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[研究] フルヘッヘンド問題の整理と、杉田玄白の故意か過失かについての考察

※この記事は筆者のfanboxからの転載記事です。
https://mitimasu.fanbox.cc/posts/6205772

## 正しくは「ターヘル・アナトミアの'鼻'の項にフルヘッヘンドは出てこない」


世に広く知られた一行雑学に
「ターヘル・アナトミアにフルヘッヘンドは出てこない」
というのがあります。
私は『風雲児たち』で知りました。

画像引用元 : みなもと太郎『風雲児たち』 ワイド版12巻 P284

しかし、この一行雑学は実は不正確でした。正しく直すとこうです。
「ターヘル・アナトミアの'鼻'の項にフルヘッヘンドは出てこない」

つまり、他の部分には出てくる(と言っていい)のでした。

したがって一行知識として
「ターヘル・アナトミアにフルヘッヘンドは出てこない」
と思い込んでいた私は、ちょっと調べてみて混乱してしまいました。

自戒を込めて、この問題について整理をし、そのうえで自分の考察を述べたいと思います。

## あれ? verhevenheid、あるじゃん!

発端はツイッターのタイムラインでフルヘッヘンドが出てこない問題の話題を見かけたことでした。

昨年、鳥井裕美子『前野良沢』を読んだ私は自分の雑な読書メモを読み返し、
「フルヘッヘンドはないけど verhevene(フェルヘーヴェネまたはフルフェーヴェネ)はあるんだよね~」
と思い出し、
「ウェブで検索したら原著を全文検索できたり派生語とか発音とかわかるかな?」
と軽い気持ちで検索したのです。

はたして、あっさりと動詞形である verheffen が見つかり

verheffen - Wiktionary https://en.wiktionary.org/wiki/verheffen

発音も「フルヘッフェン」と聞こえるので、ずいぶんと気を良くしました。

日本では『ターヘル・アナトミア』と呼ばれた原著の『Ontleedkundige tafelen』もインターネットアーカイブで見つかりました。

Ontleedkundige tafelen https://archive.org/details/b22034043/page/n3/mode/2up

こちらは全文検索できます。

気を良くして「neus(オランダ語で'鼻')」を検索してみました。
ヒット数の多さから、たぶんこのP266が鼻の項だろうと思って読めねえくせに眺めると、なんとそこには'verhevenheid'なる語があったのでした。

え? verhevenheid? これ、フルヘッヘンドに読みが近くない???? え? え?

ちょっとびっくりして、日本語の情報が無いか verhevenheid を検索語にして調べてみると、次のページがヒットしました。

急いでます!解体新書のフルヘッヘンドの現代語訳と品詞分解を教えていただけませんか? - Quora https://jp.quora.com/%E6%80%A5%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%BE%E3%81%99-%E8%A7%A3%E4%BD%93%E6%96%B0%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E3%81%A8

それではこの単語が出てくる、体肢の中手に関する解説部分を、ドイツ語原文、オランダ語訳、漢訳、そして1986年に酒井恒名古屋大学教授が行った現代語訳の順に見てみよう。

もうね、ビックリしました。

『ターヘル・アナトミア』にフルヘッヘンド、出てくるんじゃん!って。

恥ずかしながら、もしかして過去の指摘、単に見落としていただけなんじゃないの? とさえ思ってしまったくらい。

さすがにそんなわけはなかったのですが。

また、ここでインターネットアーカイブのやつが1801年の本であることにも気づきました。

前野良沢らが翻訳作業をしたのは1771~1774ですから、彼らが読んでいたのはもっと古い版の『ターヘル・アナトミア』であったはずです。

そこに気が付いた私は良沢らが底本にしたバージョンの方を検索してたどりつきました。

慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション Digital Collections of Keio University Libraries https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/anatomia/dutch

