[研究] まじめに土用丑ウナギ成立と源内アイデアというガセ説について調べてまとめた 2024-07-26
以前に「平賀源内説はガセだけど、源内の関与があったと言えるかもしれないよ」なエクストリーム擁護を書きました。
> [研究] 土用丑考――「土用の丑にうなぎ」の風習成立に源内の関与があったとエクストリーム擁護してみる――|桝田道也|pixivFANBOX — https://mitimasu.fanbox.cc/posts/4165057
そんな妄説はさておき、まじめに「土用丑ウナギ由来」の諸説に関する情報を整理しよう、というのが本エントリの趣旨です。
本エントリによって、正しい成立過程があきらかになったりはしません。
諸説の出現について、ちょっとだけ正確になったりするだけのエントリです。
## 諸説の整理
いくつかある由来を整理します。
### 夏季に困窮したウナギ屋を救うアイデア説
俗に、平賀源内アイデア説と呼ばれる奴です。
アイデアを出したのは太田南畝(蜀山人)であることもあれば、ウナギ屋の主人が自分で考えたとするものもあり、其角の弟子の其蝶のアイデアという説もありました。
本エントリでは主にこの説について掘り下げます(後述)。
### 虚空蔵菩薩のタブー由来説
ウナギは虚空蔵菩薩の化身なので、丑の日にはウナギを食べるべきではないとされた。
それでウナギが値下がりしちゃうのを知った貧乏人が丑の日を狙ってウナギを食べるようになって、それが定着した……という説。
この説はウィキペディアには載っていませんが(2024-07-26時点)、明治~昭和の文献では源内説に次いでよく現れます。
>中谷無涯 編『新脩歳時記』夏の部,俳書堂,明42-44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/875145/1/332
が、値段に影響するくらい虚空蔵菩薩の信者はいねえだろ、とか、みんなが求めたら値上がりするんだから定着しねえだろ、とか、いろいろ難があります。
類説に、金毘羅様はウナギ食を土用の丑の日だけおゆるしくださり、この日なら食べてもバチがあたらないから、という説もありました。
虚空蔵菩薩や金毘羅様が水難から守ってくださる神様であることをふまえてウケたのであろう、面白い説ではあるけれども、まじめに考証するほどでもないネタ説だと思います。
### 春木屋善兵衛説
これはのちに子孫が語ったという説。
ウィキペディアの記述は、こう。
いつもいつもウィキペディアの記述をクサしてもうしわけないですけど、この説明ではなんで善兵衛は焼いたウナギを甕《かめ》に入れて保存したのかがよくわかりません。
腐るにきまってんじゃねーか!
なので、もすこしくわしく書きましょう。
>宮川曼魚 著『深川のうなぎ : 随筆』,住吉書店,1953. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2932460/1/130
春木屋善兵衛はある年の夏、大名の藤堂家から
「旅行をするので大量のウナギのかば焼きを」
という注文を受けた。
そこで子の日、丑の日、寅の日にそれぞれウナギを焼いて、甕《かめ》に入れて土蔵に置いた。
そして7日後に開けてみたら、子の日と寅の日のものは色も味も変わっていたけれども、丑の日に焼いたものは変化していなかった。
それで丑の日に焼いたものを藤堂家に納めた。
丑ウナギはこれに由来する……
著者はこれを春木屋善兵衛の子孫を名乗る老婦人から聞いたと記しています。
そして、
と、素直にツッコんでいます。
まったく同感です。
というか、焼いて7日たったウナギをそのまま納品したんかい!
