近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(23) 第5章 5.4.3. 中世の方格設計都市②
### 5.4.4. 中国における中国式都城制の変遷
■ 春秋・戦国時代の城郭都市は周の理想から離れていった
さて。古代中国においては商(殷)の時代に方形プランと中心軸プランが始まり、西周の時代に碁盤目街路、すなわち方格設計が都市の理想形態とされたことがわかりました。ここでもやはり、方格設計は車輪が伝達したあとだったのです。
周王朝が絶頂だった時代には、地方都市も、周の理想とした都市計画を自分の都市に用いたようです。これはチーフー・グーチァン(曲阜故城)のレイアウトから推測できます。
ところが! ところがどっこい! 周の完成させた中国式都城制は、周王朝の衰退とともに、いったん、不採用が続いたのです。有名な春秋・戦国時代の各国の首都は、中国式都城制からの逸脱が多く現れるようになりました。
周王朝の統治が衰え、群雄割拠の時代になると、方形で中心軸プランで方格設計のある都城制の都市が築かれなくなります。
すでにヨーロッパでローマ帝国の滅亡後に方格設計都市が崩れていく様子を確認した私たちに、驚く理由はありません。
将来を見据えた計画都市の建造には、十分な人口と税収および強大な行政力が必要です。それは古代~中世の地方都市には難しい条件でした。
春秋時代の墨子は城を大・中・小に分類していました。が、墨子の述べる大に分類されるものさえ、せいぜい一辺が560mほど。のちの戦国時代に淘汰がすすむと、大の城は一辺が2,000mを超えるようになりました(杉本憲司『中国古代を掘る』)。大の城でさえ、せいぜい一辺2,000mなのですから、乱世において巨大 建築がいかに難しいか、よくわかります。
図 5.4.4.1: 東周洛陽城(東周王城)
出典: 东周王城
http://www.kaogu.cn/cn/kaoguyuandi/kaogubaike/2013/1025/34401.html
かろうじて方形・内城と外城の二重構造を保っていたのは東周の都・東周王城です。腐っても天子のお膝元。しかし、中心軸プランの有無は判断できません。
図 5.4.4.2: 鄭韓故城
出典: 【考古詞條】青銅時代 · 鄭韓故城遺址-趣讀
https://ifun01.com/B8X6XFJ.html
春秋時代には鄭の、戦国時代には韓の城郭都市であった鄭韓故城は、テトリスのブロックのような不定形プランです。西側が春秋時代に作られ、東側が戦国時代に拡張されたと考えられます。乱世を反映した場当たり的な拡張でした。
このほかの春秋・戦国時代の城郭もおおむね似たようなものです。方形の城郭都市は存在しました。中心軸プランの城郭都市もあります。簡単な方格設計のある都市もあったことでしょう。
春秋時代は二百を超える数の小国がひしめいていましたから、中には全部がセットになった、中国的都城制を実装した城郭都市も存在していたかもしれません。
しかし全体的には、そのような城郭都市はあまり見られない状態にありました。 そんなことやってられっか! な時代だったのです。
周の理想に沿った中国的都城が大々的に復活するのは春秋戦国時代が終わって、さらにずいぶんたってからです。
戦国時代を終わらせた秦を終わらせた西漢(前漢)を終わらせた新を一瞬で倒して取り戻した東漢(後漢)の都、ルオヤン(洛陽)へ進みましょう。
■ 碁盤目・北闕・中心軸プランのセットが成立。東漢~魏晋時代のルオヤン(洛陽)
東漢(後漢)はルオヤン(彼らは雒陽と書きました)に都を定めましたが、このときはまだ、中心軸プランではありませんでした。
