ワクチン由来のB型肝炎を初めて明示した文献。著者は元々反ワクチンではなく、疫学的証拠からそう導き出した点に注意。「特殊なリンパ液」がどうやら使用されていた模様。
Jehn, N. (1885). Eine Icterusepidemie in wahrscheinlichem Zusammenhang mit vorausgegangener Revaccination (Schluss aus No. 20.). DMW - Deutsche Medizinische Wochenschrift, 11(21), 354–356. https://doi.org/10.1055/s-0028-1142346
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しかし、その時期、特にザールブリュッケン炭鉱地区で猛威を振るっていた天然痘の流行により、患者と患者と接触した人々は全員予防接種を受けていた。 患者に使用されたリンパ液による予防接種は、当局者とその家族には施されていなかった。
心理的理由を考慮して数人の患者にのみ例外措置が講じられた。
リンパ液は、プレッシェンのMeinhof医師より入手した「濃縮グリセリン化リンパ液」が使用された。ワクチン接種の委細の説明には、施設の2人の医師により全規則に準じて実施されたと簡潔に述べておく必要がある。2つの異なるリンパ液のバイアルが使用され、一方は1883年の5月5日と6日、そして他方が5月21日のワクチン接種に使用された。1人目の医師による穿刺、2人目の医師による瘢痕形成(切開)によりワクチン接種は実施された。それぞれの執刀の後、助手がランセットを洗浄し、綺麗に拭き取った。接種法が膿疱形成に何かしら影響した様子は認められなかった。
ワクチン接種は概して成功し、接種者の62%と65%に膿疱が見られ、女性で特に成功していた。
膿疱は全体的に良好な外観を呈し、瘢痕は正常で、ごく稀に、接種部位の上腕部に重度の炎症が認められ、より重篤な蜂窩織炎が1例観察されただけであった。それ以外の一般的な健康状態は、膿疱のある期間中、乱れることはなかった。このワクチン接種の成功例に関する他の特記事項については後述する。筆者は長い間、流行性黄疸の原因がワクチン接種だと叫ぶ大衆の声が信じられず、敵視していた。私の知る限り、1883年まで、ワクチン接種と黄疸の因果関係を示すようなものは発表されていない。ボンの精神医学会でこの講演の後に行われたディスカッションで、Ripping博士(デューレン)は、反ワクチン文献を慎重に検証する機会を得たが、そうした関連は考えにくいと述べた。
もし著者が今になって、そうした関連性の可能性が限りなく高いという結論を告白せざるを得ないとすれば、その理由は消去法ではなく、その可能性を想定しない方が疑わしくなるほどに、現在の黄疸の流行と別の流行との間に驚くべき類似点がある為である。この類似性は、ブレーメンの「ヴェーザー」工場で観察された伝染病にある。この伝染病も集団接種後に発生したのである。
しかし、もしこれに関連することが書かれていないのであれば、ワクチン接種と流行性黄疸との間に関連性はまったくないと考えられる。
気前よく情報を提供してくれたことに感謝したいが、当時その企業の専属医師であったブレーメンのLürman医師曰く、1883年8月13日、従業員1399人に集団接種を行う必要があった。強調する必要がある点は、この従業員たちは工場に住んでいたのではなく、この町と周辺地域に住んでおり、工場での仕事上の繋がりしかなかった点である。家族単位ではなく従業員たちだけがワクチン接種を受けた。工場の衛生状態、立地条件、飲料水、廃棄物処理状況からは、流行性黄疸の発生を説明することはできない。ワクチン接種は、ベルリンの薬剤師Barbariniから入手したヒトグリセリン化リンパ液を用いて、すべての注意事項を守って行われた。ブレーメン市内、周辺の農村地区でも流行性黄疸の症例はなかったが、ワクチン接種から2ヵ月半後の10月末、工場で最初の黄疸症例が発生し、ワクチン接種を受けた労働者だけが罹患した。後から入職したワクチン未接種の労働者とその家族も無事だった。
黄疸の形態はメルツィヒの症例と概して類似していたが、ブレーメンでは再発した症例はなかったようである。
ワクチン接種とその後の黄疸との関係性の信憑性を強めるのが、ブレーメンには、諸般の事情でワクチン接種後にすぐに工場を跡にした者達が全く同じ黄疸症状を発病したという報告が9例(メルツィヒでは6例)記録されている為である。ブレーメンでの流行の最盛期は12月であり、年末までに143人が発病し、患者の総数は191人に上る。流行が終息したのは1884年4月であった。
