[研究] 薩摩式ロシアンルーレットで有名な『肝練り / 鉄砲廻し』は実在したのか?
(このエントリは筆者のFANBOXからの転載です
https://mitimasu.fanbox.cc/posts/7869878)
最初に述べますが、このエントリは結論を出しておりません。
松浦静山が『甲子夜話』に記した薩摩の風習「肝練り / 鉄砲廻し」は本当にあった話なのか、否定と肯定の両面から考えてみました。
本記事は両方の視点による考察を併記するもので、断定に至っておりません。
## 『肝練り / 鉄砲廻し』 とは?
薩摩の兵児《へこ》たちのあいだで行われていたという酒宴における座興です。
↓この画像が有名。というか私もこれで知りました。
情報の震源地は江戸時代の暇を持て余した大名・松浦静山による『甲子夜話』で、これは1821~1841にかけて執筆されました。
『甲子夜話』は松浦静山が見聞きしてきた話を隠居してから執筆したものです。
さて、この風習。
ネットでは『肝練り』という名称で知られていますが、これは司馬遼太郎氏が『薩摩浄福寺党』(1961)で
「胆《きも》を練って居もした」
とセリフに書いたことに始まるようです。
> 『肝練り』とか最初に言い出したのは誰なのかしら ~薩摩藩の火縄銃ロシアンルーレット宴会行為『肝練り』の起源を辿る~ - Togetter — https://togetter.com/li/1050384
したがって、1961より古い文献だと『鉄砲廻し』という名称が一般的だったようです。
本記事のタイトルでは「薩摩式ロシアンルーレット」と表現しましたが、なんだか「名古屋めし台湾ラーメン」みたいな困惑みがありますね。
以降は簡潔でわかりやすいと思うので「鉄砲廻し」を使用します。
その「鉄砲廻し」。
いかにも江戸時代の薩摩らしい狂気の沙汰としか思えない座興ですが、こんな座興が本当にあったんでしょうか?
松浦静山は肥前国平戸藩の藩主で、薩摩に行ったことなんかないのです。
おなじ九州の大名として、薩摩の噂話を収集しやすい立場にはありました。
しかし、あくまで噂話なのです。
疑問がわいたら調べましょうの精神で調べてみました。
が、誰かがまじめに検証したり調べたりした結果を見つけることはできませんでした。
## 一次情報
出典は『甲子夜話』巻十八です。
強調は筆者によります。
本記事の検証においては前後の文章こそ重要なので、長くなりますが「薩摩へこ組」に関する部分をすべて引用します。
//---- 現代語訳
以前、薩摩には「へこ組」という徒党を作って男伊達をふりかざす武士の集団があった。
「へこ組」とはどんな集団か、おおまかに説明しよう。
「へこ組」に入るには、僧が持戒を守るのと同じくらい厳しいルールを守って日常生活を送らなければならなかった。
まず、朝早く起きて朱子学の書について会読し、夜は寝るまで指矢を射らねばならなかった。
婦女に近づくことは禁止されていた。
もし道の途中で女性がいても、見つめてはならない。
「へこ組」の党員で路上で女を見つめた者がいたら、糾弾され自殺に追い込まれた。
つまり、みんなで殺した。
「女を見てもいけないなんて、それはムリ」
なんて言うやつは、泡盛をたくさん飲ませて、酔いつぶれたところで枕をとっぱらった。
そうすると頭が低くなり死ぬのである。
つまり、みんなで殺した。
こういう厳しい掟の中で何年かすごすと「へこ組」を卒業して、(女性に近づいてもよい)普通の武士に戻ったのだった。
薩摩ではこのように若者の不順異性交遊が厳しく禁止されているのだが、一方で実は男色がさかんであり、美少年(編註:『日本随筆大成』では「義少年」になっているが、誤植と思われる)に追従し、ほとんど(美少年が)主人であるかのようである――と、とある人が言っていた。
また、わたし(松浦静山)が聞いた話もだいたいがこのたぐいで、僧のような厳しい掟と武士の勇気を兼ね備えたものであった。
そのひとつを紹介しよう。
酒宴をやるとき、大円形に、互いの間を大きくとって座る。
その中央に綱《つな》を下げて火縄銃をくくりつけ、火薬を込め、綱《つな》によりをかけ、十分によりがかかったところで、火を差して綱《つな》の手を離せば、綱《つな》のよりが戻って火縄銃がくるくると回り、そのうちに弾が発射される。
座っている人間は、その場から動かず避けず、あるいは弾にに当たる者があっても心配せず、死んだとしても哀まないのだ……というのである。
狂った勇気というほかなく、倫理の乱れがはなはだしい。
亡き栄翁(薩摩藩主・島津重豪)が藩主だったとき、この徒党(「へこ組」)を禁止し、「へこ組」を廃止させるとお触れを出した。
「へこ組」の党員たちはこれを聞いて紛糾した。