東漢(後漢)時代のルオヤンは多宮制を採用しており、都市の中には大きな北宮と南宮、そして小さな宮が分散していました。
図 5.4.4.3: 東漢洛陽推定復元図
出典: 钱国祥『汉魏洛阳故城沿革与形制演变初探』
東漢(後漢洛陽城)からは、次の事がわかります。
(1) 方格設計がある
宮の形式はのちの時代と異なっていますが、方格設計はおおむね実現されていることがわかります。
やはり、乱世が終わり税収が安定すると、人口増加を見据えた都市設計が始まるのです。
『周礼』が成立したのは漢代だといわれます。都市の中心に宮を置くプランは採用されずとも、方格設計を用いる案は採用されたのでしょう。
不完全ながらも、東漢(後漢)において、いったん途絶えた中国式方格設計都市が復活したのです。
(2) 城域が広い
東漢(後漢)ルオヤンでは、城域が非常に広くなりました。
東西2.0km、南北3.2kmほどにおよび、これは春秋時代に大城と定義された面積の20倍に相当します。
ローマの植民都市で、これより大きい都市はアレクサンドリアくらいしかありません。
そのうえ、漢代ルオヤンはのちの中国都城制の首都と比較すると、これでも小さい方です。狭い日本に築かれた平城京や平安京よりも小さいのです。
したがって、中国文化圏の都城制の特徴として、まず「城域が広い」ということを踏まえてください。メソポタミア・インダス川流域・ナイル川流域といった乾燥帯の都市が
「狭いエリアに効率的に集住するために、集合住宅が生まれ、ひいては方格設計につながっていった」
のとは、明らかに様相が違います。
中国では農耕が始まってから七千年近く、方格設計の都市が生まれなかったことは、すでに述べました。
これは、単純に言えば、車輪の伝来が遅かったからです。車輪を知らなければ、そもそも効率の良い街路を、という発想が出ないのです。
車輪(戦車や荷車)や馬が伝来すると中国でも城壁を高くする必要が生まれました。
ところが中国では石塁やレンガで高い城壁を築くより、羅城と呼ばれる土塁を囲郭とするやり方が主流になりました。
版築により土を突き固めた羅城は高さでは石塁の城壁におよびませんが、組構造ではないため投石器など破城兵器に強いというメリットがあります。が、おそらくは破城兵器への対策ではなく、単に石を切り出して積み上げるより、版築の方が安上がりであったから羅城が選ばれたのだろうと思います。黄河流域はまさしく黄土がふんだんに堆積しており、突き固めるのに適した地質であったからです。
純粋に敵を阻む性能で言えば、法面が垂直になる石塁やレンガ壁の方が、法面が斜めになる羅城に勝ると考えられますから。
ともかく、古代中国においてはヨーロッパと微妙に違った経緯で、方格設計が求められたのです。
馬で襲撃してくる外敵から集落を守るには城壁を高くしなければならない
↓
しかし、城域が広いので、石やレンガで城壁を築くのは予算がかかりすぎる
↓
版築による羅城を発明してコストダウンに成功
↓
城域がやたらと広いため内部の移動が大変
↓
車輪を活用したい
↓
直線道路が碁盤目状に舗装される
つまりヨーロッパと違い、重さではなく広さが問題となり車輪に適した方格設計が求められたのです。このため舗装への欲求もそれほど高くありません。そこまで重いものは運ばないからです。城域が広いせいもあって、石畳の舗装はのちのチャンアン(長安)でさえ、一部にとどまりました。
ところで、この時点で古代中国だって、せまい範囲に高層の集合住宅を密集させるという都市設計をとることができたはずです。
それでも、古代中国は城域を広くとり、石塁ではなく版築を用いた長城で城域を広く囲み、戸建て住宅を中心とした都市計画を選択しました。
古代中国が他の文明圏と異なる選択をしたのはなぜでしょうか?
