初期の握り寿司は大きくなかった
※ この記事は筆者の Fanbox からの転載です。
今年の5月に↓こういうエントリを書きましてん。
> 握りずしはファストフードでありながら、いつだって高級料理|桝田道也|pixivFANBOX — https://mitimasu.fanbox.cc/posts/5854416
このエントリの後半に書いたことの繰り返しになるのですが、きちんと
「初期の握り寿司は大きくなかった」
というタイトルで正面から否定せにゃならんと思ったので、あらためて書き直します。
## エビデンスが無いのになぜか信じられて広まってしまった「初期の握り寿司は大きかった」説
「初期の握りずしはおにぎり並みに大きかった」
なる説、もはや定説のように扱われていますが、私はその証拠を発見できていません。
> 新装改訂版 現代すし学 | 智彦, 大川 |本 | 通販 | Amazon
> https://amzn.to/3sSQuG8
↑ この本とか、すし(なれずし含む)に関する情報をこれでもかってくらいに網羅してる本なのですが、特に
「初期の握り寿司が大きかった」
という説を肯定していません。
否定もしてないわけですが、そんな事実が無かったのであればそもそも紹介する必要がありませんから。
初期の握りずしに関して見つけられる文献は昭和の段階でほぼほぼ洗い出されているのです。
そんで、
「あまりに急に広まったので、初期の握りずしを誰が発明してどのように広まったか、あんましよくわからない」
という状態がずっと続いているのです。
> 寿司 》 握り寿司(江戸前寿司)の誕生- Wikipedia — https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8#%E6%8F%A1%E3%82%8A%E5%AF%BF%E5%8F%B8%EF%BC%88%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D%E5%AF%BF%E5%8F%B8%EF%BC%89%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
最初に握りずしを考案したのは華屋の華屋与兵衛かもしれないし松が鮨の堺屋松五郎かもしれないし、握り寿司ではなさそうだけど毛抜鮓の松崎喜右衛門だって可能性はある……という状態でハッキリしないままというのが明治大正昭和から平成を過ぎて今の今まで続いているわけです。
つまり、この頃に関する新しい文献なんか見つかっていません。
ところが、** 昭和までとんと言われてなかった
「初期の寿司は大きかった」
なる説が平成に入って急激に拡散しだしました **。
これは疑ってしかるべきなのです。
おにぎりサイズの大きな寿司、話としては面白いです。
しかし、面白いからといって正しいわけではありません。
## 絵画資料に見る「江戸時代の寿司は大きくなかった」の証拠
この話をするとき、私が必ず証拠として提示するのが国芳の浮世絵です。
なぜ必ずこの絵を証拠として挙げるかと言うと、一目瞭然だからです。
見ての通り、現代の寿司と変わらない大きさです。
しかし困ったことにこの浮世絵を「初期の握りずしは大きかった」の根拠にしてる記事が検索するとたくさん見つかります。
お前らの目は節穴に銀紙でも貼ってんのか?
たしかに手の大きさに比べると寿司が大きく見えますが、浮世絵は手を小さく傾向がありますから。歌麿とか写楽とか。
ここで注目するべきは甘エビであって、** 甘エビの大きさなんて江戸時代も現代も大きく変わりません**。
江戸時代の握りずしは特別大きい甘エビを使ったのであるとか、この浮世絵の寿司はたまたま巨大な甘エビを使ったのであるという前提を想定しての擁護は可能です。
が、特殊な想定が必要ということそれ自体が、初期の握り寿司が大きかった説を疑わせる理由になりましょう。
したがって、普通に考えればこの寿司は現代の握りずしと大きく変わらない大きさです。
大目に見てもせいぜい(体積で)1.5倍くらいで、とても「おにぎりサイズ(体積で3~6倍)だった」とは言えません。
この国芳の絵が1844年の作品で、初期の寿司がおにぎりサイズだったとすると、握りずしが誕生した1820年代から24年で現在と同じサイズまで縮んだことになります。
さすがに変化の度合いが大きいのであって、初期の寿司は大きかった説を疑ってしかるべきです。
次に広重。
タイトルと制作年がわからなかったのですが、広重の没年が1858年なので、それ以前ということになります。少なくとも握りずしが誕生して38年以内。
こちらも甘エビの大きさから、握りずしの大きさが現代と大差ないのがわかります。