よく食中毒患者が出なかったもんだ。
つまり、この話は丑ウナギの由来としては不十分な説です。
なお、著者は春木屋善兵衛の子孫を名乗る老婦人から聞いたとありますが、これより古い文献にも現れる説です。
老婦人が本当に子孫なのかどうかも疑惑が残ります。
が、この話が丑ウナギについて調べると三番手くらいに現れるには理由があって、一点、確たる物証が存在するからです。
またまたウィキペディアをクサします。
とウィキペディアは述べます。
たしかに「逸話」は記されていません。
が、
「丑の日 元祖 春木屋善兵衛」
という自店紹介が載っているのです。
他のウナギ屋は誰も「丑の日 元祖」を名乗っていませんから、文政年間の春木屋にそれを主張し他に名乗らせないだけの根拠があったとは言えそうです。
丑ウナギの風習が定着したのは天明期(1781-1789)とされますから、だいたい 40 年後くらいに春木屋は「丑の日 元祖」を名乗っていたことになります。
年月的にはそんなに離れていません。
とすると、夏季困窮アイデア説にせよ藤堂家発注説にせよ、「丑の日ウナギ」の震源が春木屋であった可能性は高いと考えられます。
また、『江戸買物独案内』の序文は蜀山人(太田南畝)が書いています。
### 丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があった説
これはむしろ昭和以降の文献でよく見られる説です。
が、
「いつの時代の、どこの地方の風習で、出典はどれそれ」
まで、きちんと述べている文献を私は見たことがありません。
> 松井魁 著『うなぎの旅 : 随筆』,実業之日本社,1961. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2494189/1/117
に、「『う』のつくものを食べると~」説が見られます。これが1961年の本。
> 信濃教育会北安曇部会 編『北安曇郡郷土誌稿』第3輯,長野県北安曇教育会,1979. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538138 (参照 2024-07-27)
こちらは 1979 の本ですが、『う』のつくものとしてウナギや牛を食べるものだというところもある、と伝聞形で書いています。
他の部分は地域名つきで書いているので、話のマクラ的に書いたものと思われます。
そして、この「丑の日には『う』のつく食べ物」説は、明治~戦前の文献では見あたりません。
ねちっこく調べればあるかもしれませんが、私はいまのところひとつだけしか見つけられていません。
そのひとつも由来とするには難がある特殊なものでした(後述します)。
しかしながら、夏の土用の丑に病気予防として特別なものを食べる、特別なことをする、という風習は確かに存在しました。
それも天明期に土用丑うなぎが定着する以前から。
たとえば「土用餅」。暑気払いあるいは無病息災を願う力餅として、あんころ餅やささげ餅や普通の餅を食べる風習です。通常は丑の日に、地域によっては土用の初日に食べるそうです。
> 土用餅 - Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E9%A4%85
土方歳三の実家もそうでしたが、土用の丑に薬草をつむ、という風習も広く各地に見られます。
> 石田散薬 - Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%95%A3%E8%96%AC
「丑湯」という薬湯に入る風習もあります。
> 丑湯(ウシユ)とは? 意味や使い方 - コトバンク — https://kotobank.jp/word/%E4%B8%91%E6%B9%AF-1273743
頭痛除け、暑気払いの風習として、ほうろく灸が土用丑に広く行われています。
これを「丑灸」とも呼びます。
丑の日にきゅうりにすがる「きゅうり加持」なんてのを空海が持ち込んだと伝わります。
> きゅうり加持 - Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%85%E3%81%86%E3%82%8A%E5%8A%A0%E6%8C%81
そもそも夏の土用は二十四節気の「大暑」と重なっています。
一年で一番暑い季節なので、まじないでもなんでもやって、なんとかして乗り切ろうっていう時期です。
そして中世人にとっては食べ物の少なくなる、夏痩せ(栄養失調)の恐れがある時期でした。
そこで、どうやら、体の大きな牛(丑)にあやかりたいという気持ちがあったようです。
あと、どうも夏の土用を「一年のまんなか」と見ているひともいたみたいですね。
>"夏の土用は一歳の中間"
ここの「一歳」とは「一年」の意味です。
正確に半分(182~183日)ではなく、たとえば今年(2024)だと土用は162日目~180日目なのですが、ともかく陰陽五行に傾倒した人の中には夏の土用が一年のだいたい真ん中だと考える人がいたと。
そういうひとは、
「さあ、残り半分も頑張るぞ!」
と気を引き締め、無病息災のためになんかやろう!て感じだったのでしょう。
そこでクスリになるものを食べようっていう気持ちになります。
暑い季節ですから、川魚の旬は夏だと考えられていたようです。
当時は旬の初物を食べたら寿命が75日伸びると信じられていました。
ですから、「困窮ウナギ屋アイデア説」以前から
「土用の丑にウナギやドジョウを食べるとクスリになる」
と信じられていました。
太田南畝(蜀山人)説では「ウナギを食べると流れる汗が目に入らない」という効能が説かれます。
ほこりっぽい江戸では汚れた汗が目に入って失明することが恐れられたのです。
地域によっては土用丑にクスリとしてサンショウウオを食べたようです。
> 小菅廉 等編『尾参宝鑑』,東壁堂[ほか],明30.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765264/1/21
したがって、「丑の日には『う』のつく食べ物を風習があった」とは言えませんが「土用の丑の日にクスリになるものを食べる風習が天明期より前からあり、土用の丑の日のウナギはクスリになる食べ物の一種だった」ということは確実に言えます。
では、ここで後述すると言った、一例だけ見つかった「丑の日にうのつくものを食べる話」を紹介しましょう。
>『諸国年中行事』,博文館,1903. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/992290/1/155
大正2年。源内アイデア説がバズり始めていた頃です。
要約しましょう。
* ウナギというと土用の丑と決まってますけど、大阪では節分にも食べますねん
* 季節外れ? こまかいことはええんやで
* なんでかゆーと、京都の方ではウナギのことを「長」と呼んでたからですわ
* 細く長~く商売繁盛につながって縁起がええでっしゃろ
* 同じく細く長~いという理由でウドンも縁起物として人気ですねん
* ところで、ウナギって江戸じゃ高価な食べ物らしいでんな。大阪もそうですねん。
* ウドンは安いでっせ!