「われわれ『へこ組』の解体なんか認められん! このまま引き下がっては武士道が立たない! 全員で腹を切って義を示して死のう!」
しかし、党員のある者が、こう言って思いとどまらせた。
「いやいや、解党するということは「へこ組」が糞土畜獣の類であると殿は考えておられるということ。
それは、婦女を見つめただけでその党員を殺してしまうとか、「鉄砲廻し」などが悪習であるということだ。
いまこれを改めずに全員死んでしまったら、かえって武士道に背くことになる。
われわれは糞土の類と見なされたままになってしまう。それは恥というものであろう」
そこで「へこ組」はこれらの悪習を撤廃したという。
わたし(松浦静山)はかつて、ひそかにその容貌を画工に描かせたことがある。
頭は月代を極端に大きく剃っていて鬢《びん》は糸のように細く、着物の裾は短く膝が丸出しであった。
刀はとても長く120センチはあるようにも見えた(※江戸時代は70センチ前後が普通)。
脇指は短く30センチちょっとくらいであった。
これは、(討ち取った敵の)首を切るためのものだから、この短さで十分なのだと言っているらしい。
このあたりからその人の気性がうかがいしれるというものである。
//---- 現代語訳ここまで
ではまず、疑いの目線で私が考えたり調べたりした結果を記します。
## 疑惑の目で見る『肝練り / 鉄砲廻し』
### 一次情報は松浦静山『甲子夜話』のみ
結局、これっきりなのです。
他にソースになる情報がありません。
鹿児島県の地誌などに、そういう風習の情報はないのです。
たまに言及してても、ソースは『甲子夜話』なので参考になりません。
ほかの手段で「胆を練る」座興があったという情報も出てこないのです。
薩摩が郷中教育で肝試しを行ったというのは複数のソースがありますが、いずれも一般的な肝試し(夜中に恐ろしげな場所へ行く)です。
それも、言うことをきかない悪い二才《にせ》(少年)がやらされる罰であって、鉄砲廻しのように兵児(25歳までの若者)の座興としてやるものではありません。
つまりこの問題は『甲子夜話』を信じるか信じないかという一点に集約されます。
最悪、松浦静山が創作した可能性までありえるのです。
まあ、創作する必要があったとは思えませんから、その可能性は除外しましょう。
が、薩摩人がジョークとして作った話を松浦静山が大真面目に信じてしまった可能性は大いにありえることだと思います。
人間はえてしてそういう冗談で他人を「かつぐ」ものですから。
たとえば「キビヤを肛門から吸い出す」というのは日本で長らく信じられてきましたが、どうもこれは植村直己氏が現地人にかつがれたのではないか?という話が2024年の2月に話題になりました。
> 「キビヤを肛門から吸い出すのは実は村人の冗談を真に受けただけ」の事実に驚き 『もやしもん』や植村直己、小泉武夫で知ったヒトも - Togetter — https://togetter.com/li/2310257
松浦静山にとって薩摩の出来事は風聞に過ぎず、そこにノイズが入るのを避けることはできないのです。
「鉄砲廻し」は狂気の沙汰としか思えないけれども、
「あの薩摩ならやりかねない」
と思わせる空気が当時はありました。
今もあるか。
そういう空気があるのを当の薩摩人たちも自覚してたら、それを利用したホラ話も出てくるというものでしょう。
### 「鉄砲廻し」を実際にやろうとすると、きわめて難しい座興
まず、火縄銃というものは導火線(火縄)を火薬に押し付けて点火して発射する武器です。
下図↓を見てください。
引き金を引くとはさみ金にとりつけた火縄の火口が火皿の火薬に押し付けられて点火するという仕組みです。
火皿は薬室と細い穴でつながっていて、火皿の火薬から薬室の玉薬に火が伝わって爆発が起きて弾が発射されます。
ダイナマイトのように導火線が燃え尽きて着火されるわけではありません。
この点を理由に、創作であると断定する意見が存在します。
> 紐で釣った火縄銃を回して…質問です。おそらく戦国〜江戸時代あたりだと思う... - Yahoo!知恵袋 — https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11151826586
私もこの意見にある程度は同意します。
何らかの方法で火縄が火皿に押し付けられる状態を固定して、火縄の反対側に着火すれば、火縄を導火線のように使うことは可能です。
簡単に言えば、引き金を引いた状態を固定すれば、火縄ははさみ金にはさまれており、回転する鉄砲から外れて落ちることもないでしょう。
しかし、火縄と言うものはダイナマイトの導火線とちがって「かなりゆっくり燃える」ものなのです。
