朝鮮王朝実録 総序(11)太祖 李成桂7
原文と訳と注を併せるとラノベ一冊分あった。倭寇に関する部分はその中でも1/10をしめている(長いので分割した)。それはともかく、高麗末期は倭寇が大量に現れており、特に多いのが禑王時代である。記録されている分だけでも月一回のペースで現れている。その大半は軍が出る前に逃げてしまうのでまともな戦果が得られていない。この時代を調べた限りで倭寇討伐の最大戦果は首級48。一人捕まえただけでも戦果になった様だ。そうすると上陸して内陸で長期間行動しているのは倭寇を模した別の物ではないかと考えられる。一つの可能性としては済州島住民が居る。元の支配が弱まり海賊化した住民も居たが、1374年に高麗が済州島にすむモンゴル系住民の虐殺をしており、それに対する報復を起こした可能性も考えられる。もう一つは、中国系の流民、紅巾賊やその残党で、明が成立した後も国土はしばらく安定していなかったので、その時代に海賊行為を行ったものが居たとしてもおかしくない(明の海禁政策と後期倭寇につながる)。そして咸鏡北道、沿海州などに住む東女真の住民。このあたりの住民は10-11世紀頃にも海賊行為をしていて1019年に日本を荒らした事があり、日本では刀伊の入寇と呼ばれている。最後に、高麗人自身の反乱。紊乱な政治により収奪が繰り返されていた上に旱魃や水害が続いて農民が困窮していたのだ。また禾尺・才人と呼ばれていた被差別階級(李氏朝鮮では白丁と呼ばれる)が倭寇を詐称して乱を起こした記録が多数でてくる。実は、これが一番多かったのではないかと思われる。徳が無いとそしられたくないために高麗の庶民の反乱を認めず倭寇と曲筆した可能性が考えられる。
例えば、太祖実録3巻、太祖2年3月29日には「西北面都巡問使趙溫擊倭寇于隨州, 獲寧海州人李唐信以獻。」とありこの倭寇が、慶尚道寧海州に住む李唐信と言う名前の朝鮮人であることを立証している。
ちなみに日本から遠征していた倭寇は壱岐・対馬・松浦の三島が本拠地とされていたので三島倭寇と呼ばれることがある。それはともかく、14世紀末から15世紀初頭の倭寇は、飢餓が原因で海賊化していることが多いようで政権が安定し交易が行われ飢えることが無くなると自然消滅した様である。
辛禑元(1375)年乙卯 (明 洪武八年)九月、倭*1の船が徳積島*2、紫燕島*3の二島に沢山集積した。禑王は、諸道の兵を徴兵し、太祖と判三司事崔瑩をもってこれに当たらせた。軍威をみせつつ東江と西江に備えた。
*1 この倭は、済州島のモンゴル系住民の可能性が高い。海から来れば全部倭。高麗史には「時將卒悉赴北征」とあり、高麗軍の留守を知った上で行動している。
*2 京畿道仁川市德積島
*3 京畿道仁川市永宗島 仁川国際空港の下
*4 崔瑩 高麗末の武臣。名将とされる。本稿では、李成桂の手柄を立てさせさせるための噛ませ役。
十月、太祖は狩りに出て、虎を射て献上した、禑王は衣をあたえ、諭して言うには「悪い獣を得ることができたが、また危ないことに手を出すのは今後は慎むように」
※ ソウル辺りも虎が出るのは19世紀末のイザベラ・バードの朝鮮紀行にも記述されている。ただ李朝末期にもなると虎は絶滅しかけており出るのは豹だったようである。
桓祖が亡くなった時、李天桂は自分が嫡子だったために、心中、太祖を忌んでいた。太祖の奴婢が良民を訴えることがあり、李天桂とその妹康祐の妻は共謀し、結託し良民を訴え、乱を作ろうとしたが果たせなかった。太祖は意に介さず、今までの様に接した。
丙辰の夏になり、天桂の管轄する下人を仲立ちし妻を奪うことがあり、李天桂は怒り殴り殺したので投獄された。李天桂は、かつて宰相を事(権勢)を用いて侮辱した事があり、宰相は以前から恨んでおり殺そうとした。太祖は除命を願ったが助けることが出来ず、とてもこれを悼んだ。孤児達を大切にそだて、おおよそ婚嫁などをみな自ら執り行った。康祐の妻の家は貧しく太祖は哀れに思い、沢山の奴婢をあたえ、その生活を十分にした。建国の後、天桂の子は皆、高い位を貰った。天桂とは咬住の事である。
※ 儒教に則っていると言うエピソード
辛禑(1377)三年丁巳の三月に、倭が江華府を寇し京城(開城)は大いに震えた。太祖と義昌君黃裳ら十一元帥をもって、西江に軍威をしめした。
※ 高麗史「以崔瑩爲六道都統使,三司左使李希泌爲東江都元帥,睦仁吉、林堅味等十一人副之,受守城都統使慶復興節度。義昌君黃裳爲西江都元帥,我太祖與楊伯淵、邊安烈等十人副之,受京畿都統使李仁任節度。」
崔瑩が統率し、東江と西江に軍を展開し、西江の元帥は義昌君黃裳で、李成桂は副官の一人にすぎないので、崔瑩達の記述を消すことで李成桂の功績を強調しているのである。とくに崔瑩は今回の噛ませ役なので活躍していたとは書けない。この倭寇は五月頃に再び現れるようである。