* 大阪人、節分でもウナギを食べるけど、土用丑はそれはそれでやっぱり食べますんや
* 儀式ってのは大事でっしゃろ
* せやけど使用人がたくさんいると、全員にウナギをふるまったらえらい金額になりますやんか
* ところで京都方面はウナギを「長」と呼んどりますけど、大阪では単に「う」て呼んでますねん
* ウドンも「う」がつきますやろ?
* 「う」で始まって、同じ「細く長~く」なら、ウドンでもええでっしゃろ?
* という理屈で主人と奥様だけウナギを食べて、使用人はウドンを食べましたんや
* え? 「細く長く」の効果が同じなら、主人と奥様もウドンを食べたほうが節約になる?
* これが「人情の街」だ
これはたしかに「土用の丑に「う」のつくものを食べる話」ではありますが、因果が逆転しています。
すでに「土用丑にウナギ」という風習が確立した上で、「う」ではじまって細く長いんやからウドンでもええやろがーい!という笑い話なので、これを由来とすることはできません。
### 「平仮名で書いた『うし』と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたから」と言う説
私はウィキペディアでしか見たことがない説です。
無視していいでしょう。
出典も付与されていませんし、最悪の場合、悪意をもったウィキペディアンがまぎれこませたホラの可能性すらあると思います。
## 夏季困窮ウナギ屋を救うアイデア説のタイムライン
ひといきついたところで、本丸へ移りましょう。
いわゆる源内説と呼ばれるものが、いつどんな形で現れたのか、情報を整理します。
せっかく先行するまとめがあるので、活用しましょう。
>平賀源内が「土用の丑の日にうなぎを食べよう!」と宣伝した…はガセ/~では、いつからそんな俗説が広まったの? - Togetter [トゥギャッター] — https://togetter.com/li/1898225
ここで杉村喜光氏は
と述べておられます(午後6:20 · 2020年5月14日)
> 清水晴風 著『神田の伝説』,神田公論社,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947925/1/49
これが1913年。
ここでは源内がなぜ「明日丑の日」と書いたのか、なぜそれを書いたら客が殺到したのか、その説明はありません。
まとめでは一年後に、近代食文化研究会氏によってさらに古い文献があることが示されました。(2021年7月25日 )
> 『月刊食道楽』1(3),有楽社,1905-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1537899/1/24
これが 1905年。
ここには平賀源内のアイデアによるとあるだけで、「明日 丑の日」などのディティール描写はありません。
著者は伝聞で記しており、さらなるソースがあることが予見できます。
で、ここから私の調査です。
### 1913 『トヤマ』
すこし時代は戻って、『神田の伝説』と同じく大正2年(1913)
> 『トヤマ』(79),トヤマ新聞社,1913-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3559680/1/13
どちらかと言えば源内は陰陽五行の知識を教えただけでアイデアマンだったのは店主なのでは?て内容です。
次も同じく大正2年(1913)の文献ですが、アイデアマンは平賀源内ではありませんし、困窮するウナギ屋もおりません。
にもかかわらず、類話なのです。
ご覧ください。
### 1913 『山田屋辰五郎』
> 玉竜亭一山 講演 ほか『山田屋辰五郎』,樋口隆文館,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/910760/1/35
元禄の頃の話。
其角(芭蕉の弟子)の句に
「土用丑鰻万病に宜し」《どよううしうなぎまんびょうによし》
というのがあった。
其角の弟子の其蝶はこのフレーズで大儲けできるんじゃないかと思って、大和という人に教えて
「土用丑鰻万病に宜し」
と看板に書いて売りだした。
はたしてたいそう儲かったそうだ。
これが蒲焼のはじまりである……という内容。
元禄の時代に土用丑の風習があったという証拠はないので、信頼するに足らない話です。
其角が「土用丑鰻万病に宜し」という句を詠んでるのかどうかは存じません。
そんなベタな宣伝文句みたいな句を詠んでるわけねーだろ!と決めつけて調べもしませんでした。
ともかく、土用丑にむすびつけたワンアイデアで手軽に大儲けという大衆にウケやすいネタが、時代や主人公を変えた類話が現れるくらい大正2年に大きく拡散したようです。