そうじゃないと戦場で火縄の交換が忙しくなっちゃうので。
火縄(Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84)によれば、燃焼速度は一時間当たり約30センチだそうです。
銃が縄でくるくる回る時間がどれくらいかわかりませんが、回転が止まるまで二分ももたないでしょう。
とすれば、必要な火縄の長さは1センチ。
これを金ばさみにはさんで、着火して……というのは難しそうです。
もちろん、10センチくらいの状態ではさんで着火して、つるして、なわによりをかけて固定してしばらく待って、頃合いを見計らって回転させはじめることはできるでしょう。
ただ、酒宴の最中です。
タイマーもないのに、酔っ払いたちがそんな繊細でめんどくさい作業ができるもんかな……と思わないでもありません。
また、鉄砲を吊るして水平に回転させるというのも、これまた実際にやろうとしたら難しいものでしょう。
マンガのように一点で結んで吊るしただけでは、きれいに水平を保ったまま回転しないだろうと思います。
回転するにつれて重心がずれて一方に偏り、銃口の向きが定まらなくなります。
最悪、鉄砲が抜け落ちるまでありえます。
最低でも二点で固定しなければ水平に回すのは難しいと思いますが、二点で固定すればうまくいくのかどうか、私は実際にやっていないのでわかりません。
仮に二点で固定すればうまくいくとして、そんな繊細でめんどくさい作業が酒宴の最中にできるもんかな、という。
酒宴を始める前、酔っ払う前に準備したであろう、とは言えますが。
なわ(つな)によりをかけるというのはどうでしょうか?
ゴムひもと違って、なわは伸びません。
よりをかければかけるほど、吊るした銃の位置が高くなります。
「鉄砲廻し」を利用した小説なんかではご丁寧に
「鉄砲の高さが胸の高さになるようになわの長さを調整して」
とありますが、「より」の度合いによって銃の高さは変化するのです。
それに高身長と低身長の人の差も考慮していません。
「鉄砲廻し」を企画した人間が期待する高さで発射されるように調整するのは難しかっただろうと思えます。
場所はどうでしょうか?
たがいに距離をとって円座できるくらいの広さがあるとなると、藩の中老より上のクラスだとか、豪農の家でしょう。
宴会の場を提供した家の主人は、なぜ、止めないのでしょうか。
若者の酔っ払いが火薬を使って遊んでいるんですよ?
自分の家が焼けた上に、全員が焼け死ぬ展開もありえたわけです。
そんなことになったら、党員がルールをまもらないやつをリンチで殺したのとはわけはちがう、大問題になります。
党員がルールをまもらないやつをリンチで殺す……が日常であって、それほど問題ならなかったというところに問題があるような気もしますが。
まあ、場を提供した主人が、そういうバカな座興が好きでけしかけて、まっさきに酔っ払うというのはよくあることですけどね。
私の母校では学園祭で体育科の学生が酔っ払っては夜中に駐車されてる車をひっくり返しに行く、という悪さをするのが恒例になっていました。
聞くところによると酔っ払った教授がゼミの学生にそれをやれとそそのかしていたという話ですからね。
立派な地位の人が立派な倫理観をもってるとは限らないのは、永遠不変です。
しかしいずれにせよ、座興とはいえケガ人や死者が出れば、その部屋は「穢《けが》れ」たことになってしまいます。
武士は戦闘(合戦や果し合い)で出た血は穢《けが》れだとは見ていませんでしたが、「鉄砲廻し」は戦闘ではないでしょう。
大広間のあるそれなりの邸宅です。
なにがなんでも「穢《けが》れ」は防ぎたいものでしょう。
座興ごときで穢《けが》されたくないというのが、江戸時代人の一般的な感覚だと思います。
以上が座興としての「鉄砲廻し」が現実的ではない理由です。
高知に「べく杯」なる酒宴での座興があります。
コマを回して、止まったコマが指す場所に座っていた人が罰杯として酒を飲む、という遊びです。
罰を受ける人がルーレット的に決まるという点が「鉄砲廻し」に似ています。
「鉄砲廻し」はこの、「べく杯」あたりをヒントにして薩摩人の誰かがジョークとしての「鉄砲廻し」を思い付いたのではないかと思います。
そして、薩摩入りした商人かなにかがそのジョークをジョークだと思わず信じてしまい、松浦静山に伝え、松浦静山もまたそれを信じた……という流れかと想像します。
※「生きて帰れぬ薩摩飛脚」という言葉がありますが、間宮林蔵ほか御庭番が何人も生きて帰っていますし、島津重豪が
「幕府の間者は全員、殺した」
と言ったのはブラフであるか、
「(違法な手段で機密を探ろうとした間者は)全員殺した」