メルツィヒと同様、黄疸の流行に伴って、また流行前には黄疸を伴わない単純な胃腸性カタルが目立って多く観察された。
ワクチン接種の状況は非常に参考になる:4人の医師によって4カ所で行われ、各医師は特殊なリンパ液を使用した。
ある場所では接種者540人の内141人が発病し、別の場所では446人中35人、また他の場所では243人中14人、そして9月1日に再接種された50人中1人が発病した。
また、上記以外の医師によるリンパ液のワクチン接種者は87人であった。
この内からは1人も発病していない:一人たりともである。ほとんどのワクチン接種は失敗に終わったが、黄疸の発生率は膿疱形成とは無関係であることが判明し、これは膿疱形成のない黄疸症例がその逆(膿疱形成のある黄疸)よりも多い理由を説明している。それ以外では、膿疱の瘢痕化は正常であった。
潜伏期間は2~8ヵ月と非常に幅があることが判明した。-
ここで、事前のワクチン接種に関連性のあるメルツィヒでの黄疸流行を見てみよう。
初症例が8月末であったことから、潜伏期間と流行病との関連を想定すると約4カ月となる。
流行期間はブレーメンより短く、1883年8月27日から11月5日だけに発病が生じた。しかし、個々の患者の黄疸症状は1884年2月まで続いた。
メルツィヒでも、リンパ液の効果に明確な差が見られた。
最初のバイアルの中身を穿刺で接種された患者(大多数)の内、約23パーセントが黄疸を発病し、2番目のバイアルを切開で接種された患者では約13%に過ぎず、後者の大半は畑労働者であった。
膿疱の形成と黄疸の関係はブレーメンと逆であり、接種に成功した者の40%が発病し、膿疱のない者は8%だけであった。
黄疸の発病の経過から、この流行は1883年8月30日から9月2日までの約4日間、突然、急性に発生し、その後11日後に同じように再発したことがわかる。
医学界は当初、ワクチン接種による黄疸流行を否定していたことは前述の通りである。それに加え、当時はワクチン未接種者が後に黄疸に感染することが想定されていた。これは1884年6月19日にボンで開催された著者の講演でも反論として引用した。
さて、驚くほど類似するブレーメンの流行が衆目に晒されてからワクチン接種の結果に注目が集まっているが、集団接種後に入職した問題の患者は2つ目のバイアルで接種を受けており、誤りが判明した。2つ目の疑惑の症例では、後に黄疸を発病した患者が接種リストに含まれていなかったが、これは事務的なミスによるものだった。従って、メルツィヒで黄疸を発病した患者は全てワクチン接種を受けていた。
加えて、証明はできないが、数少ないワクチン未接種患者は全員黄疸の流行を免れたという関係もある。
いずれにせよ、説得力のある状況が揃っている状況に鑑み、ワクチン接種とその後の黄疸流行の関係性は、特に全く同様の関連性がブレーメンに存在することからも疑義を呈するのは困難である。
だが、その一方で病毒の性質は全く不明のままである。ワクチン接種が何十万の地域で実施されたことを考慮すると、リンパ液にそのような特異的な損害影響があれば、恐らく黄疸は更に頻繁に発生していると思われ、リンパ液だけに問題が検出される可能性は低い事実が不本意ながら示唆される。ブレーメンとメルツィヒにおける個々のバイアルの中身が全く異なる点も疑惑の原因である。ブレーメンでは、ワクチン接種を受けた人の26%、7%、6%、2%がその製剤に依存して発病した。唯一の共通因子は、同じ供給源から採取されたリンパ液であった。では、なぜこのように極端に異なる効果をもたらしたのだろうか?その理由は、有機物であるグリセリンと、恐らく分解物や不純物にあると思われる。- しかし、この点に関しては、接種時点でのリンパ液の状態など知り得ようもないことから、推測に頼らざるを得ない。
グリセリン化リンパ液が特に集団接種で広く使われていたことを加味すると、観察された黄疸伝染病の一部はおそらくこのような関連に起因していたと考えるのが妥当であろう。この仮説は、軍隊で黄疸に罹患したのは主として新兵であった(Fröhlich, op)ことからより蓋然性が高いものとなる。さて、新兵が胃・十二指腸カタルとそれに伴う黄疸という病気にかかるのは、新兵が直面する一般的な衛生・生活条件の劇的な変化だけが原因であると考えるのは自然である。- しかし、新兵は定期的に再接種も受けているのではないだろうか?