国芳・広重がそろって特別に巨大な甘エビを握った寿司を描いたのだ、と考えるべき理由はありません。
おまけに広重は熊笹も描いていますから、熊笹と比較しても描かれた寿司が現代と大差ないサイズだったとわかります。
こちらも、特別に小さい熊笹をあえて飾り切りしたのだと想定する理由はありません。
次に豊国[
1855年の作品のようです。少なくとも握りずしが誕生して35年以内。
これも甘エビが……あ、もういいですか。
左に見える箱に入っているのは押し鮨です。
握りずしがそもそもは押し鮨の添え物だったことをよく示しています。
初期の握りずしは押し鮨(切り鮨)の添え物でした。
ある日、突然「握り寿司」が現れて一斉に切り替わったのではなく、握り寿司は押し鮨(切り鮨)に添える ** 変わり種寿司として誕生した ** のです。
最後に守貞漫稿。
白魚に握りの白魚は三匹です。おにぎりサイズだったら、もっとたくさん握らないとタネにならないでしょう。
これは略画の可能性があり、正しく三匹かどうかという点で疑惑がありますが、白魚の体長がシャリの長径より長いことから、シャリの長径は現代と大差ないと推測できます。
ここまで見てきた結果、握りずしが誕生して30~40年後の絵画資料では、現代の寿司と大して大きさは変わらないことがわかりました。
幅・長さともに多少の誤差があった可能性はありますが、それでも「おにぎりサイズ」とは言えません。
誕生時にはおにぎりサイズだったものが、たった30年やそこらで大きく変化したと考えるより、最初からこのサイズで変化してないのだと考える方が自然です。
なぜなら文献資料は状況証拠からも、それが裏付けられるからです。
## 文献資料に見る「江戸時代の寿司は大きくなかった」の証拠
文献に現れる握りずしの初見は
「妖術という身で握る鮨の飯」
という川柳です。
妖術とは物語における忍者の使うあやかしの術のこと、つまり忍術です。
忍者が術を使うときに印を結ぶ、あの手つきですね。
指を二本立てて「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」とか言うでしょう? あれです。
すしの飯(シャリ)とは、妖術(忍術)使いのような手つきで握るのであるという川柳で、文政十年三月二十六日に詠まれています。
この川柳が読まれた ** 1827年(文政十年)には寿司のシャリは忍者が妖術を使う時のように、指二本で握るサイズだった ** わけです。
つまり、現代と同じ握り方と考えられます。
江戸三鮨の握り寿司が登場したのが1820年代と考えられ、その同年代にこの川柳が詠まれています。
おにぎりサイズであれば指二本で握るのは困難だったでしょう。
では、なぜ指二本で握ったのでしょうか?
そんな、ちょっとコツと練習が必要な面倒な握り方を、なぜ開拓者は選んだのでしょう?
おにぎりのように握らなかった理由はなぜでしょうか?
それは、握りずしが誕生する前から、押し鮨または切り鮨ひとつの大きさが現代とほぼ変わらない大きさで定着していたからです。
押し鮨に添える変わり種として握り寿司が生まれたことは先述しました。
この点を思い出してください。
押し鮨に添えるわけですから、華屋与兵衛や堺屋松五郎は ** 既にある押し鮨(切り鮨)にサイズを合わせなければならなかった ** のです。
切り鮨にサイズを合わせるために研究を重ねてたどりついたのが、指二本で握るやりかただったのでしょう。
握りずしを考案した可能性のある三名、華屋與兵衛、堺屋松五郎、松崎喜右衛門の三名とも押し鮨の職人でした。
このときの押し鮨(切り鮨)の大きさは『守貞漫稿』からわかります。
(※『類聚近世風俗志』は『守貞漫稿』の改題です。抄訳は筆者によります)
四寸、つまり12cm四方の箱に寿司をつめて、具をのせて、それを4×3の12個に切り分けたとあります。
ということは切り分けた押し鮨(切り鮨)1個のサイズは ** 3cm×4cm **。
証明写真のサイズです。
現代の押し鮨(バッテラとか)と比べるとちょっと縦横比は違いますかね。
現代のシャリひとつのサイズがおおむね3cm×6cmであることを考えると、むしろ江戸の筥鮓《はこずし》の一個はひとまわり小さいくらいです。
この筥鮓《はこずし》が華屋與兵衛、堺屋松五郎がもともと作っていた押し鮨(切り鮨)だと考えられています。
松崎喜右衛門の毛抜き寿司は筥鮓ではない笹ずしでしたが、1個が熊笹で巻けるくらいの大きさでした。抗菌作用のある笹でくるんで、ちょっと押して、発酵されたものでした。
ですからこちらのサイズも 3cm×4cm と大差ないと推測できます。
で、彼ら押し鮨職人が新機軸として考えた、押しずしに添える変わり種の「握りずし」を、おにぎりサイズ(もしくは現代の寿司の三倍のサイズ)にするでしょうか?