全文検索はできません(たぶん)。しかたなく目視で探して(つらかった)、'鼻'の項を探しました。で、これ。


杉田玄白の言う通りならフルヘッヘンド(堆《うずたか》し)とあらねばならない箇所には'vooruitsteekend'(フォーアウトステーケンド ※カタカナ表記は鳥井裕美子『前野良沢』から)とあったのでした。

そして、そのあとの説明の部分に'verhevene'があり、玄白はこれと勘違いしたのでは?という指摘の通りです。

ことここにいたり、
「お……俺はフルヘッヘンド問題についてちゃんとわかっていなかった……」
と反省し、ちょっと調べてみることにしました。

余談ながら、'verhevenheid'はターヘルアナトミアの鼻以外の項目には出現しています。
先に挙げたQuoraの回答にもあった、P24.「手」の項。


したがって、ウィキペディア - 蘭学事始 が述べている

1982年に酒井シヅが『ターヘルアナトミア』を原典から翻訳すると、この単語はその中にないことが判明した。

は誤解を招く表現ではないかと思います。

今回、酒井シヅ氏の翻訳を近所の図書館で見つけられなかったので、その論旨を確認していませんが、玄白の述べた「フルヘッヘンド」が'verhevenheid'(フルヘッフンヘイド)ではないと考えるのは難しくないですか?

厳密に'verheffend'が存在しないという話なら「それはそう」です。

が、Quoraの回答で引用されている酒井恒氏も後述する岩崎克己氏も
、'verhevenheid'=フルヘッヘンドという前提で論を展開しております。

杉田玄白らが利用した単語帳は 300年前のオランダ語の発音をオランダ通詞がカタカナに直したものであって、そこにブレが生じるのはしかたがないことです。

現代でさえアニャーンはオニオンと書かれ、ヘンボゴーはハンバーガーと書かれているじゃないですか。

Ultimaがアルティマかウルティマかの戦争は決して終結しないのです(そうだろうか)

'verhevenheid'を「フルヘッヘンド」とは見なさないということではなく、「その中に」が「原典の鼻の項目の中に」の意味だということでしたら、誤解を招くもの書き方なので修正したほうがいいと思います。

どなたか、酒井シヅ氏が著書でどう述べられているかご存じでしたら、教えてくださいませんか?

## 最初の指摘がほぼ完璧で新たな研究の余地がない……岩崎克己『前野蘭化』(昭和13年)


一行知識に毒された私の認識を改めるには、そもそもからたどらなければなりません。

では、フルヘッヘンド問題に最初に疑義を挟んだのは誰で、どういう指摘だったのでしょう。

これは昭和13年の岩崎克己『前野蘭化』による疑義でした。

そして、この研究が最初にしてほぼ完璧であって、その後の研究もフルヘッヘンド問題に関しては基本的に岩崎克己の研究をなぞっているだけの感があります。

さいわい国会図書館デジタルの個人送信で閲覧できるので、フルヘッヘンド問題の箇所を引用してみましょう。

……が、その前に、検証すべき「蘭学事始」の原文の該当箇所を踏まえてください。

杉田玄白が苦労を思い出語りしてる部分です。

譬へば眉といふものは、目の上に生じたる毛なりと有るやうなる一句、
彷彿として長き日の春の一日には明らめられず、
日暮る迄考へ詰め、互ににらみ合て、僅一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬことにて有りしなり、
又或る日鼻の所にて、フルへツヘンドせしものなりとあるに至りしに、
此語わからず、是は如何なる事にてあるべきと考合しに、いかにもせんやうなし、
其頃ウオールデンブツク、〈釋辭書、〉といふものもなし、
ようやく長崎より良澤求め歸りし、簡略なる一小册ありしを見合たるに、
フルへツヘンドの釋註に、木の枝を斷ちたる迹、其迹フルへツヘンドをなし、
又庭を掃除すれば其塵土聚り、フルへツヘンドすといふ樣によみ出せり、
これは如何なる意味なるべしと、又例の如くこじつけ考へ合ふに、辨へ兼たり、
時に翁思ふに、本の枝を斷りたる跡癒れば堆くなり、又掃除して塵土あつまれば、これもうづたかくなるなり、
鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、フルへツヘンドは堆といふことなるべし、
然れば此語は堆と譯しては如何といひければ、各これを聞て、甚だ尤なり、堆と譯さば正當すべしと決定せり、
其時のうれしさは何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり、如㆑此事にて堆と譯語を定め