気候が温暖湿潤で木材が豊富、無理して石造りの高層建築を建てずとも、市区の拡張で人口増加に対応することが容易だったから――それだけですべてが説明可能でしょうか? 温帯であるヨーロッパも結局は石造り都市に向かってたのですから、乾燥と植物資源不足だけが理由ではなさそうです。
この疑問はあとで、まとめて考えます。
さて、この多宮制だった東漢(後漢)ルオヤンが、のちの中国式都城制都市の祖となる形態になったのは、三国志の時代から五胡十六国にかけて、つまり魏晋の頃でした(奈良文化財研究所 編『日中韓 古代都城文化の潮流』)。
このとき洛陽の政庁は単宮になり、都市の北辺に置かれ、宮から南に伸びる道が都市を二分する中心軸プランが出現しました。
図 5.4.4.4: 魏晋洛陽城推定復元図
出典: 钱国祥『汉魏洛阳故城沿革与形制演变初探』
魏晋ルオヤンからは、次の事がわかります。
(3) 中心軸プランは都市を等分していない
魏晋洛陽は宮の南道が都市を二分していると言いつつも、宮そのものが正確に東西を等分するラインの上にはありません。
結果として左京は右京の二倍ほども広くなっています。
(4) 方形プランが踏襲された
春秋戦国時代には各地で方格設計都市が失われました。乱世にはその傾向があることは、中国のみならずローマ植民都市でも見てきた通りです。
しかし、さすがに三国時代に最大勢力を誇った魏の首都といったところでしょうか。乱世においても、東漢(後漢)時代に方格設計街路を維持する力を所持していたようです。このへんはヨーロッパでもフィレンツェがかろうじてローマ時代の方格設計街路を維持できたのと似ています。
(5) 宮(中央政庁)が北側に寄った
のちのチャンアン(長安)に代表され、日本の平城京や平安京にも影響を与えたスタイルがここに始まりました。中央政庁(宮)が都市の北側に置かれたのです。このスタイルのことを北闕型(ほっけつがた)と呼びます。闕は宮城(ぐうじょう)の門を意味します。なお、北闕型に対して宮が都市の中央にあるスタイルは周礼型と呼ばれることが多いようです。本書もこの呼称に沿います。
さて、東西方向で見ても、すでに述べたように都市を二等分する中心軸上にはありません。
この点で、魏晋ルオヤンの宮は周礼が理想とした都市の中心に宮があるプランから逸脱しています。
しかし、その後の中国の首都をつらつら見たところで、周礼の理想を守った都城はわずかにしか存在していません。周のそのルールはあまり重視されなかったようです。
通説では、宮を北辺に置くルールは北方遊牧民族由来の宗教観によるものと説明されます。
すなわち、星をたよりにユーラシアを東西を行き来した北方遊牧民族は、北極星を中心に星が回っているのを見て、北極星こそ天を統べるいっちゃんエラい星と考えたというのです。
この宗教観に基づき、天に選ばれた天子は北に座して動かずに天子は南に向かって統治するという思想が生じたのである、と。この宗教的な政治手法を 坐北朝南だとか天子南面だとか呼びます。
四字熟語になってたら理解できた気がする、漢字文化圏の悪いクセです。
その坐北朝南。これは非常に説得力のある説明でした。なぜなら魏は中国の北方に位置していたのですから。北方遊牧民の影響が強く表れても無理からぬことのように思えます。
しかし、それならなぜヨーロッパでは宮が北に置かれるというルールが定番にならなかったのでしょうか?
インド・ヨーロッパ語族の源はポントス・カスピ海ステップの遊牧民に求められ、インドからアナトリア・アラビア、南欧に北欧まで言葉が変わるほどに、この地域は北方遊牧民の影響下にあったというのに。
インド・ヨーロッパ語の源をポントス-カスピ海ステップの遊牧民に求めない、アナトリア仮説に立っても、さほど状況は好転しません。いずれにせよ、中国に馬と車輪を伝えたのは広大な中央ユーラシア・ステップを越えた北方遊牧民であることは変わらないからです。
坐北朝南や天子南面が、この中央アジアを通って東ユーラシアへやってきた北方民族の宗教観に基づくものなら、匈奴や突厥や鮮卑や高句麗や柔然や亀茲や莎車といった国の首都は、坐北朝南や天子南面でなくてはならないでしょう。しかし、そのようなルールは見出せません。
そもそも遊牧とは定住と逆の生活形態なのですから、たとえ北極星を神聖視したのが事実でも、そこからボスが動かずに指揮するという発想が出て来るのはおかしいのです。広い領土の草地や水場に気候と道筋をすべて覚え、最適な時期に最適な場所へ部族を移動させる能力こそ、古代の遊牧民のボスに求められたスキルでしょうから。
北方遊牧民の領域にあるトルファン市(現・新疆ウイグル自治区)の交河故城や高昌古城は版築で作られた漢代にさかのぼる都市遺構ですが、ここに坐北朝南や天子南面は見られません。
渤海の首都は完璧に北闕型で朱雀大路のある中国都城制の様式ですが、チャンアン(長安)以後の建設ですから、北辰思想と無関係に唐を模倣した可能性を排除できません。
私たちは中国史において、なにかと匈奴や突厥や鮮卑など北方遊牧民の影響を考えがちです。しかし、彼らはインド・ヨーロッパ語に染まらない程度に自らのアイデンティティを保ったまま、遊牧という生活スタイルを取り込んだ在来の北東ユーラシア民なのです。
貴人と戦車を埋葬するポントス・カスピ海ステップの風習は殷墟でもヨーロッパでもアナトリア・アラビアでも見られます。
坐北朝南が北方遊牧民に由来する風習だとしたら、同様にヨーロッパやアナトリア・アラビアでも坐北朝南が見られてしかるべきでしょう。西ユーラシアの方が強い影響下にあったのですから。
古代や中世世界において、宗教が非常に大きなウエイトを占めていたのは確かです。しかし、歴史上の疑問点を解決する推理を宗教に求めるのは、慎重でなくてはなりません。なぜなら
「宗教上の理由で」
は、あらゆる理不尽を説明可能にしてしまうマジックワードだからです。
はたして、宮が都市の北辺に置かれたのは宗教上の理由によるものなのでしょうか?