そんなことをしたら変わり種だけでお腹いっぱいになっちゃって、主力商品の押し鮨が食べられなくなるのに。
何度も言いますが、彼らは押し鮨職人であり、常連を抱えているのです。
握りずしを考案して今までの押し鮨を無かったことにして新商売を始めたわけじゃありません。
だとしたら、** 初期の握り寿司のサイズは押しずしを切り分けたものと同等のサイズであった ** と考えるべきです。
また、巻きずしは握りずしより先に出現していて、こちらも大きさは絵画資料からわかる通り、現代の物と大差ありません。
先行する押し鮨(切り鮨)――現代人にわかりやすい例を出せばバッテラ――や、これまた先行する巻きずしの大きさが「万民に食べやすい大きさ」で定まっているのに、新商品の売れるかどうかもわからない握り寿司を、イレギュラーな巨大サイズにする理由があるでしょうか?
贔屓の顧客を抱えていた名店が、そんな危険を冒すものでしょうか?
## 状況資料に見る「江戸時代の寿司は大きくなかった」の証拠
再び絵画資料に戻ります。
もういちど、豊国『見立源氏はなの宴』(1855)
この作品には握りずしに刺されたつまようじが描かれています。
このころの押し鮨と握り寿司はつまようじで食べるのが一般的だったということです。
つまようじのサイズから、これらの寿司が現代と変わらないサイズだとわかります。
そして
「おにぎりサイズだと、重くてつまようじでは持ち上げるのが大変――逆説的に、おにぎりサイズは難しい」
ということは、状況証拠的に容易に推測できます。
一方、歌川国芳『縞揃女弁慶』より「安宅の松」では、箸がそえられています。
箸で食べるのも普通に行われていたのでしょう。
こちらも、箸のサイズから、これらの寿司が現代と変わらないサイズだとわかる……のはともかくとして。
みなさん、おにぎりを箸で食べますか?
あたしゃ食べにくくって嫌ですね。
小さめの俵おにぎりならともかく。
このへんは江戸時代の人間も変わらないと思います。
人間のくちの大きさは進化していませんから。
箸やつまようじで食べていたということは、箸やつまようじに適したサイズであったということです。
## 初期の握り寿司が大きかった証拠は無いが、握り寿司が全国に普及していく黎明期に「大きな握り寿司が現れた」とは言える
ところが、ここから
「実は大きな寿司が実在していた」
という話になります。
ここまでの証拠で、
「初期の握り寿司が大きかったという証拠は今のところ無い。絵画史料や文献・状況証拠から考えて現代と同じサイズであったと考えるのが自然」
と結論できました。
しかし、ともかくも誕生期の握り寿司はあまりにも爆発的に流行したので、当時の記録が変化を追い切れていないのです。
幕末にかけてはそれまでの筥鮓(押し鮨=切り鮨)が江戸から駆逐され、江戸は握り寿司専門店ばかりになっていきました。
そして明治になると、この「握り寿司」が全国に広まっていきます。
また、一般のご家庭でも握り寿司を作ってみたい!なんて需要が出てきました。
そこで
「黎明期に握り寿司が拡散していく過程で、おにぎりサイズの巨大な握り寿司が現れた」
という事実があるのです。
### 館山の漁師握り寿司
握りずしか江戸から全国に広まっていく幕末~明治時代に、小さめのおにぎり程度には大きい握りずしが出現したことは千葉県館山市に見ることができます。
> この寿司、通常の3倍はデカイぞ…! 江戸時代からサイズを変えない館山の「田舎寿司」に圧倒された - ぐるなび みんなのごはん — https://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/note/4946
なぜ館山の握り寿司は大きいのか。
明治初期の館山では江戸で流行ってる握り寿司とやらを、漁師が漁の合間の副業として始めたのですね。
館山は江戸に水産物を届ける漁師町でしたから、魚はたくさんありました。
シケで漁に出られないときのアルバイト的に、握り寿司屋を始めたのです。
ところが、専門の寿司職人ではなくて漁師または漁師のおかみが握るわけですから、江戸前寿司のように「妖術使いの手で」シャリを小さく上手に握るのが難しかったのです。
しかも、魚があるとは言っても日本橋のような魚河岸ではありません。
冷蔵庫の無い、物流もまだまだ人や馬に頼った時代の館山港は、同じ魚ばかりたくさんあって、江戸のように豊富なタネを用意できませんでした。
しかも副業ですから、本業に差し障るほど時間もかけられません。
こうした理由から明治期の館山の寿司は