同じ軍事的・衛生的条件下にある兵士にワクチンを接種する際、異なるリンパ液の選択に対してより注意を払えば、この問題を解明できるかもしれない。
ちなみに、1 8 8 3年は気温が急激に変化した為、多くの腸疾患の発生に好条件であった点を忘れてはならない。この年、例年より胃腸性カタルが多い印象を、開業医が筆者に確認してきた。
従って、黄疸が局所的に発生した点も驚くにはあたらない。たとえば、ノインキルヒェン炭田では、小さな黄疸の流行があった。ノインキルヒェンの地方医師Kimpen博士がこの流行について筆者に報告してくれたが、5~6ヵ月前に行われた集団接種との関連はあり得ないと考えており、グリセリン化リンパ液の悪影響は証明されておらず、また未接種の人々が全員黄疸を発症していた為とのことだった。対照的に、Kimpen博士はこう書いている:
「黄疸の流行期間中、胃腸性疾患が発病することなく、胃痙攣、胃腸性カタール、頑固な腸閉塞、ヘルニア等が数多く発生し、特に下剤ですぐに消失することから、私は黄疸を胃十二指腸性疾患と解釈していた。」
アンダーナッハの学校にて少年少女の3クラス内で流行した件について、ここで同じ1883年の夏に18人の症例が観察されたが、残念ながら、この黄疸症例が事前のワクチン接種と関連するという一般的な意見以上のものを報告できるほど、著者は充分な情報を得られなかった。
いずれにせよ、学外で同様の症例が観察されておらず、校舎自体はあらゆる点で衛生要件を満たしているとされている。
今では黄疸の流行は稀なものの内に数えられているが、1883年には4つの地域からのみの報告であったことを考慮すると、上述の急激な気温の変化が生じたこの年の特異性に原因があるのは明白であり、特にこのような集団性の疾患が流行する好条件である為である。
幾度も強調される当時のあらゆる種類の腸疾患の一般素因は、ブレーメン、ノインキルヒェン、メルツィヒの観察からも明らかなように、黄疸のありふれた病原として流行性胃十二指腸カタールの発病を説明しているだろう。
メルツィヒでの臨床像は全体的に肝原性の性格が強かったが、この流行でのより重篤症例は、ワクチン接種による集団病が騒ぎになる以前から血行性の性質に思われる症状を示していた。
ブレーメンとメルツィヒの流行に関して、黄疸の性質の肝原性か血行性どちらを一般的な決定因子とすべきかという問題は容易に解決できるものではない。
ブレーメンとメルツィヒの流行が事前のグリセリン化リンパ液の接種と関連する点で際立つ類似性を、どちらも単純な偶然と説明するのは極めて困難だと付言すれば、より軽度の症例もまた血行性である可能性が高くなり、これは多くの症例で胃腸症状が全く存在しなかった事実によっても裏付けられる。
また、消化器官に影響しない血行性黄疸において、前述の一般的かつ同時的な胃・腹部疾患体質の結果として、黄疸に伴う症状が主にこの部位で発症することもあり得ないことではない。
黄疸とワクチン接種との事実上の病因的関連は現時点では確立できないにせよ、こうした集団的な発病が後々観測された場合には、以前のワクチン接種との因果関係の可能性を考慮に入れるべきである。
メルツィヒ、1885年1月。
原文
Zu der genannten Zeit hatte allerdings wegen einer in der Umgebung, speciell in dem Saarbrücker Steinkohienrevier herumfiackernden Pockenepidemie eine Impfung sämmtlicher Kranken und des mit denselben verkehrenden Personals stattgefunden. Die Beamten und deren Familien wurden nicht mit der für die Kranken verwendeten Lymphe geiinpft.
Bei nur wenigen Patienten wurde aus erklärlichen psychischen Gründen eine Ausnahme gemacht.