筆者なんぞは
「乱世のせいで維持できなくなった南宮が廃止されて北宮が残っただけじゃないの?」
などと、懐疑的に見てしまいました。が、仮にその妄想が正しかったとしても、なぜ北宮が残され南宮が廃されたかの説明は考えなければなりません。
ともあれ、この問題もあとで解決いたします。
(6) 道幅が広い
これも西洋の方格設計都市とは大きく異なる中国式都城制の大きな特徴です。
ローマ人は有名なローマ街道に見られる通り、車輪のために舗装された軍用道路を積極的に進めました。しかし、ローマ街道の道幅は約4mと、荷車がすれ違える程度の幅しかなかったのです。
一方で古代中国は、ローマほど熱心に石やレンガでの舗装はしませんでした(ある程度はしました)が、かわりに馬鹿げて広い幹線道路を敷設しました。
秦の始皇帝が整備させた「馳道(ちどう)」と呼ばれた幹線道路は、その半分以上が70mの道幅を備えていたのです。ケタが違う! 名古屋か!
魏晋ルオヤンのメインストリートにあたる銅駱街は、発掘調査で道幅40mほどあったことがわかっています。始皇帝の時代には及ばないものの、乱世の時代にこれほどの道幅を維持できていたというのは驚異でしょう。
この道幅は不必要なほどに広すぎると言えます。40m。当時の車幅を2.5mとすれば、16車線ですから。あ、魏晋ルオヤンですら名古屋を上回ってら、これ(※道の左右には側溝があり、実際の路面幅はやや狭まります)。
不要なまでに道幅が広いのですから、それは謎であり、説明が求められるのが世の常です。
広く採用されている説では、外国の使者を出迎えるとき、国家の威信を示すためにそうしたのだと説明されます。
もしくは、重要な祭祀(さいし)がこの大通りで行われるのだと。宗教的理由で宮が北側に置かれた以上、その南側で宗教的儀式が行われたにちがいない……と、そういう説明ですね。
前者については、広い道幅にそのような威信を示す効果があるのなら、なぜインドやメソポタミアやエジプトやローマ人や南米の王朝都市は、バカ広い道路を採用しなかったのか? その説明がつきません。
後者についての疑念はすでに述べた通りです。
くどくて申し訳ありませんが、すべての解決はあとで一気にやります。待とう! デザートは最後!
魏晋ルオヤンは周の時代に理想とされた都市計画を踏襲し復活させ、発展させたものです。
北闕・中心軸プラン・幅広な政庁南大路という、いわゆる中国都城制の3点セットがここで成立していたことは重要です。
が、まだまだ粗削りです。現代の我々が頭に思い浮かべる絶頂期の中国都城制には至っておりません。
■ 実は北闕型とは言い難い北魏時代のルオヤン
三国時代がやっと終わったと思ったらクーデターで魏(曹魏)が晋(西晋)に乗っ取られ、その西晋もグダグダ政治だったので、国中が
「やってられっか! オレは好きにするぜ!」
となって、五胡十六国時代へ突入しました。マジで理解がめんどくさい時代です。自分が中国の中学生でなくて良かったと感謝したくなります。
その後、北魏が華北を統一し、ある程度の政治的安定が確立されると、北魏の首都としてルオヤン(洛陽)が拡張される運びとなりました。
西暦で言えば5~6世紀。北魏ルオヤンのプランは初期の大和朝廷への影響も少なくなかったという説もあれば、それほどでもないという反論もあり。どっちやねん。どないやねん。わてほんまによういわんわ。
その北魏によって拡張されたルオヤンは、どんな感じだったのでしょうか。
図 5.4.4.5: 北魏時代ルオヤンのレイアウト
出典: 依据考古实测和历史记载,测算北魏洛阳城面积_【快资讯】
https://www.360kuai.com/detail?url=9d790021146c02d38&cota=3&sign=360_7bc3b157
はい。それまでの城域を内城として、さらに外城を築き、ばかげて巨大な城郭都市になりました。
