朝鮮王朝実録 総序(19)太祖 李成桂15
王を擁立した直後から曺敏修一派と李成桂一派の対立が始まり、曺敏修一派を排除し、曺敏修の後ろ盾になっている昌王を廃し、遠い王族を傀儡にするくだり。
請親朝使の尹承順が、京師*1から戻ってきた時、礼部*2は聖旨を奉じ、都評議使司に聖旨を送った。異姓を王氏の後にしたことを責め*3、親朝を許さなかった。このことから太祖と判三司事の沈德符、贊成事の池湧奇、鄭夢周、政堂文學の偰長壽、評理の成石璘、知門下府事の趙浚、判慈德府事の朴葳、密直副使の鄭道傳は興國寺であい、兵衛に大いにのべる。相談は「禑と昌は本来王氏ではないので、国祀を奉ってはいけない、また天子の命令があり、偽王を廃して本物を立てなければならない。定昌君の王瑤は、神王*4の七世孫で、最近一族に属したが、これを王に立てよう」
恭愍王定妃の宮殿に詣でて妃教を奉り、禑を江陵に送り、昌を江華に放ち、王を廃し庶人にした。瑤を迎えて王に立た。これを恭讓王と言う。
*1 京師は明の都(南京応天府)
*2 明の礼部
*3 禑王と昌王は怪僧辛旽の子とされているので、姓は王氏ではなく辛氏になっている。国王の姓が改まることは中華的には国が変わる事を意味しているので王を名乗るのを許されない。のちに李成桂も高麗王に即位するが、明は国王と認めず国名を改める必要に迫られた。
*4 第20代高麗王神宗
※ 王廃立に伝統ある告げ口外交を利用したのである。
太祖は臨江の華藏山で狩りをし、鹿を追うと絶壁にきた。高さ数十尺あり、その傾斜は鋭く、人は降りられなかった。鹿は下に滑ると太祖は馬をむちして、また打って滑りおり底までいくと馬は跪き起きあがらなかった。すかさず太祖は鹿を射て、これを倒した。
※ このエピソードは帰りを考えていない
太祖が咸州いるとき大きな牛が二頭争っていたが、誰もこれを止める事ができなかった。あるものが服をぬぎ、あるものが火をつけそこに投げこんだが、それでもおやめさせられなかった。太祖は両手で二頭の牛を掴まえ、牛の争いをやめさせた。
※ 怪力エピソードは初出。唐突にこの手のエピソードが挟み込まれるのは、なろう系で、ネタ切れしたときに無意味に卵かけご飯を作り始めたり、味噌を作り始めたり、山小屋を始めたりするのに非常に似ている。
太祖が通川の叢石亭を見に行いったとき安邊の鶴浦橋で寝ていると、馬がつまずき落ちた。すぐさま太祖は降り立ち両手で馬の耳とたてがみを掴むと馬は宙空に浮き最後まで離ささなかった。人に命じ、御刀を抜かせ鞍具を断ち切り後ろに捨てた。馬は沈んだが、また浮遊して出てきた。
※ 怪力エピソードはこの二編のみ。
恭讓王は太祖を侍中に命じたが、太祖がこれを譲ったので、侍中の沈德符は侍中のままでいた。
※ この間に、左侍中、右侍中から門下侍中、守門下侍中に制度が改められており(高麗史より)、このとき、李成桂は守門下侍中だった。
十二月、司宰副令尹會宗は禑、昌を誅することを願い上疏したので、恭讓王は宰相たちにそれぞれ聞いたが、だれも黙ったままだった。
太祖がただひとり「そのことは簡単ではありません。既に江陵に配流しており、朝廷で変が起きるとは聞いていません。臣たちがいれば、禑は乱を起こすことができません。何を憂うのでしょうか?」
恭讓王は言った。「禑は多くの無辜のもの殺した。それが自らの身に及ぶのだ」そしてこれを誅した。
恭讓王がくだした教を略して記すと