「少ない種類のタネで腹いっぱい食べられて、作るのが簡単」
なように、大きくなっていったのだと考えられています。
こうした変化は館山に限らず、全国の漁師町で起こりえたことでしょう。
### 技術・ネタの種類・人手が足りないのは江戸の泡沫店舗も同じ
この「忙しくって手が回らない」という問題は当の江戸においても発生しました。
幕末から明治初期、あんまりにも握り寿司が人気なので、猫も杓子もな勢いで握り寿司専門店が開店しました。
たいがい屋台だったり、自宅の玄関先を店舗にしたような簡素な寿司屋でした。
店主とせいぜいおかみさんで切り盛りするので、手が回りません。
寿司屋の湯飲みがでっかくたっぷり入るものに変化したのは、この人手不足の時代に
「お茶をつぐ回数を少しでも減らすため」
だったそうです。
それに流行りに乗じた泡沫店舗ですから技術不足は当然にあったでしょうし、ネタもそれほど用意できなかったことでしょう。
だとすれば江戸の泡沫店舗でも、館山と同じく技術不足とネタ不足と人手不足を補うために、寿司を大きくした店舗があったとしても不思議はありません。
### ご家庭も寿司を握りたいけど、ご家庭で握り寿司は難しい
明治になると一般のご家庭でも寿司を握ってみたいという需要が起こりました。
しかしここでも練習してない人が「妖術使いの手で」シャリを小さく上手に握るのは難しいという問題はついて回ります。
また、色とりどりの豊富なネタこそが握り寿司の魅力ですが、ふつーのご家庭ではネタをたくさん用意するのは難しいものでした。
冷蔵庫の無い時代なのです。
そこで明治期の家庭向けの指南書の図では、大き目に握っています。
最初こそ指二本での握り方で始まりますが、途中(ほ)図になると、おにぎりを握るように形を整えています。
また、図に描かれた寿司の大きさは縦・横・高さともに現代の寿司の1.5倍くらいに見えます。
体積で言えば約三倍、つまり小さめのおにぎりくらいありそうです。
本文に分量を書いてないので ** 絵師が大きく描きすぎただけ疑惑 ** も残りますが、おそらくは技術不足・タネ不足の一般家庭向けに大きく握るよう配慮した結果かと思います。
この本は明治43年(1910)の本ですから、握り寿司が世に現れて80年くらい。
著者は華屋与兵衛の子孫で、初期の握り寿司をリアルに知っている人から話を聞くことができ、また、貴重な資料も閲覧できたことでしょう。
しかし、その著者が
「初期の握り寿司は大きかった」
とは言っておりません。
> 『家庭鮓のつけかた』》握鮓の流行 https://dl.ndl.go.jp/pid/848995/1/93
家庭向けの図では小さめのおにぎりサイズの図を載せた著者ですが、「白魚」の項を見ますと使う白魚は4~5匹とあります。
ここから「白魚の握り」の大きさは明治43年の時点で、現代と変わらない大きさだったとわかります。
おにぎりサイズから体積でマイナス66%の変化があったのだとすれば、** 大きかった時代を知っているはずの著者が、すしの変遷の項目でそれに触れないのははなはだ疑問 ** です。
『守貞漫稿』の挿絵も見えない側にあと1~2匹隠れていると考えれば4~5匹になるわけで、結局のところスタンダードな握り寿司の大きさは初期から明治43年まで変化してないと考えなければなりません。
## 結論 : 初期の握り寿司が大きかったという証拠は無い。黎明期に大きな寿司が出現した事実はあるが、黎明期は初期ではないし、それが主流になったと考えることもできない
文政年間に誕生した「初期の握り寿司」が大きかったという証拠は無い
逆に、現代とほぼ同じ大きさだったと推測できる絵画史料・文献・状況証拠は多数ある
握り寿司が拡散していく幕末~明治期の黎明期に巨大な握り寿司が現れた事実は確認できる
幕末~明治期は「初期の」とは言えない
巨大な握り寿司が現れたからといって、それが標準になったとは言えない
結論は以上です。
本当言うと、これを出発点にして
「"初期の握り寿司は大きかった"は、いつ、だれが言い出したのか?」
を調べたかったんですけど、そんなヒマなさそうなので、その調査はやめることにします。
なんか、平成になって急に拡散した雑学なんですよね……
昭和のウンチク本ではまるで見ない説。
"初期の握り寿司は大きかった"が事実なら、雑学本が流行ってた昭和の執筆者が見逃すわけないのに。
まあ、犯人捜しをするのも建設的ではないと思います。
おしまい。
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