外郭のサイズは言い伝えでは、東西二十里・南北十五里。考古実測の結果もその言い伝えを裏付けるものでした。
当時の北魏の一里がだいたい500mなので、東西10km、南北7.5kmとなります。
アレクサンドリア(4.2km×2.1km)とくらべて、7.5倍もの広さです。西ユーラシアの方格設計都市では近代まで並び立つものが存在しなくなりました。
(1) 等分の中心軸プランになった
魏晋ルオヤンでは政庁中心軸が城域を等分してはいませんでした。
しかし、北魏ルオヤンでは中軸大路により城域が東西にほぼ等分されています。ここに都市を左京と右京に等しく分けるプランが確立されたのです。
(2) 条坊制が確立された
東漢(後漢)のころは、方格設計があるといっても、南北平行道、東西平行道が直行する、という程度の方格設計でした。
しかし北魏ルオヤンの時代には、正方形のマス目を単位とする条坊制が確立されていたことがわかります。より原初の条坊制は曽魏の頃に始まったとされます。そして、北魏のころには条坊で都市を設計することが当然となっていました。
(3) 宮が北辺に無い
この点に着目したいと思います。北魏ルオヤンはそれまでの城域を内城として踏襲していますし、宮の位置を変えたわけでもありません。
ですから、相変わらず坐北朝南が続いていたように錯覚してしまいます。
実際、北魏ルオヤンを北闕型としている資料が大半です。
しかし、新たに築かれた外城は北側にも拡張しているのです。
外城の範囲内を城域と見れば、宮は北辺にあるとは言えません。中心よりやや北、という程度の位置です。これを北闕型と分類してよいものでしょうか?
天子は北にいて動かずに統治をする――というのが北方遊牧民由来の宗教観から出た政治のあり方だとしたら、外城の拡張とともに宮も北辺へ移動させてなくてはおかしいでしょう。北魏はその名の通り、華北を統一した、つまりは北方系の朝廷なのですから。
北魏ルオヤンが外城の北辺に宮を置かなかった事実は、坐北朝南の理由を宗教に求めた従来の説に疑義を抱かせます。
(4) 外城の外にも都大路がある
図 5.4.4.5を見ると、南の外城ラインの、さらに外側に市を中心とした拡張領域があることに気づきます。
ま、そういうこともあるでしょう。作ってみたら想定外の対応が必要になる、なんてことは現代でもよくあることです。
しかし、魏晋時代の銅駱街をさらに延長した、いわゆる都市を二分割するメインストリートが外城の外でもまだ幅広の道を維持しているのですから、こりゃハテナです。
ばかげて幅広の道は、国家の威信を外国の使者に示すものである――って、外城より内側と外側の両方で威信を示す必要あります? 内側の宮の正面か、外側の南門の正面か、どっちかで十分じゃないですか? 外国の使者だって、どんだけ威信を示せば気が済むねん! てあきれませんかね。
祭祀を行うために、この道幅が必要だったのである――って、外城より外側で、祭祀をするんですか? そもそも祭祀をするために宮があるんじゃないんですか?
宮から外城まで約4kmですよ。1m間隔なら銅駱街に16万人が入れますよ。このスペースでまだ足りず、外城の外にまで幅広の道が必要だなんて、いったいどんな祭祀なんです?
それほど大規模な祭祀なら、北魏の時代ならもう文献史料が残っててしかるべきです。命令を記した木簡なり、なにかしらあるものでしょう。
ところが、
「幅広の道路は祭祀のためであった」
という説明のあと、いつどのような祭祀が大通りで行われていたか、その具体例を示した説明を筆者は見たことがありません(これは筆者が中国語が読めないからという可能性がありますが)。
日本の平安京において大嘗祭の標山引き回しが、のちの時代の祇園祭・山鋒行列へと変容していった……という言説は見ましたが、のちの時代じゃなくて奈良時代は平城京での具体例を示していただきたかった。平城京にも朱雀大路はあるんですよ?