「恭愍王は不幸にも子がなく薨去し、李仁任は全ての政治権力を欲し辛禑を王氏と詐称して国主にした。禑の手に負えない非道さは遼陽を侵犯しようとしていた。侍中の李成桂らは社稷のために大計をはかり衆を諭して軍を返し王氏を立てる相談をした。曺敏修の仁任の党は衆議を止め禑の子の昌を立てたので王氏は十六年のあいだ祭祀が途絶えた。李成桂は忠を奮い義をとなえ、そして沈德符、鄭夢周らと策をきめ、天子に上奏し命を明らかにし宗親の老人、文武臣僚に及んではかり恭愍王の定妃の命を奉り、禑、昌父子を廃した、そのため余と王氏には親に近しく祖宗の統を俾承し、ただ余の寡德で未だ負荷に耐えきれない。李成桂は正しく名を復興し王室を再建した。その功は、実に太祖開国功臣の下ではない。何があっても忘れらがたく、壁上に形をしるし、父母妻は爵に封じ、子孫を十世に渡って蔭職*5させよう。」
*5 高位官僚の子を成人とともに(科挙を経ずに)職位を与えること
恭讓王は、孝思観*6に告げ、九人の功臣に錄券*7をあたえた。太祖は奮忠定難匡復燮理佐命功臣*8として、和寧君の開国忠義伯、食邑一千戸、食実封三百戸、 田二百結、奴婢二十口に爵された。その錄券は、建国の功臣裵玄慶の例により、中興功臣と称し、父母妻も爵に封じた。子孫の蔭職は、直系の子は三等*9をくわえ、直系の子で無い場合、甥、姪、女壻には二等をくわえた。子孫の政案*10は、全て中興功臣なにがしの何世孫と呼ばれ、それは永代許される。初めて出仕したとき 丘史*11に七名、真拝把領*12に十名を与えることを許した。
*6 祭祀を行う役所
*7 功臣の名前を記した書面
*8 この号は、長さに意味があり意味は特に無い。号が十二文字(功臣を含む)と言う点のみに意味がある。明太祖洪武帝が二十三文字(皇帝を含む)、高麗の太祖が十八文字、恭愍王が十四文字(大王を含む)なのでかなり破格である。
*9 最初の官位を三品加えると言う意味らしい
*10 人事記録
*11 功臣に下賜された官奴婢(国有の奴隷)
*12 功臣に与えられる従者。奴婢らしい
※ 奴隷制国家らしいところが垣間見える
恭讓王二(1390)年庚午の正月。 恭讓王は経筵官を置き、太祖を領経筵事にした。また領八道軍馬を命じ、軍営を置き、番を分け宿を交代させ、俸禄を軍資として与えた。
三月、太祖は病を理由に職を辞した。
※ なお官を辞しただけで、官僚自体はやめてはいない。
四月、恭讓王は病を問う中使を送り無理に起こし、九功臣の教書を褒美としあたえ、廐馬を一頭、白金五十両、帛・絹をそれぞれ五反、金帯を一腰あたえ、さらに内殿で宴を慰んだ。
太祖が賜ったその教にはこのように書かれていた。
「嗚呼、非常の変を除けば、必ず世の才に命じて待たせる。万世の功を立てる者は、必ず限りない報を振る舞う。昔、私が太師(裵玄慶)は太祖(王建)を助け三韓(新羅・後百済・高麗)を一つにまとめ、ともに太室(宗廟の祭室)をうけいれ、式は今より五百年経つ。
往年、李仁任が玄陵(恭愍王)を王宮で誤って導き、宰相の地位を取り、怨みを上に帰し、甲寅の変*13を引き起こしたが後嗣はいない。
李仁任の用いた、呂不韋の盗秦の計*14を用い玄陵(恭愍王)に妖僧辛旽を送り禑なる子を産ませた玄陵の宮人から産まれたと詐称し、これを王に立てた。玄陵の母后はこれを良いと思わず宰相の李壽山に宗親*15を立てるように願ったが、 李仁任は従わなかった。国の人は失望し、黄色い霧が四方を塞ぎ、日の光が現れなかった。禑が喪主をおこない玄陵に葬られ、虹が太陽を囲い、その国主の烝祭は、太室に悪い音をたて、雷を奮い、地を震るわせた。その玄陵のものいみを考えると毅陵(恭愍王の父忠粛王)はこれを忌み嫌っただろう。大風により雨、雷そして雹を降らせた。その王位を継ぐとき、風は桃廟(祠堂)寝園(王墓)の松、栢を抜き、太室は鷲*16を折り廟門はたおれ、御倉は災いがおきた。