の意味でしょう。
重豪によって薩摩は「開国」したので、機密じゃない情報を合法的に収集する限り、死なずに帰国できたものと考えます。
まあ、身分を隠して入国する時点で合法じゃないと言えば、そうですが。
## 肯定の目で見る『肝練り / 鉄砲廻し』
### 「へこ組」という特殊なグループの話としてなら「鉄砲廻し」も、ありえないとは言い切れない
原文をこまかく見ていきましょう。
前半は薩摩の「へこ組(兵児組)」についての伝聞。
これを紹介したうえで、自分の聞いた話として「鉄砲廻し」の話を紹介しています。
なので、前半の「へこ組」の話は、ひろく世間一般に知られた薩摩の「へこ組」の話の伝聞。
「鉄砲廻し」の話は松浦静山が信頼できる筋から聞いた、確かと思われる話となります。
島津重豪が故人となっているので、必然的にこの逸話を執筆したのは1833~1841のあいだです。
そして、ここが重要なことですが、この文献がいう「へこ組」とは薩摩の教育システムとしての広義の「15歳以上、25歳以下の青年という意味での兵児《へこ》」ではありません。
なぜなら、「へこ組」を解体する、しないで揉めているからです。
ですから、兵児《へこ》たちのなかに「へこ組」を自称する徒党が存在していて、その党の話という狭い範囲の話と考えなければなりません。
郷中教育の一環として兵児《へこ》たちが日常的に「鉄砲廻し」で度胸をきたえていたという話ではないのです。
男伊達を吹かす、特殊なグループとしての「へこ組」があり、その中でだけ「鉄砲廻し」が行われていた、という話です。
この点を後世の研究者は誤解しているように思えます。
「兵児《へこ》」と「へこ組」は「青年」と「青年団」くらい違うのです。
婦女をみつめてはいけないというのも、後世の郷中教育についての論説では、薩摩では普遍的にそうであったかのように説明されます。
が、『甲子夜話』の描写を厳密に解釈するなら、すべての兵児《へこ》がそういうルールであったとみなすことはできません。
仮に、自殺に追い込んだり無理やり酒を飲まして殺したりといった話が真実を語っているとしましょう。
それを後半で島津重豪が問題視し、当事者たちも反省して悪習を廃しているのです。
ですから
「婦女に見とれたら糾弾されて自殺に追い込まれる。もしくは強い酒を飲まされて殺される」
は薩摩ですら一般的なルールではなく、「へこ組」を名乗っていた特殊なグループの中だけのルールと見るべきです。
もちろん、「へこ組」がそういう特殊なルールを党員に課した背景には、薩摩にそういう価値観があったからではあります。
それ自身は否定できません。
江戸時代初期からずっと半鎖国状態で臨戦態勢を続けてきた薩摩です。
軍人としての色彩が薄まらなかった薩摩武士の間で、女性的なものが毛嫌いされる下地がありました。
軍隊とは筋力がものをいう世界なので、薩摩に限らず世界中、戦争中は女性的なるものが嫌われたりバカにされるものなのです。
かててくわえて儒教的な「男女七歳にして席を~」という価値観が広まった江戸中期です。
もともとの下地に理論武装が加わり、いきすぎた連中の中でいきすぎたルールが出来上がったのでしょう。
そういう、男伊達を競う特殊なグループのなかでの話なら「鉄砲廻し」が実際に行われたというのも、ありえなくはないと思います。
前述の「現実的ではない」理由を考慮すれば、やってみたけど期待通りにはならなかったというのが関の山ではないかと思いますが、ともかく「そんなことすらやったりした」という事実だけは残ります。
「或は其玉に当る者あるも患へず人も亦哀まずと云ふ」
というのも、本当に当たって死んだ人間がいるかどうかは別として、「鉄砲廻し」を始める前に、リーダーが
「もし当たってケガ人や死人が出ても、心配したり悲しんだりしてはならんど」
と言い聞かせていただけかもしれません。
単に「胆を練る」のが目的なら、死者が出ないための工夫を参加者には秘密にしつつ、やっていたのかもしれません。
火縄銃はアナログな武器ですから、火薬の量を減らすとか、口径よりもうんと小さな弾を使うなどとすれば、めったなことでは死者がでないよう調整可能です。
こうした、特殊なグループの特殊な風習を島津重豪は問題視し、「へこ組」の解散を命じたとあります。
「へこ組」は猛反発するも、党員の中には
「いやいや、鉄砲廻しとかリンチ処刑は、そらアカンやろ」
と言うものがいて、それに納得して「鉄砲廻し」と「リンチ処刑」はとりやめた……という話ですが、悪習を自主的にやめたことで「へこ組」が解体をまぬがれたのかどうか、『甲子夜話』からはわかりません。
この、島津重豪が「へこ組」を解体しようとしたのが事実だとすれば、いつのことなのでしょうか?