奈良時代の基本史料である『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、大嘗祭に関する何らかの宗教儀式が平城京の朱雀大路で行われたという記述はありません。供物を運ぶ行列はおそらく朱雀大路を通ったでしょう。しかしそこで、通過以外の何かをしたという記録はないのです。
威信を示す説に戻れば、道路の道幅で威信を示すというのは、費用対効果としてリターンが低いように思えます。
普通に考えて、巨大な宮殿や巨大な神殿や巨大な門の方が、コスパ良く威信を示せると思います。なぜなら新王国時代エジプトも王朝時代フランスも古墳時代日本も江戸時代日本もそうしたからです。
道幅で威信を示すってアンタ。地味。地味すぎる。外国からの使者は、ちょっと感心して、それで終わりですよ。そんなの。
このように考えると、中国都城制における
「幅広の道で市区を東西に分ける。南北分割ではなく東西分割でなくてはならない」
には、もっと都市生活に根付いた切実な理由があったのではないかと思えます。
そのうえ西ユーラシアには見られないのですから、東ユーラシアならではの理由に他なりません。渋滞の緩和など、世界的に普遍に見られる理由ではないのでしょう。
■ 有名になりすぎた隋・唐時代のチャンアン(長安)
やってきました。平城京・平安京はもちろん、中国の周辺国がこぞって模倣した、中国都城制の頂点ことチャンアン(長安)です。さっそく見てみましょう。
図 5.4.4.6: 唐時代チャンアンのレイアウト
出典: File:Chang'an_of_Tang.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chang'an_of_Tang.jpg
Author : SY
License : Attribution-Share Alike 4.0 International
図 5.4.4.7: 唐時代チャンアンの推定復元図
出典: 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』1978年
それでは早速、要点を整理していきましょう。
(1) 左京と右京にそれぞれ市場がある
まず、左京と右京にそれぞれマーケットが存在しています。これは周礼に記された理想である、南朝北市(宮殿の北側に市場がある)には従っていません。周礼のこのルールは都城制を採用した多くの都市で無視されました。孔子さん草葉の陰で怒ってはるで、たぶん。
右京と左京、それぞれが市を持つということは、もはや右京と左京がそれぞれ独立した都市であり、ひとつの外郭の中にふたつの都市があるようなものです。
ときに、中国都城制はギリシア・ローマ型の都市と比較してこのように説明されることがあります。曰く、
「ギリシアやローマの都市は民主政治的なアゴラ(広場)を中心として設計された。一方で中国では封建社会的な王宮を中心にして設計された」
と。
しかしながら、古代ロンドンやトリアーなどのローマ人居留地がズンドコドンと作られたのは、帝政ローマに入って封建社会化してからのことです。そのようなローマの植民都市にはフォルム(広場)が必ず設けられましたが、当然に長官の政庁・軍事拠点も存在しました。植民都市なのですから、むしろ軍事拠点を中心にした都市設計でした。この点でローマの植民都市と中国都城制に違いはありません。
また、ローマにおけるフォルム(広場)は民主制ギリシアにおける政治や集会のためのパブリックスペースと同一ではありませんでした。
ローマ都市のフォルムは魚市場など、商目的が定まったマーケットスペースが主体だったのです。
中国都城制も左京・右京に方形のマーケットを用意していたのですから、この点でもローマの植民都市と中国都城制に違いはありません。
この、右京と左京にそれぞれに市場を設けるプランニングは平城京・平安京でも踏襲されました。
したがって、西洋は広場を中心とした放射型都市で、東洋は宮廷を中心とした方格設計都市として対比させる見方は、正しくありません。
都(政庁)と市場がセットになって、『都市』なのです。この点において、洋の東西に差異は無いのです。
広い中国は熱帯から寒帯まで5つの気候帯に分かれており、それぞれ、土地に適した生産物が異なります。また、金銀銅・鉄といった鉱物資源が均等に分布しておらず、産地が限られるのは西ユーラシアでも東ユーラシアでも同じです。
せまい日本でさえ、黒曜石や翡翠のために縄文時代から広い交易ルートが存在しました。
つまりは東ユーラシアの都市にとっても、交易のためのマーケットスペースは西ユーラシアと同程度に必要でした。これを軽視して都市計画がなされたわけがないのです。
周礼は「南朝北市」と説いていました。これは、古代から市場が都市を構成する二大要素の片方であったことの証拠です。
(2) 均整に分割された方格設計が実現している
図 5.4.4.7は推定復元図とはいえ、考古的発掘調査に基づくものです。
北魏ルオヤン(洛陽)でも方格設計の精度はかなりのレベルに達していましたが、随・唐チャンアンではさらに高みに至っています。
隋の時代になって、土木にかけられるリソースと測量技術が格段にレベルアップしたのでしょう。
(3) 朱雀大街は幅147m
メインストリートで市区を東西に分ける朱雀大街は、道幅が147mありました。
広い! 広すぎる! 驚異の50車線だオラァッ!