### 1909 『新脩歳時記』
> 中谷無涯 編『新脩歳時記』夏の部,俳書堂,明42-44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/875145/1/332
『月刊 食道楽 第一巻第三号』(1905)よりはあとです。
ここでは困窮した店主が自力でアイデアを出してます。
平賀源内も太田南畝も其蝶も出てきません。
「明日 丑の日」というディティールもありません。
### 1906 『月刊食道楽』2(8)
> 『月刊食道楽』2(8),有楽社,1906-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1537912/1/14
平賀源内ではなく、太田南畝(蜀山人)が教えるバージョン。
太田南畝は
「土用丑にウナギを食うと悪病にかからず、汗が目に入らない。これは古来の説だ」
と述べ、ウナギ屋は南畝から教わった通り客に説明して、繁盛します。
すでに見た通り、『月刊食道楽』は 1905 年の記事で源内アイデア説を紹介しているにもかかわらず、こっちでは触れられていないのも興味深いです。
### 1901 『日本社会事彙』
> 経済雑誌社 編『日本社会事彙』上巻,経済雑誌社,明治34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1801900/1/149
源内も南畝も出らず、ウナギ屋の主人が自らのアイデアで土用丑にいたるパターンです。
源内とむすびついてはいませんが、『夏季に困窮したウナギ屋を救うアイデア説』として1905年の『月刊食道楽』よりさかのぼることができました。
### 1898 『東洋大都会』
> 前田曙山 (次郎) 編 ほか『東洋大都会』,石橋友吉,明31.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764268/1/88
こちらも太田南畝が主人公。
「明日 丑の日」
という張り紙をすれば客が怪しんで寄ってくるだろう……というディティールがこの時点で確認できます。
また、すでに「あるいは蜀山人ではなく平賀源内」と説明されています。
『夏季に困窮したウナギ屋を救うアイデア説』が平賀源内と結びつく説としても 1905 よりさかのぼることができました。
### 1895 『頓智と滑稽』
> 『頓智と滑稽』(5),頓智と滑稽発行所,1895-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1601309/1/5
これが私の発見できたいちばん古いものです。
1895年。
1905年から10年さかのぼることができました。
にもかかわらず……
なんということでしょう。
現代に伝わる形とほとんど同じです。
「『明日うしの日』と掲げることで人々が興味をもって寄ってくる」
という物語のキモはこの時点ですでに完成されていて、発展途上バージョンの発見にはいたらなかったのでした。
さらにはこの記事、『発行文藝倶楽部』(1895。国会図書館デジタルでは見つけられず)からの転載で、それがさらに「他の新聞からの転載」だと記してあります。
つまり、ほぼほぼ徒労。
こんな情報整理、要らんかったんじゃないか……?
まあ、明治時代の新聞からだと言ってるんだから、しらみつぶしに探せばまだ、たどれそうです。
私はそんな気力ないので、他の人におまかせします。
> 明治・大正時代の新聞記事を調べるには | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館 — https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/newspapers/post_762
## 逸話の成立過程をまじめに推測する
エクストリーム擁護ではなく、まじめに推論していきましょう。
まず、大前提として
夏の栄養失調にウナギが効果ありということは、万葉の時代から知られていた
中世の夏は食料が少なくなる季節で、栄養失調になりやすかった
栄養失調にウナギが効くという知識は江戸時代の知識人にも受け継がれていた
というのはハッキリしています。
ここはゆるぎません。
それを踏まえて、
夏の土用は大暑と被る、もっとも暑い時期で体調を崩しやすい時期
夏の土用丑はおおむね一年の折り返し地点と認識されていた
その年の後半戦にそなえて無病息災の儀式をしがちな時期
土用丑に病気予防のまじないや、クスリになるものを食べる風習がひろまっていた
クスリになるものの中には古来より夏痩せに効くウナギも含まれていた
という下地が土用丑ウナギの流行が現れる天明期以前に出来上がっていました。
「ウナギが夏痩せに効く」も、土用丑の陰陽五行的なまじないにひきずられて
悪病に効く
万病に効く
流れる汗が目に入らない
という効果まで付与されてしまっていました。