この祖廟の霊は、威を動かして禑を拒んだのだ。禑の母般若の口をふさぐために処刑したので司平新門はみずからくずれた。朽ち果てた禑の母を葬ると、柩小屋は一日また災いがおき、これは天が万歳をもって、禑が般若の子であると示したのだ。禑が立って二年、その母の氏名は未だにきまっておらず、宰相の金續命は言った『国中に、その父を弁ずるものがいたかもしれないが、 その母を弁ずるものは私は未だに聞いたことが無い』そのため何度も殺されそうになったが玄陵母后が力一杯救い、死ぬことをのがれた。金庾は皇帝に禑が王氏ではないと言って殺されたので、国の人は心を寒くし(恐怖を覚え)舌を結んだ(口を閉ざした)。禑の妻は李仁任の姪で昌を産んだ。これで王氏を興復する希望は絶えた。李仁任は国を専横し、人々に十五年の苦痛をあたえ、禑はとち狂い遼東を責めようとし、三韓百万の人々を挑発し、国を乱した。
卿は、曺敏修を副として鴨江を過ぎて行軍し、諸将に社稷存亡の計を諭して、軍を返した。ここで卿が肉をたたねば、我が民は骨になっていただろう。*17
社稷を荒れ果てさせないためには卿しか頼れない。卿は勇敢に三軍を冠し、位は両府に崇し、功名はほしいままに世にあり誇らない。《綱目》、《衍義》*18を好んで読み、留侯、絳侯、武侯、梁公*19の忠に感じていて、そのため軍を戻すとき、議をまた起こし曺敏修を説得した。 しかし戻ったときは李仁任一族の党、李琳、沮卿が昌を立てようと相談して、自らを、冢宰にしたので、王氏の復興の一大機会を失った。
卿は隠れ忍んで職について公義を開いて曺敏修を諭し、ここに極まり、台諫を選び綱紀を振るった。そこで憲司は婪撓の法をもって曺敏修に弾劾し、之を排撃した。卿は坐して日が昇るの待ち、渇いたように賢者を求め、疾悪にむくいようとした。およそ民は一毫の利を必ず欲しがるが、一髮の害からは逃げようとする。路を開いて言い、下の情に達っすると、逸民*20を挙げ、公道に布き、向う者は苞苴を風の様に奔競い、鬻官*21貨獄*22の習を一朝にして変え、野に残った賢者はなく、朝廷に佞臣なく、授鉞*23を遣使し、黜陟*24を観察したので、藩鎭*25は寇(賊)をやしなわなくなり、牧守*26は民をわざわいしなくなった。群小の邪説の排除し、私田を諸道に改革し、湯火にあたり民を助けるは、富寿の域に躋る。采田の制に圭田を用い、仕者の田に京甸*27を給う。君子に優しく、守衛に厳しく、爵するに私なくし、罰するに怒らず。
卿の誠心は光明正大で晴天白日の様で、愚夫愚婦の共の初見では、その所営が無ければ、王氏の地は復興することがなかっただろう。
己巳の冬、昌のところは尹承順を親朝を請うために派遣し、礼部の欽奉聖旨*28の咨文*29をもたらしてきた。それによれば
『高麗の君主は後嗣が途絶えており姓の異なるものが王氏を騙っているが三韓世守(半島の主)として良い考えではない。賢・智の陪臣が位にいたとすれば君臣の分をわきまえて、たとえ数十世来朝していないとしても、また何をうれいて、また連年、来朝してなにを厭うているのだ?小僧は都に来る必要はない。』
この聖天子は念じ、玄陵が四海の未だ定まらない時をあて、先んじて臣を称して率い、天下に使い、天命を知れることをがあることを知らしめた。功は運に助けられることも大きいにあり、ゆえにその絶祀をうれいていていたので、王氏の復興の望みは臣子に切実だった。昌の外祖父李琳の冢宰は、聖旨を隠そうとしたが不発におわり、おそれは不測だった。
辛氏の変は、朝ではなく夕になり、王氏はすでに鼎中の魚*30で、存亡は呼吸にかかっていた。卿は万死を省みず、みずから大義をとり、我が王氏のために、万世の策を定め、沈德符、鄭夢周、池湧奇、偰長壽、成石璘、趙浚、朴葳、鄭道傳の八将をともにを従え、これに参じた。
十一月十五日、玄陵(恭愍王)の定妃之庭で天子の宣旨を読み、余を宗邸に迎え、玄陵の後を助け、一人も処刑せず、朝廷を敬わない十六年に渡る辛氏の南面(王)を除き、その親族縁戚の一党は三韓で盤石な結束をしていたが、肝を破り見回し、改革に面向してしたがい、敢えて動かず、人は色変えず、日は陽春の様だった。