あたまおかしい。
しつこく繰り返しますが、朝廷の権威を知らしめるために、この道幅が必要だったのでしょうか? 140mの道幅になれば、ひかえおろう! ハハァーッ!ってなるのでしょうか? 雨が降れば幅140mの泥地と化す、この道路が? 権威を? 筆者にはそうは思えません。
むしろここまで必死になるからには、都市生活住民の生死に関わるほど重要な理由により
「必要があってこの道幅になりました」
であったと思えてなりません。
(4) 幅広の道路が宮を囲んでいる
道幅が広いのは朱雀大街だけではありません。
宮の中心線に連なる東西方向の道も朱雀大街並みの広さを備えていますが、それだけではなく宮の各辺(北辺を除く)に連なる道も、かなりの道幅を備えています。
これも、威信を示すためでしょうか? 中心線上の道だけでは足りない、宮の角も見せないと! ということでしょうか?
あるいは宮の隅櫓から遠くまで見通せるように、お見通しを通したのかもしれません。
しかしながら、その目的ならば、単に直線道であればよく、むやみと幅広にする必要はなかったはずです。
(5) 正方位をかたくなに守っている
地形に合わせてグリッドの方向を回転させていません。原則、正方位、すなわち東西南北をかたくなに守っています。これはチャンアンだけではなく、東漢(後漢)ルオヤンの時代からそうでした。
ローマ植民都市は方格設計を好みましたが、正方位を守ろうとする姿勢は強くありませんでした。これは、ウィトルウィウスやアルベルティの著書から察するに、風が強くて不快であるというヨーロッパならではの気候問題に起因したと思われます。
逆に考えると、古代中国の首都においては、風の強さはそこまで問題にはならなかったと考えられます。
現代の中国の風速をチラ見したところ、洛陽と西安(長安)の風速は以下の通り、さほど強風ではありませんでした。
洛陽
年平均風速 :8.4km/h
月次平均最大風速:10.4km/h
西安(長安)
年平均風速 :8.0km/h
月次平均最大風速:9.0km/h
これは日本の城下町の平均(年平均風速:9.5km/h 月次平均最大風速:11.4km/h)と変わらないか、それより少し弱いくらいです。
北京になりますと年平均風速が12.0km/h、月次平均最大風速が19.0km/hと、ヨーロッパ並みの強い風が吹いていました。しかしながら、この地が中国の首都になったのは元の時代より後です。
中国都城制で正方位がルールであったのはなぜでしょうか? ただ天子が北に坐して南面するだけでよければ、都市の向きに関係なく無理やりに北辺に宮を置いて南北大路を敷くことだって可能です。
都市が北に対して45度に傾いていたとすれば、中心南北道は対角を結ぶ線となり、城域の巨大な中国都城制では便利に機能したはずです。事実、近代の方格設計都市の中には、そういう対角線の道路を持つメガシティが少なくありません。
中国都城制がかたくなに正方位を守った理由はなぜか? この疑問も忘れないようにしましょう。
さて。
隋・唐の時代のチャンアンをもってして、中国都城制は完成を見たと言えます。しかし、なぜそうなっているのか? について疑問が大きく残る結果となりました。
疑問の解決はまだ先です。次からはチャンアン・チルドレンである、朝鮮半島そしてもちろん日本の都城を見ていきます。
日本の都城制を見るのは大変重要です。なぜなら筆者が読んで理解できる文献史料がたくさんあるからです(自分の都合だけかーい!)。
しかし、その前にここまでを軽くおさらいしておきましょう。
■ 中間まとめ・中国都城制の特徴
(1) 城域が広い
下図をご覧ください。
図 5.4.4.8: 方格設計都市の大きさ(古代~中世)
もう、バカみたいに広いのです。バカじゃなかろうか。自動車も自転車も無いのに。
なぜ、中国はローマ植民都市のように、高層建築に集住し、コンパクトシティを目指さなかったのでしょう。逆の言い方もできます。なぜ、ローマ植民都市はあらかじめ広大な城郭を作り、戸建てを選ばなかったのでしょう。
筆者は当初、ギリシアやイタリアなど南欧は大木の森が豊かな土地ではないから、木材不足から石造りの建築を選ぶしかなくなったのだと推測しました。そして、石材で広大な都市を作れる土木力のあった時代ではないため、狭い範囲に集住したのだと。