Die verbrauchte Lymphe war als “concentrirte Glycerinlymphe" von Dr. Meinhof in Pleschen bezogen. Um das Specielle der Impfung vorwegzunehmen sei kurz erwähnt, dass dieselbe unter Wahrung aller Cautelen von 2 Aerzten der Anstalt ausgeführt wurde. Es wurden zwei verschiedene Gläschen Lymphe verbraucht, das eine zu der Impfung vom 5. und 6. Mai, das andere zu der späteren vom 21. Mai 1883. Die Impfung erfolgte durch Einstich seitens des einen, durch Scarification durch den zweiten Arzt. Nach jeder einzelnen Operation wurden die Lanzetten durch einen Gehülfen abgewaschen und sauber abgeputzt. Ein Einfluss der Methode der Impfung auf die Pustelbildung wurde nicht bemerkt.
Die Impfung hatte im Ganzen einen guten Erfolg, indem 62 resp. 65 Proc. der Geimpften Pustein aufwiesen, und zwar war die Impfung bei den Frauen erfolgreicher.
Die Pustein hatten durchweg ein gutes Aussehen; die Narbenbildung war normal, nur ganz vereinzelt bemerkte man stärkere Entzündung der geimpften Oberarme, und nur eine einzige, erheblichere Phlegmone kam zur Beobachtung. Das Allgemeinbefinden wurde während der Pustelperiode sonst nicht gestört. Auf die weiteren Eigenarten der Erfolge des Impfens, über welche Protocoll geführt wurde, werden wir unten zurückkommen müssen. - Der Verfasser gesteht, dass er dem Rufe der vox populi, als diese die Impfung als Erregerin des epidemischen Icterus bezeichnete, lange Zeit ungläubig und ablehnend gegenüberstand. Denn so viel derselbe weiss, ist bis zum Jahre 1883 noch nichts veröffentlicht, was auf einen Causaizusammenhang zwischen Impfung und Icterus hinwiese. In der an diesen Vortrag im psychiatrischen Verein zu Bonn sich anschliessenden Discussion erklärte Herr Dr. Ripping (Düren), dass er einen solchen Zusammenhang um so weniger für wahrscheinlich halte, als er Gelegenheit gehabt habe, die impfgegnerische Literatur genau durchsehen zu müssen.
Allerdings darf man wohl annehmen, dass, wenn diese nichts Bezügliches enthält, auch bisher überhaupt kein Zusammenhang zwischen Impfung und epidemischem Icterus bemerkt worden ist.
Wenn der Verfasser nunmehr gestehen muss, dass er schliesslich doch dahin gekommen ist, einen solchen Zusammenhang für überaus wahrscheinlich zu halten, so liegt der Grund nicht etwa in einem Schlusse per exclusionem, vielmehr ist es eine so überraschende Analogie, welche zwischen der hiesigen und einer anderen Icterusepidemie vorliegt, dass es hiesse allzu skeptisch zu sein, wenn man nicht die Wahrscheinlichkeit eines Zusammenhangs annehmen wollte. Diese Analogie bietet eine auf dem Actienwerk “Weser" zu Bremen beobachtete Epidemie, welche gleichfalls nach vorhergegangener Massenimpfung auftrat.
Nach den Mittheilungen des damaligen Arztes jener Actiengesellschaft, Herrn Dr. Lürman in Bremen[1]), dem ich auch an dieser Stelle für seine bereitwillige Auskunft danke, wurde dort am 13. August 1883 eine Gesammtimpfung der damals 1399 Köpfe zählenden Arbeiterbevölkerung nothwendig. Es muss hervorgehoben werden, dass diese Arbeiter nicht in dem Werke, sondern in der Stadt resp. in den Umgebungen wohnten und nur durch die Arbeit in dem Werk vereinigt wurden. Nur die Arbeiter, nicht die Familien wurden geimpft. Die hygienischen Verhältnisse des Werkes , seine Lage , sein Trinkwasser, die Abortsverhältiiisse bieten nichts, was die Entstehung eines epidemischen Icterus erklären könnten. Die Impfung geschah unter allen Cautelen mit humanisirter Glycerinlymphe , bezogen von dem Apotheker Barbarini in Berlin. Während weder iii der Stadt Bremen noch in der ländlichen näheren Umgebung irgend welche Erkrankungen von epidemisch auftretendem Icterus vorkamen, so traten Ende October, also 2 1/2 Monat nach der Impfung die ersten Fälle von Icterus auf dem Werke auf und zwar wurden nur Geimpfte befallen. Später eingetretene Arbeiter, welche nicht mehr geimpft waren, blieben verschont, ebenso die Familien der Arbeiter.