では、これを踏まえて『前野蘭化』をご覧ください。

引用元 : 岩崎克己 著『前野蘭化』,岩崎克己,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1257947

 長いので要点を箇条書きにします。


1. 翻訳当初は「眉とは目の上の毛」という簡単な文を訳すのにも一日以上かかったというが、青木昆陽の単語帳には眉(wijnbraauw)がある
  1-1. 単複数でスペルがちがうから迷ったにしても、関係がありそうだとは気づくものではないか?
2. 「鼻」の項で「フルヘッヘンド」を「堆し」に定めたというけれど、解体新書の「鼻」には「堆」の字が出てこない
  2-2. その部分に当てられている訳語は「隆起」である
3. 「フルヘッヘンド」に注目すると、該当箇所にある単語は'vooruitsteekend'である 
  3-1. 数行下に'verhevene'があり、杉田玄白はこれと混同したか
  3-2. しかしこの部分の訳文にも 「堆」は現れない
  3-3. 'verhevene'と混同したにせよ「フルヘッヘン」または「フルヘッフェン」と書くべきではなかったか
4. より大きな問題は、「鼻」よりもずっと前の章で'verhevenheid'がいくつか出現し翻訳済みである
  4-1. (※ ここから、岩崎克己氏は'verhevenheid'がフルヘッヘンドだという認識だとわかる)
  4-2. これら翻訳済みだった箇所では「突起」「隆起」「高起」といずれも「起」の字が当てられている
  4-3. すでに正しく翻訳済みなのに、「鼻」の項でうろたえるというのはおかしい
5. 『解体新書』に「堆」がまったく出てこないわけではない
  5-1. 「鼻」よりも後ろの「乳」の項には'verhevene'に「堆」を使っている
  5-2. だからといって、 彼らがそれまで'verhevene'を理解できていなかった証拠にはならない
6. 杉田玄白が翻訳会に参加したのは39歳のとき、『蘭学事始』を書いたのは83歳の時である
  6-1. 40年以上も過ぎて記憶もあいまいになっていたはずだから、間違うのはしかたない
  6-2. また、思い出は美化される。単に「苦労した」では伝わらないと考えた玄白が若干の創作を加えたのであろう

……というのが岩崎克己氏の論旨です。

斎藤信氏の論文
蘭語学者「前野良沢」-「日本におけるオランダ語発達史」の或る章 https://dl.ndl.go.jp/pid/1257947/1/122

や、前述の鳥井裕美子『前野良沢』を踏まえてみても、基本的には岩崎克己の研究以上の新事実が判明しているということはないようです。

もう、最初の研究が完璧すぎて研究の余地が残ってない、みたいな。

引用こそしませんでしたが、当時の蘭仏辞書(マーリン、ハルマ)も当たって、「木の枝を~」のくだりを確認しているので、新資料でも出てこない限り岩崎氏の推論以上のものが出てくるとは思えません。

私はこのエッセイの後ろで考察を述べてますが、結局のところ

「私は~ではなかろうかと思う」

以上のものではありません。

杉田玄白の記憶違いか、創作か、あるいはその両方か。

それを知るすべはなさそうです(岩崎氏は創作を濃厚と考えているようですが)。

ともあれ、広まってしまった「ターヘル・アナトミアにフルヘッヘンドは出てこない」という一行知識をアップデートするには箇条書きでもまだ長いですね。

せめて3行にまとめましょう。

* ターヘル・アナトミアの ** 鼻の項に ** フルヘッヘンドは出てこない
* ターヘル・アナトミアに verhevenheid はあるが解体新書で「堆し」とは訳されてない
* 玄白の記憶違いか創作かはわからない


## 岩崎克己『前野蘭化』の指摘へのエクストリーム擁護

さて、ここからが私の考察です。

基本的に、杉田玄白は創作しなかったという前提で擁護していきたいと思います。

1. 「眉とは目の上の毛」を訳すのに一日以上を要したというのは創作ではないか?