上は三十一代の相続の順序をとりもち、下は千万億世の無疆の休を与えた。卿の復興の功は、絳侯(周勃)*31ではなく五王*32になぞらえるべきだ。
卿の世は忠義に積もり、王室に心を尽くし、徳は厚く流光を卿身は発している。
文武を共に重んじる王佐の才で、国の為に家を忘れる社稷の臣だ。
天地と祖宗に篤生き、三韓の安否に注意する。
玄陵で知り合って、紅賊(紅巾賊)を滅ぼし、両京(開城と平壌)を取り返し、孼僧(辛旽)を驅けさせ、王氏を安んじ納氏を奔らせ、砂漠に威し、倭寇を敗り、西海(黄海)を保ち、引月で撃ち、扶桑*33を懾し、卿は玄陵の知遇感じ、宗廟の絶祀に痛み、虞淵(日の没するところ)で取日を誓い、誠徹は天地まで至り、忠通は祖宗に至る。
至公至正をもって三韓の心を服し、 至仁至恩をもって万姓の歓を結び、 天祐に大いに順い、人助を大いに信んじたので復興はこのように容易く行われた。
卿はこれをもって、玄陵の知を信報するだろう。
昔、周公は功に勲じ、俾侯を東に于いた。*34
余は卿の忠をほめたたえ、世封を分けて封じ、形を図し功を銘ず、胤(子孫)あれば窮無し
余は元の子を率いて、閟宮*35で告げる。
ああ、卿は我が兆民を活かし、我に宗祀をつないだ。
我が三韓の再建の功をもって粗末なこと褒めとする、何をもって万一に報えるか?
卿は、中興の元臣、名は裵太師(裵玄慶)にひとしく、重ねて言えば商の阿衡(伊尹)*36だ。
経を立て紀をのべ、万世ほどのために、才能のすぐれた男子を広くもとめ、我が朝廷を重んじ、 余の涼徳を弼け、我が社稷を保ち、天と限りなく萬斯年におおい、烝嘗*37を享受する、すなわち余は涼徳と有光をえたことになる。
卿の子孫が卿の忠良をかたちどり、永世忘れず我が後嗣の王の股肱になり、国とみな幸いにし、よからぬことを省みないだろう。」
また、回軍の功を記録して褒奬に教を送り、田一百結を与えた。
*13 甲寅の変 恭愍王二十三年に王が暗殺された事件
*14 呂不韋が秦の王子嬴子楚(のちの荘襄王)の妃に自分の愛人(始皇帝の母親)を与えた逸話より(史記)
*15 王室の親族
*16 韓国語訳は、茂みとしている
*17 肉と骨が対句になっていると思われるが、肉の意味が不明。(是卿肉吾民於旣骨也)
*18《綱目》 趙師淵の《資治通鑑綱目》と 《衍義》 眞德秀の《大學衍義》、どちらも朱子学の教本。
*19 留侯……漢太祖(劉邦)の軍師張良 絳侯……漢太祖の部下周勃 武侯……諸葛亮、梁公……唐代の政治家狄仁傑 いずれも忠臣として知られる
*20 逸民……官僚になっていない優れた人材
*21 鬻官……官職を売り買いすること。売官
*22 貨獄……獄卒に賄賂を渡し、刑に手心を加えさせること
*23 兵権を与えること
*24 官位の上げ下げ
*25 藩鎭……地方の軍閥
*26 地方長官
*27 京甸……都周辺の土地
*28 欽奉聖旨……天子(宗主国の皇帝)の考えを奉じた文
*29 咨文……公文書
*30 鼎中の魚……まな板の上の鯛
*31 前漢、周勃が漢太祖亡き後国政を壟断していた呂后の一族を排除したことを差す
*32 五王……則天武后(武周)から唐(李唐)を取り戻した張柬之、崔玄暐、桓彥範、袁恕己、敬晖の五人を指す
*33 扶桑……日本のこと 擊引月而懾扶桑と誓取日於虞淵が対になっているので扶桑を用いたのだろう。
*34 箕子朝鮮のこと
*35 閟宮……霊廟
*36 阿衡……商(殷)初期の政治家伊尹を差す
*37 烝嘗……秋祭の嘗と呼び、冬の祭を烝と呼ぶ。
※ 対句が多いので訳が難しいのだが、代筆が知識マウントしているだけである。ここから先、知識マウントばかりになる。次は当然、沈德符一派と李成桂一派の対立が始まるのである。
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