Die Form des Icterus war im Ganzen gleich der in Merzig beobachteten, nur scheinen die recidivirenden Fälle in Bremen gefehlt zu haben.
Um den Zusammenhang zwischen der Impfung und dem späteren icterus noch überzeugender zu machen, liegen auch von Bremen Nachrichten vor, dass Personen, welche bald nach der Impfung aus mannichfachen Gründen das Werk verliessen, draussen unter genau denselben icterischen Erscheinungen erkrankten: Es sind 9 derartige Fälle constatirt (in Merzig 6). Die Höhe der Bremer Epidemie fällt in den Monat December; bis zum Schluss des Jahres erkrankten 143 Personen, die Zahl der Gesammterkrankungen, welche in Bremen beobachtet wurden, betrug 191. Der Schluss der Epidemie trat erst im April 1884 ein.
Genau wie in Merzig wurden neben der Icterusepidemie und vor derselben eine auffällige Menge einfacher gastrischer Katarrhe beobachtet, ohne dass es dabei zum Icterus gekommen wäre.
Sehr lehrreich sind nun die näheren Umstände der Impfung; diese war von 4 Aerzten an 4 verschiedenen Orten ausgeführt; Jeder der Aerzte benutzte besondere Lymphe.
Nun erkrankten von 540 im 1. Local Geimpften 141, von 446 im anderen Local Geimpften 35, von 243 im anderen Local Geimpften 14 und von 50 am 1. September Nachgeimpften 1.
Ferner wurden 87 Personen von anderen Aerzten mit einer nicht aus oben genannter Quelle stammenden Lymphe geimpft.
Von diesen erkrankte: Niemand. Die meisten Impfungen blieben erfolglos, doch zeigte sich das Auftreten des Icterus als von der Pustelbildung unabhängig, wodurch es erklärlich wird, dass mehr Icterische verzeichnet wurden, welche keine Pustelbildung aufwiesen als umgekehrt. Im IJebrigen war Pustel-Narbenbildung normal.
Die Incubationszeit stellte sich danach als eine äusserst wechselnde, zwischen 2-8 Monaten schwankende, dar. –
Betrachten wir nun das Verhalten der Merziger Icterusépidemie in Bezug auf die vosausgegangene Impfung.
Die Incubationszeit würde sich, wenn man einen Zusammenhang zwischen jener und der epidemischen Erkrankung supponirt, auf ca. 4 Monate stellen , indem Ende August die ersten Erkrankungen auftraten.
Die Dauer der Epidemie war kürzer als in Bremen, indem die Erkrankungen nur vom 27. August bis 5. November 1883 auftraten. Allerdings dauerten die icterischen Erscheinungen bei einzelnen Patienten bis zum Februar 1884.
Auch in Merzig stellt sich eine deutliche Verschiedenheit in der Wirkung der verwandten Lymphe heraus:
Von den mit dem Inhalt des ersten Fläschchens mittelst Einstich Geimpften - die überaus grössere Zahl - erkrankten ca. 23 Proc. icterisch, von den aus dem zweiten Fläschchen mittelst Scarification Geimpften nur ca. 13 Proc., wozu bemerkt werden muss, dass die letzteren grösstentheils Feldarbeiter waren
Die Abhängigkeit des Icterus von der Pustelbildung zeigt ein umgekehrtes Verhältniss als in Bremen, indem von den mit ErfolgGeimpften 40 Proc., von den ohne Pustelbildung gebliebenen nur 8 Proc. erkrankten.
Aus der Reihenfolge der Erkrankungen von Icterus ist ersichtlich, dass die Epidemie ziemlich plötzlich und mit einer sich über ca. 4Tage vom 30. August bis 2. September 1883 erstreckenden Acme auftrat, der ein ähnlicher Heftigkeitsnachschub 1 1 Tage später folgte.
Es ist oben schon erwähnt, dass die ärztliche Ansicht anfangs der Annahme eines Zusammenhangs zwischen der Impfung und der spätereil Icterusepidemie ablehnend gegenüberstand. Ausser den schon erwähnten Gründen trug dazu bei, dass damals sicher angenommenwurde , es sei auch ein nicht geimpfter Patient später mit icterischgeworden. Dies ist auch in dem vom Verfasser am 19. Juni 1884zu Bonn gehaltenem Vortrage noch als Gegengrund angeführt worden.