という、岩崎氏の指摘。フルヘッヘンド問題の前にこれをもってきたのは、杉田玄白が創作したという結論を強めるためのものでしょう。

しかし、はたして、これは創作を行った証拠になるでしょうか?

>"wynbraauwen"と"wijbraauw"とが単複数の相違に過ぎないことが彼に判ったか否かは別として、両者の意味に何等かの連絡がありそうだ位のことは、当然気付いたことと私は想像する。

とのことですが、私には"wynbraauwen"と"wijbraauw"くらい差があっては、まったく違う言葉だと認識するのも無理はないと思います。

「カイリキー」と「カイリュー」は一字ちがって大違いなのです。

文法もろくに知らない彼らに、その類推を要求するのは酷ってもんです。

また、江戸時代の読み会はそれぞれが分担を決めて行う、効率化のための仕組みでした。

翻訳会に参加した玄白は、それまでABCも知らない人間です。

中川淳庵の実力は定かではありませんが、せいぜいオランダ語のABC27文字を知っている程度だったと思われます。

だから、ある程度よめる前野良沢は自分の分担に専念し、杉田玄白と中川淳庵には簡単な課題として
「ここを訳してごらん」
と眉の部分を渡されたとは考えられないでしょうか?

しかし、先に出た単複数形のスペルのゆらぎはもちろん、青木昆陽の単語帳は筆記体で書かれていて、アルファベット順に並んでいるわけでもないのです。

初学者である玄白と順庵が調べて調べても見つけられず、ついに一日を溶かして
「互ににらみ合て、僅一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬ」
ことがあったとしても、学び始めのときには無理からぬと思います。

2. 「鼻」の項で「フルヘッヘンド」を「堆し」に定めたというけれど、解体新書の「鼻」には「堆」の字が出てこない

これは先に挙げた斎藤信氏の論文の指摘に私も賛同します。

解体新書を仕上げるにあたって訳語を推敲した結果、堆起が隆起に変更されたとしても不思議ではなく、玄白の記憶違いと断定はできません。

「堆《うずたか》しでOK!ヤンヤ、ヤンヤ」と盛り上がったことと、「やっぱり「隆起」に変更しましょう」になったことは矛盾しないのです。

玄白にとっては自分の推測が認められて採用されたので、強く記憶に残っていたことだったと思われます。

3. 「フルヘッヘンド」に注目すると、該当箇所にある単語は'vooruitsteekend'である

ここ、なぜか岩崎氏は'vooruitsteekend'とは何か?に深く触れていません。

大きな問題点なので後述します。

4. 「鼻」よりもずっと前の章で'verhevenheid'がいくつか出現し翻訳済みである

これはいささか、論が弱いと言わざるを得ません。

手探りであった彼らの読み会は当然に
「わかるところから訳していく」
であって、まずは全編にわたってわからないところの洗い出しを行ったはずだからです。

有名な轡十文字を付けたくだりです。

したがって、vooruitsteekend または verhevene に出くわしてうろたえたのも、「手」の項の暫定訳が完成する前の段階の話と考えられます。
すでに翻訳済みだからうろたえるのはおかしい、という論理は成り立ちません。

同じ論理で

5. 『解体新書』に「堆」がまったく出てこないわけではない
  5-1. 「鼻」よりも後ろの「乳」の項には'verhevene'に「堆」を使っている
  5-2. だからといって、 彼らがそれまで'verhevene'を理解できていなかった証拠にはならない

も、準備稿や完成品における順序は初期段階の翻訳作業の因果にはなりません。

6. 40年以上も過ぎて記憶もあいまいだし。単に「苦労した」では伝わらないと考えた玄白が若干の創作を加えた

『蘭学事始』は蘭学者仲間に初期の翻訳作業の大変さを伝えるために書いた、「後世に役立つと思って」書かれた文章のはずです。

すでに地位も名声もある杉田玄白が、しょうもない創作で自分を大きく見せようとするものでしょうか?