栄養失調で衰弱したらあらゆる病気になりやすくなるので、万病に効くは、あながちまちがいではないかもしれません。
流れる汗が目に入らなくなる、は根拠のない願望です。
が、ほこりっぽくて肉体労働者の多い江戸では切実な願望だったのでしょう。
ここから推測です。
//----
ここで天明期の、何代目かわかりませんが春木屋善兵衛が登場します。
夏の土用のころ。
藤堂家からうなぎのかば焼きの大量発注があった。
ちょっとした小旅行の弁当用だったのでしょう。
ものが腐敗しやすい時期です。
なんとしてでも食中毒は避けたい。
ウナギを食べた殿さまが死んだら首を刎ねられるかもしれない。
そこで知り合いの知識人に対策を聞きまくった。
あるいは本人が勉強家で陰陽五行の知識があったか。
考えた末に、丑の日に焼くというひらめきを得たのでしょう。
当時、うなぎは泥から生じると考えられていました。
土用(土属性)、丑の日(土属性(※))、ウナギ(土から生じる)
これは土のジェットストリームアタックやあ~~~~!!!なのです。
完璧な科学的防腐理論です(当時の)。
※…一般的には丑は水気とされますが、土気とする学派もあるとのこと
7日間、甕《カメ》に入れて安置したかどうかはともかく、丑の日に焼いて納品したウナギは何も問題なく、春木屋善兵衛はおおいに株をあげたのだと思います。
春木屋善兵衛はこの成功をおおいに利用したのでしょう。
「丑の日のウナギで大成功した春木屋」
みたいな感じで。
喧伝するうちに世間で
「土用の丑の日に焼かれたウナギは食中毒を起こさない」
という共有知識が拡散されることになったんじゃないでしょうか。
(※もちろん迷信なので現代人はマネしないでくださいね。一応言っとく)
となると世間も土用の丑の日にウナギを食べたい、食中毒のおそれがなくて美味しくてまじないにもクスリにもなるし!と求め始めます。
需要があれば供給もありで、春木屋以外も「丑の日うなぎ」を掲げて売り始める。
おもしろくないのが春木屋で、
「うちが元祖じゃーい!」
と主張を始めて、他のウナギ屋に圧をかけはじめた。
『江戸買物独案内』で春木屋だけが「丑の日 元祖 春木屋」を名乗れているのも、それが確かに事実だったからでしょう。
しかし、もう藤堂家に納品して評判になってから 40年ちかくが過ぎました。
そろそろ「丑の日」だけでは意味が分からない人々が出てきていました。
そして『江戸買物独案内』の序文は蜀山人(太田南畝)が書いていました。
こうして、一部の早とちりさんが、聞きかじった断片情報をもとに思い付きを披露したのでしょう(いままさに断片情報をもとに思い付きを披露してる私が言うのもなんですが)。
Q . 「丑の日にうなぎを食べるのはどぼぢて?」
A . 「丑の日にウナギを食べると万病に効くと太田南畝に教わったウナギ屋が大儲けして広まったらしいよ」
そして太田南畝のユーモア精神は広く知られていましたから、ここにワンアイデアが加わります。
「説明もなく「明日うしの日」と書けば怪訝に思った人が寄ってくるはずだ」
という太田南畝の狙いはバッチリ当たったのだった!
……と。
これでネタ話としては面白くなりました。
しかし万バズするには、まだ至りません。
なぜなら南畝が『江戸買物独案内』の序文を書いているってことは、存命中か死んで間もないってことです。
真実ではない話が広まるには、ちょっと具合が悪い。
もすこし前に死んだ人間じゃないと信憑性が無い……
ここで晴れて平賀源内の採用になります。
源内は太田南畝を見出した人だから関連性もある。
なにより太田南畝以上の有名人だから、万人に伝わるというバズの条件をクリアしてます。
しかも、
「説明もなく「明日うしの日」と書けば怪訝に思った人が寄ってくるはず」
という話のキモの部分は、むしろ平賀源内によく似合っていたのでした。
太田南畝バージョンだと「明日うしの日」の説明をもとめる客に
「古来曰く……」
と解説されるわけですが、平賀源内だとそんな説明もなく成立してしまうからです。
昭和以降の文献に拠りますが、源内が「明日うしの日」と書いた理由として
人間の心理とはそうしたものだと、源内どのはわかってらっしゃったのだ
深い意味は無くなんとなく書いたら、世間が勝手に「あの源内が書いたのだから」と誤解した
の2パターンが多いようです。
どっちのパターンでも太田南畝バージョンより面白い。
こうして生まれたガセ雑学は幕末維新の動乱でいったん忘れられたものの、世がおちついてのんびり土用丑にウナギを食べられるようになると掘り起こされて拡散した……という流れだったんじゃないですかね。
----//
ここまで推測でした。
初出は10年さかのぼることはできたけど、新しい発見はとくになくて、まだまだ先はありそうということだけわかった、という話です。
おしまい。
このエントリは筆者のFanboxからの転載です。