Nun hat, seit durch das Bekanntwerden der überraschend ähnlichen Bremer Epidemie die Aufmerksamkeit mehr auf die Impfung und ihre Folgen gerichtet wurde , sich das als ein Irrthum herausgestellt, indem der Betreffende , nach der Massenimpfung eingetretene Patient, sicher später aus dem Fläschchen Il nachgeimpft worden ist. Bei einem zweiten zweifelhaften Fall, indem ein später gelbsüchtig Gewordener auf der Impfliste nicht verzeichnet war, stellte sich die Differenz als durch Schreibfehler verschuldet heraus. Factisch sind also auch in Merzig alle an Icterus Erkrankten geimpft worden
Dazu besteht das andere, allerdings nicht beweisende Verhältniss, dass die wenigen nicht geimpften Kranken sämnitlich von der Gelbsuchtsepidemie verschont wurden.
Jedenfalls würde es Angesichts der Concurrenz von überzeugenden Umständen schwer sein , den Zusammenhang zwischen der Impfung und der späteren Epidemie zu bezweifeln, zumal genau derselbe Zusammenhang auch in Bremen vorlag
Völlig im Unklaren bleibt man aber trotz und alledem bezüglich der Natur des Virus; dass es in der Lymphe allein wohl nicht zusuchen sein dürfte, drängt sich unwillkürlich bei der Vorstellung auf, dass an so hunderttausend Stellen Impfungen statthaben, so dass daraus wohl häufiger Icterus entstehen müsste, wenn die Lymphe überhaupt einen derart speciell schädigenden Einfluss hätte. Auch die Vergleichung der total verschiedenen Wirkung des Inhalts der einzelnen Gefässe sowohl in Bremen wie in Merzig macht da stutzig. In Bremen erkrankten von den Geimpften 26, dann 7, 6 und 2 Proc. je nach dem Präparat, mit welchem sie geimpft wurden. Das allein Gemeinsame war doch eben die Lymphe, welche gleichzeitig derselben Bezugsquelle entnommen war. Weshalb wirkte denn nun der Inhalt so überaus verschieden? Es scheint vielmehr in dem organischenVehikel, dem Glycerin und eventuellen Zersetzungen oder Verunreinigungen eher der Grund zu suchen zu sein. - Doch ist manauch nach dieser Seite hin auf Vermuthungen angewiesen, da keine Möglichkeit mehr war, den Zustand der Lymphe, wie derselbe zur Zeit der Impfung gewesen war, festzustellen
Angesichts der verbreiteten Verwendung der Glycerinlymphe, zumal bei Massenimpfungen, ist die Vermuthung wohl berechtigt, dass vielleicht manche der beobachteten Icterusepidemien auf einen derartigen Zusammenhang hätte zurückgeführt werden dürfen. Diese Vermuthung wird wahrscheinlicher, wenn man sich (s. Fröhlicha. a. O.) vergegenwärtigt, wie bei dem Militair es vorwiegend Recruten waren, welche von den Icterusepidemien befallen wurden. Nun liegt es ja nahe, in der gewaltsamen Aenderung der allgemeinen hygienischen und Lebensbedingungen, welche der Recrut durchzumachen hat, anzunehmen, dass derselbe allein dadurch der Erkrankung durch Gastro duodenalkatarrh und begleitendem Icterus ausgesetzt ist. - Aber werden die Recruten nicht auch regelmässig revaccinirt?
Eine geschärfte Aufmerksamkeit , Wahl verschiedener Lymphe bei der Impfung von Soldaten, welche sonst unter gleichen militairischen wie hygienischen Verhältnissen stehen, dürfte hier wohl eine Aufklärung möglich machen.
Uebrigens darf nicht vergessen werden, dass das Jahr 1 8 8 3 mit seinen jähen Temperaturwechseln überhaupt der Entstehung zahlreicher Intestinalerkrankungen günstig gewesen zu sein scheint. Von practischen Aerzten ist dem Verfasser der Eindruck bestätigt worden, dass in dem genannten Jahre eine grössere Menge von Magen- und Darmkatarrhen zur Beobachtung gekommen sind als sonst.