というか'vooruitsteekend'を'verhevenheid'に変えたのが創作だったとして、何の効果が?って話じゃないですか。

たしかにノンフィクションというジャンルが確立されていない時代です。

松尾芭蕉のように、読者の感動のために事実をねじまげて脚色するのが当たり前な界隈もある時代でした。

しかし、杉田玄白は文学者ではなく医学者・科学者です。
不正確な記録が後世に役立たないことは重々承知していたはずです。
なんとなれば、彼らが『ターヘルアナトミア』翻訳を決意した理由は、古来の医学書に書かれていたことが腑分けで見てみたらまったく確認できなかったからなのです。

松尾芭蕉にしても同行の曾良は脚色していない記録を残していたので、事実が重要だという考え自体は江戸時代にも存在していたはずです。

これらのことを考えると、翻訳作業のはじめのころには、たしかに
「眉といふものは、目の上に生じたる毛なりと有るやうなる一句、彷彿として長き日の春の一日には明らめられず」
だったのでしょうし、
「フルへツヘンドは堆といふことなるべし、然れば此語は堆と譯しては如何といひければ、各これを聞て、甚だ尤なり、堆と譯さば正當すべしと決定せり、其時のうれしさは何にたとへんかたもなく」
に創作は無いと思うのです。

そして、後進の蘭学者のために書いている文章ですから、実際に傍らに『ターヘルアナトミア』と『解体新書』をかたわらに置いて、記憶違いを起こさないように調べながら書いたのではないでしょうか?

しかし、そう思っても、事実が頑として立ちはだかります。

そう、該当箇所にフルヘッヘンドは無く、あるのは'vooruitsteekend'という事実

このために、どれだけ擁護しようとも杉田玄白の記憶違い、あるいは創作を考慮せざるをえなくなります。

## 'vooruitsteekend'を「フルヘッヘンド」としたのは記憶違いでも創作でもなく「配慮」だったのではないか?


さて、後述すると約束した大きな問題です。

'vooruitsteekend'(フォーアウトステーケンド)、この語はいったい何でしょうか?


Translate vooruitstekend from Dutch to English https://www.interglot.com/dictionary/nl/en/translate/vooruitstekend


どうもオランダ語としてもマイナーな単語らしく説明も簡素なものですが、意味は突き出る、突出するであって、'verhevenheid'とだいたい同じ意味のようです。

『ターヘルアナトミア』の「鼻」の箇所の原文は

Nasus, de Neus, is een dubbeld uigehold en midden in het aangezigt zigtbaar vooruitsteekend dee,

であり、直訳は

 ハナまたは鼻は二つの穴のあいた顔の中央にある目に見えて突出した部分

となり、おおむね解体新書の訳の通りです。

数行下に'verhevene'が存在し、玄白は記憶違いでこれと混同したというのが通説ですが、私は採用しません。

すでに述べた通り『蘭学事始』は後進の蘭学者たちのために書いたものであり、調べながら書いたと考えるからです。

しかもウィキペディアによれば ' 高弟の大槻玄沢に校訂させ ' たというのですから、ケアレスミスとは思えません。

したがって、玄白は間違ったわけでもなく、確信犯的にそれが正しいと信じて、'vooruitsteekend'(フォーアウトステーケンド)を'verhevenheid'(フルヘッヘンド……と玄白らは読んだ)に差し替えたと推理します。