いずれにせよ、お堅い一次資料である「旧記実録雑録」や「島津国史」からは、「鉄砲廻し」の話はみつかりません。
いや、私が見落としてるだけという可能性もありますが、もし言及していたら
「この話のソースは『甲子夜話』だけ」
なんて状況にはならないはずなので、言及していないと考えます。
重豪による学派弾圧といえば、「古学崩れ(古註崩れ)」(1786)と「近視録崩れ(文化朋党崩れ)」(1808)が有名です。
松浦静山は
「故栄翁老侯(薩摩守重豪)家督のとき」
と書いています。
したがって、隠居していたときに起こった「近視録崩れ」は該当しません。
実権を握っていたはずという指摘はあると思いますが、重豪がガチに藩政から離れたので「近視録崩れ」が発生し、重豪が権力を取り戻して処罰したというのが正しい流れです。
「近視録崩れ」の直前、重豪はかならずしも絶対的な権力者ではありませんでした。
「古学崩れ」は重豪の隠居直前ですから、記述には合います。
しかし、このときの「古学派」が「へこ組」を名乗り狂勇を示すのに積極的だったという話は聞かれません。
また、『甲子夜話』の記述は「へこ組」が旧弊を廃したので、解党をまぬがれた……という風に読めますが、「近視録党」にしろ「古学派」にしろ組織解体をまぬがれていません。
建前上、薩摩は徒党を組むのが禁止されているのです。
「精忠組」だって、はじめは「近視録」の読書会として始まった平和な組織であり、のちも大久保らのロビー活動によって存在を藩から「許された」存在にすぎません。
してみると、「へこ組」なる党が存在して解党の危機にあったとすれば、重豪が本格的な薩摩の改革を始めた明和六年(1769)~安永四年(1775)あたりの話ではないかと思います。
重豪が5歳のとき、「実学崩れ」なる事件が起きました。
あまりよろしくない連中という意味では、この薩摩の実学党こそ「へこ組」にふさわしいのですが、このグループを処罰して解体したのは父の重年です。
この党の残党が、重豪が若いころに復活し「へこ組」を名乗って、活動していたとしましょう。
重豪はまだ若く、実績もなく、分家の出身なのに藩主になったのでナメられてます。
祖父の継豊も宝暦10年(1760)に亡くなり、約10年間、薩摩は野放図にあったと言えます。
明和七年正月、重豪は薩摩の野蛮を直すべく、特に若者に対してお触れを出します。
> 鹿児島県維新史料編さん所 編『鹿児島県史料』旧記雑録追録 第6,鹿児島県,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9769741/1/128
一部を意訳すると、こんな感じ↓でしょうか。
ケンカして、相手を討ち果たして自分も切腹するバカが多い! やめようね
グループ間で誹謗中傷合戦するのやめーや。つーか、ケンカすんな
ほかにもこまごま書いてますが、私がちゃんと読めてない可能性が高いので、訳しませんできませんw
「若者共」と何度も出てくるので、国元の無法な若者を狙い撃ちにしたお触れであると解釈でします。
若者が自分の属する郷じゃない人間に向かって謗雑言するのをやめろと言っているので、「へこ組」ならぬ普通の地域グループでさえ、若者の間ではそういうケンカ腰な風潮が一般的だったと考えられます。
ほぼほぼヤンキーですわ。
このお触れを行って聞かされた連中の中に「へこ組」があり、命を軽視するタイプの「男伊達」をやめなかったら処罰するぞと藩の偉い人に警告された……ということも、ありえた話でしょう。
また、後年とちがって重豪はまだ藩主になって10年で、支持基盤も弱い状態です。
いきなり強権発動で「へこ組」解体はできなかったのかもしれません。
いずれにせよ、『甲子夜話』の述べる「以前には」が 1769 頃の話だとすると、1760 年生まれの松浦静山にとっては 9 ~14 歳の時の話を 60 年ちかく過ぎて書いた話になります。