Deshalb ist es nicht auffallend, wenn auch local gehäufte Erkrankungen an Icterus vorgekommen sind. Eine kleine Icterusepidemie hat z. B. noch in dem Steinkohlenrevier Neunkirchen stattgefunden. Herr Kreisphysikus Dr. Kimpen von Neunkirchen, welcher die Freundlichkeit hatte, über die dortige Epidemie dem Verfasser Bericht zu erstatten , hält den Zusammenhang mit einer allerdings 5-6 Monate stattgehabten Massenimpfung für unwahrscheinlich : zumal kann kein Einfluss von Glycerinlymphe nachgewiesen werden; auch wurden überhaupt nicht geimpfte Personen icterisch. Dagegen schreibt Dr. Kimpen:
“In der damaligen Zeit der Icteruserkrankungen kamen hier auffallend viele Magenkrämpfe, Magen- und Darmkatarrhe, hartnäckige Obstruction, Bruchdurchfälle etc. vor, ohne dass ieterische Erkrankungen dabei zu Tage traten, so dass ich mir den Icterus als einen Gastroduodenalis erklärte, zumal derselbe durch Purgantieii bald wieder zum Verschwinden gebracht wurde."
Ueber eine weitere Epidemie unter Schulkindern in drei Knabenresp. Mädchenklassen zu Andernach, welche in demselben Sommer des Jahres 1883 mit 18 Fällen beobachtet wurde, konnte der Verfasser leider keine genügenden Mittheilungen erhalten , um mehr als das Factum und die im Publicum verbreitete Ansicht zu berichten, dass jene Icterusfälle mit einer vorausgegangenen Impfung der Schulkinder in Zusammenhang ständen.
Jedenfalls sind ausserhalb der Schule keine ähnlichen Fälle beobachtet worden und wird das Schulgebäude an sich als ein in jeder Beziehung den hygienischen Anforderungen genügendes bezeichnet.
Erwägt man nun, dass die Icterusepidemien zu den selteneren gehören, von dem Jahr 1883 aber hier allein von 4 verschiedenen Orten gemeldet werden können, so liegt es nahe, die Eigenarten des Jahres, dessen rasche Temperaturwechsel oben schon erwähnt wurden, als für die Entstehung solcher Massenerkrankungen für besonders günstig anzuklagen.
Die mehrfach hervorgehobene damalige allgemeine Disposition zu Intestinalerkrankungen aller Art dürfte, wie dies auch aus den Beobachtungen von Bremen, Neunkirchen und Merzig hervorgeht, die Entstehung epidemischer Gastroduodenalkatarrhe als der häufigsten Erreger des Icterns wohl erklären
Bezüglich der Bremer wie Merziger Epidemie ist die Frage, ob hepatogener oder hämatogener Charakter des Icterus als der allgemein maassgebende anzusehen sei, nicht leicht zu lösen.
Trotzdem das klinische Bild in Merzig im Ganzen mehr den hepatogenen Charakter aufwies, zeigten gerade die schwereren Fälle dieser Epidemie derartige Symptome, dass diese, schon ehe von einer Abhängigkeit der Massenerkrankung von der Impfung die Rede war, als hämatogenen Charakters imponirten.
Nimmt man hinzu, dass es doch sehr schwer fallen dürfte, die auffällige Uebereinstimmung der Bremer wie Merziger Epidemie im Verhältniss zu der beide Male vorausgegangenen Impfung mit Glycerinlymphe für einfache Zufälligkeit zu erklären, so wächst die Wahrscheinlichkeit, dass der Charakter auch der leichteren Fälle ein hämatogener gewesen ist, wofür auch spricht, dass in sehr vielen Fällen die gastrischen Erscheinungen ganz und gar fehlten.
Unmöglich wäre es auch nicht, dass, während eines hämatogenen Icterus, der ganz gewiss auch für den Zustand der Digestionsorgane nicht ganz gleichgültig ist, sich in Folge der erwähnten allgemeinen und gleichzeitigen Disposition zu gastrichen und Unterleibserkrankungen die den Icterus begleitenden Symptome vorwiegend in dieser Sphäre ausbildeten. -
Wenn sich auch über den factischen ätiologischen Zusammenhang zwischen der Icterusepidernie und der Impfung zur Zeit keine Vermuthungen aufstellen lassen, so dürfte doch bei später zu beobachtenden derartigen Massenerkrankungen ein eventueller Causalnexus mit vorauf gegangener Impfung wohl zu berücksichtigen sein.
Merzig, Januar 1885.
[1] ) Ueber den Gegenstand ist inzwischen von Herrn Dr. Liirman in der Berliner klin. Wochenschrift, 1885 No. 2, eine Mittheilung veröffentlicht.
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