なぜでしょうか。

なぜなら40年以上もの歳月が流れていたからです。

## 玄白は1801年版の『Ontleedkundige tafelen(ターヘル・アナトミア)』を入手していたのではないか

本エントリの最初の方で、インターネットアーカイブに収録されている『Ontleedkundige tafelen』(1801刊行)を閲覧して早とちりしてしまったことを述べました。

Ontleedkundige tafelen https://archive.org/details/b22034043/page/n3/mode/2up

この改訂版、約75年後に出たこともあり、医学は日進月歩ですから、もう別物ってくらい手が入っています。

なので、この版で'vooruitsteekend'を検索してもヒットしません。
その単語は使われなくなった
のです。

もともと、'vooruitsteekend'は玄白らが訳していた時代ですでに、古語のような扱いだったのではないでしょうか?

もしくはドイツ語から借用した方言的な単語であったか。

前野良沢ら翻訳チームは'verhevene'や派生語の'verhevenheid'なら難なく訳せたと仮定しましょう。

しかし『Ontleedkundige tafelen』(1734版)にあった'vooruitsteekend'はハテナ?と途方に暮れたのではないでしょうか。

そこでハルマやマーリンなど蘭仏辞書を調べに調べて、なんとか訳語を考えなければならなかったと。

オランダ語もちゃんとわからない人間が蘭仏辞書を引いてなにがわかるのか、私には想像もつかない難しさですが、ともかく彼らはそれをやってのけたわけです。

声(stem)と木の幹(stam)を取り違えるなど、多少の間違いを犯しつつも、結果的には'vooruitsteekend'を「堆し」とする、まあまあいい線をいってる訳に到達したわけです。結果オーライ。

さて、それから44年後。杉田玄白は当時のことを記録に残そうと『蘭学事始』の執筆を開始しました。

1814年です。

ですからこのとき玄白の手元には1801年に出た改訂版の『Ontleedkundige tafelen』があったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

もう、最新の蘭書が数年のうちに輸入される時代になっていましたから。

そして、この改訂版からは'vooruitsteekend'が消えていた。

それを説明したっていいけれど、今から学ぶ人たちに入手困難な古書にしか載ってない'vooruitsteekend'のことで煩わせるのもいかがなものか。

プログラミング言語の解説本だって、言語の仕様変更に合わせて古くなったコードを治した改訂版を出すじゃないですか。

実用書に使われなくなった情報を載せてもしょうがないですから。

そして『蘭学事始』は後進のために記した、なかば実用目的の記録なのです。


あるいは玄白は本当はフォーアウトステーケンドと書いていたのだけど、校訂した大槻玄沢から最新の『Ontleedkundige tafelen』に載ってない語であることを指摘され、
「んじゃ、意味は同じなんだしフルヘッヘンドに直してええよ~」
としてしまったか。

そんなあたりが、この混乱の真相なんじゃないかな……と思うのです。


もひとつ可能性があります。

現存する玄白自筆の原稿本は火災で焼失したと伝わります。

幕末に見つかった大槻家の写本が現在伝わってる『蘭学事始』なわけです。

可能性としては、玄白は本当はフォーアウトステーケンドと書いたけど、写本した大槻家の作業者がやらんでいい気を利かせて、最新の『Ontleedkundige tafelen』に合わせて勝手にフルヘッヘンドに直してしまった……というパターンもあるのかもしれません。


……という、結局のところ、いずれも妄想の域を出ない考察語りでした。

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過去の論文などぜんぶ見たわけじゃないので、
「おめーの考察なんかとっくに既出だよー」
ってこともあるかもしれません。

もしそうだったら
「ごめーんね」
です。

よろしこ。

追記 : 杉田玄白にまったく記憶のまちがいと脚色が無かったかといえば、それはあったと思います。
『蘭学事始』の中で前野良沢が買い求めた本――木の枝を切れば癒された部分がフルヘッヘンドが載っている――はマーリンの辞書であり、とても小冊子とは言えないという岩崎氏の指摘は、全くその通りです。

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