ギリギリ、リアルタイムで見聞きした話にもとづいているでしょうが、重年時代の実学党くずれの話と重豪の改革とが、記憶の中でごちゃまぜになった可能性を否定できません。
薩摩実学党の連中は、
徒党禁止が原則なのに寄り集まって
バカ食いし、バカ飲みし、大騒ぎ
くだらないことばかり談義し
時には藩政を批判し
他人を批評した(※身分制社会では相手によっては「やってはいけないこと」になる)
のですから、重豪の時代に「へこ組」が同じようなノリを続けていたとしたら、薩摩実学党のように大事件を起こす前におだやかに解党しようとしたのかもしれません。
こういう連中はパフォーマンスとして異常なことをやりたがるものですから、その一環として「鉄砲廻し」を考案してやってみた可能性は、あると思います。
座興として成功したかどうかはともかく。
なので、薩摩では郷中教育の一環として日常的に「鉄砲廻し」が行われていたとは考えられません。
しかし、一部の特殊なグループが「やったことがある」という程度の話なら、あり得ることでしょう。
問題は『甲子夜話』のこのくだりのラストです。
ここ。
この一文が、「へこ組」なる特殊なグループの特殊な風習が薩摩人の一般的な風習であるように誤読されるよう、ミスリードしているのです。
あるいは松浦静山の真の意図も、そうした偏見を垂れ流すことにあったのかもしれません。
しかしながら、糸鬢も膝が出てるのも南国だから理にかなっていると言えます。
異様な風貌の人間は精神的にも異様であるという印象操作する松浦静山の方にこそ論理的欠陥と倫理的欠陥がありましょう。
半鎖国を続け臨戦態勢であるため、リーチが長い刀を好むのももっともな話です。
大刀が長く重いので小刀は
「首を切るためだけのもので十分」
と短く軽いものを使う。
実に論理的だと言えます。
「是を以て其人の気象は想やるべし」
と松浦静山は述べますが、まったく薩摩武士の気質を示す論拠ではないのです。
しかしながら、狂勇の薩摩武士というステレオタイプに、我々は抵抗することができません。
どうしても、そういう面を期待してしまうのです。
なぜなら、そのほうがおもしろいから。
三田村鳶魚なんかは「鉄砲廻し」の話に続けて、薩摩藩士が「酒の肴に腹を切る」という話を紹介しています。
> 三田村鳶魚 著『江戸の史蹟』,青蛙房,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991346/1/106
……………………………。
これ、三田村鳶魚が何をソースにしたのか私は知らないんですけど、みんな薩摩藩士をなんだと思っているんだ?と言いたくなります。
薩摩において、命が軽かったというのは、たしかにあったでしょう。
「婦女を見つめないというルールを破った者を殺す」
というのも、閉鎖的な組織ではありがちなことです。
ルールを守れない人間は組織に害をなすものだと考えられがちですから。
「鉄砲廻し」もポストが足りない閉鎖社会である薩摩において、運の悪い奴を「間引き」するための仕組みとして自然な欲求で生まれたのかもしれません。
たとえばバンジージャンプのルーツになったナゴールという通過儀礼も、あれは閉鎖環境である島の住人が増え過ぎないようにするための仕組みとして機能していたといいます。
「へこ組」の厳しい掟も通過儀礼の一種ですから、同じような側面があったのかもしれません。
でもな…… 酒の肴に腹をかっさばくかいっ!
それはあったとしても、酔っ払った勢いじゃ!
薩摩気質とは別のもんじゃ!
酔った勢いで
「だれか肴に腹を切らんか?」
と言い出して、
酔った勢いで
「おう!」
と応えてホントに切っちゃうのが薩摩気質じゃろがい!
と言われたら、それはそうかもしれん……と気弱になりますが……
これも、冗談で言ってたのを他国人が真に受けただけの話なんじゃないかなあ、と思う私でありました。
♪みんな~ お酒が~ 悪いのよ~ アァァ~♪
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?