しかし、湿潤な気候の中国とて、莫大な人口を抱えていました。植物資源が燃料として消費されて急速に失われていたのは中国も同じです。ルオヤン(洛陽)もチャンアン(長安)も必要な物資を遠方に求めました。
隋は物資の運搬のために無茶な運河開削に取り組み、結果として短命王朝に終わったのです。
古代中国人が遠方から木材を調達できたのならば、古代ローマ人だって遠方の森林地域から木材を調達できたはず。クレモナなど北イタリアの都市は、アルプスの針葉樹が生い茂るスイスに近いのです。
それに中世ヨーロッパと言えば、童話の世界で誰もが知っているように、森のヨーロッパだったのですから。
ギリシアやローマはともかく、たとえばロンディニウムやウィンドボナ、トリアーなどは、石材より木材を使いたい土地だったはずです。
木材調達がそこまで難しくなかったとすれば、ローマ植民都市が石造りである理由を木材不足に求める筆者の考えは撤回しなくてはなりません。なんとなれば、古代においては重い銅鉱石をメソポタミアまで運んでいたのですから。それもスポークの無い、重くて悪路に弱い四輪荷車で。
一見すると条件は同じなのに、ローマ植民都市は石造り高層建築コンパクトシティへ進み、中国の都城は土壁・木造・戸建てを中心としたラージシティに進みました。
両者を別々の方向に向かわせた、その理由を考えなくてはなりません。
(2) 宮は北辺に存在し市区は東西に分割される
『周礼』では宮が中心に存在し、前後左右に伸びる大道で市区が四分割されることを理想としていました。
が、魏晋ルオヤンと隋・唐チャンアンは宮が北辺に置かれ、中心線上の南北縦貫道をもって市区を二分していました。唐はきわめて強大な国家となったため、中国文化圏においてチャンアンのスタイルは大都市のデフォルト設計になりました。
しかし、北魏ルオヤンがよく見ると外城の北辺に宮を置かなかったように、中国史全体で見ると、「坐北」は決して徹底されたルールではありませんでした(「南面」が徹底されているのは電灯がない時代ですから当たり前です。電気のない時代は太陽光を最大限に活用したい時代なのです)。
メインストリートで城郭を分割というのは、下ヌビアの城塞群で見られた特徴です。この下ヌビアの城塞群では、東西で分割するか南北で分割するかは定まっていません。
しかし魏晋ルオヤン~隋・唐チャンアンではいずれも東西分割でした。みなさんご存じの通り平城京・平安京も東西分割です。長岡京も東西分割ですし、難波京も大宰府も朱雀大路で東西に分割されていたことがわかっています。南北分割は無いのです。
これまた、ローマ植民都市には見られず中国都城制ならではの特徴です。したがって、なぜ中国はそうしたのか(なぜローマはそうしなかったのか)を考えなくてはなりません。
(3) メインストリートが広い
市区をメインストリートで東西に分割するのが中国都城制の特徴ですが、その分割線になるメインストリートの道幅が異常なほど広いのも特徴です。
中国都城制において最大の敷地面積を誇ったチャンアンにいたっては、朱雀大街の道幅が147mもありました。
統治者の権威を示すため、または祭祀を行うために幅広の道路が必要だったというのが通説です。
しかし筆者はこの通説に対してさまざまな疑問を抱かざるを得ません。
* 道幅が広いことは権威を知らしめる手段として有効なのか?
* 祭祀は通常、王宮内部で行われるものではないか? 仮に祭祀だとしたら、これほど大規模な敷地を必要とした祭祀の具体例が容易に見つからないのはなぜなのか
* 北方遊牧民族の宗教観によるものだとすれば、中国以上に北方遊牧民族の影響を受けたはずのインド・ヨーロッパ語圏で坐北南面が都市建設のルールになってないのはなぜなのか?それどころか当の北方民族である匈奴や突厥や高句麗の首都さえ坐北南面ルールが守られてるとは言えないではないか
以上の特徴を踏まえ、本項の最後では
「なぜそうなっているのか?」
の解決を試みます。
それでは満を持して、チャンアンの子孫たち、朝鮮そして日本の都城制へ進みましょう。