五月、慶尚道元帥の禹仁烈から飛報が来た。
「見回り兵が『倭賊が対馬から海を覆って来ている。帆柱が沢山見える』と言っている。元帥を援軍として派遣して欲しい」
その時、倭賊は満ちあふれるように居たので、太祖に討伐にいくよう命じた。太祖が到着する前は、人心は恐慌していた。仁烈の飛報が続けて来ると、太祖は日夜移動し、賊と戦うために智異山*5の下に行った。
互いに二百歩ほど距離が離れると、一人の賊に身を伏せて背後に立つものがいた。手でその尻を掴み、おそれをしらず侮辱し挑発した。太祖は、片箭*6を射て、一矢で斃した。
そのため、賊は驚き、気を奪われおそれたので、大いにこれを破った。
賊どもは狼狽し、絶壁の崖に臨んだ山に登り、武器をならべ槊をハリネズミの様に構えたので、官軍は登れなかった。
太祖は、裨将を率いて賊を攻めるために使わすと裨将は報告した。急峻で高いので、馬は上に登れなかった、と。
太祖はこれをしかり、また、上王(定宗)*7を使わし、旗下の勇士を分け、連れ立って向かった。
上王(定宗)が報告したのは、またもや裨將と同じ言葉だった。
太祖は言う「ならば、私が行くところを見るがよい」
その時、麾下の兵卒に請われて言うには「私が馬が先に登ろう。そうすればおまえらも当然後から付いてこれる」
そう言うと、馬に鞭打ち駆けると、その地勢を見てから、剣を抜き刃を用いて馬の背を打った。
その時、日の光が当たり、剣の光が雷の様にみえた。馬を一跳躍して登ると、軍士は(馬を)押し上げたり、すがりついたりして後に従っていった。
そして奮戦し、これを撃破すると賊は崖から落ちて大半が死に残った賊も殲滅された。
太祖はすっかり人心を得て、また士卒も精鋭で戦に遅れを取ることもなく、州郡はいかにも雲霓*8を見るようだった。
*5 智異山は、全羅道と慶尚道の奥にある山。近代・現代でも農民やパルチザンが軍に対抗するのに立て篭もる要害の地。恐らくこれも農民反乱なのだろう。
*6 短い矢
*7 上王 太祖実録が李芳遠(太宗)時代に編纂されたので李成桂の次男の李芳果(定宗)を差す。
*8 旱魃時に雨の兆候として現れる雲と虹
※ この時、李成桂は智異山に居たが、大規模な倭寇が江華の方に出現していた。遷都を考たと高麗史に記載されているぐらいなのでかなり大規模だったと考えられる。みやこの非常時に李成桂は地方の雑魚狩りに借り出されていたわけで、五月の江華の倭寇の記述はここに書けないのである。
八月、倭が西海道*9の信州、文化、安岳、鳳州を寇した。元帥賛成の梁伯益、判開城府事の羅世、知門下の朴普老、都巡問使の沈德符らは負け続け、援軍を送るように頼んだ。禑王は太祖と門下評理の林堅味、邊安烈、密直副使の柳蔓殊、洪徵を援軍にだした。
元帥の安烈は、堅味らと海州において戦い、全滅して逃げた。太祖の戦うとき、兜鍪を百数十步先に置いて、試しうちをすることで勝敗を占うと、三発すべて貫通したので言った。
「今日の事を知るべし」
海州の東の亭子において戦った。戦のたけなわに、ぬかるみが一丈あまりあった。太祖は馬を一躍させて通り過ぎたので従者はみな腰を抜かした。
太祖は大羽箭*10で賊を十七人を射て、全部撃ち殺した、兵をしたがえ(勢いに)乗り、大いに破った。
この戦で、太祖は、初めて大羽箭二十矢を使った。戦の後、三つの矢が残った。
左右の人に言うには「私は、全て左眼を射た」左右の人はこれを成し遂げているのをすべて確かめた。
残った賊が嶮しい場所により柴を積んで防御を固めた。太祖は馬から下り、胡床に腰掛け、楽を張り、僧神照は肉を割り、酒を勧め、士卒には柴を焚く様に命じ、煙と炎は天を覆った。
賊たちは窮して出てきて、死力を尽くして衝突し矢が座前の瓶に当たったが、太祖は、安らかに座ったままで立ち上がらず、金思訓、魯玄受、李萬中らに命じて、これをいくども殲滅した。その時、倭賊は国人を捕らえると、必ず「李成桂万戸は、今どこに居るのか?」と聞いた。敢えて太祖の軍には近づかず、必ず合間を伺い入寇した。
*9 西海道……今の黄海道 仁川の北 倭寇と称されているものがこの辺をずっと暴れ回っていた。済州島を基盤としていた可能性が高い。済州島はもともと元の領土で、1374年に高麗による大虐殺が行われている。
*10 大きな羽を付けた矢
※ 僧侶が肉食するので、李成桂が信じていたのはチベット仏教なのかも
禹仁烈がかつて邸舍で謁見したとき、太祖は西庁に対して座り遮陽を見ると、ネズミ三匹が、楣にそって走っていたので、太祖は童を呼び、弓と高刀里矢を三本とって様子をみてると一匹のネズミが楣に引き返してきたので、太祖は「これに当てても傷付けないだろう」と言い、これを射ると、ネズミと矢が一緒に落ちてきて、そして死なずに走っていき、残りの二匹も同様にした。
辛禑四(1378)年戊午四月、倭船が窄梁にたくさん集まり、昇天府(貞州)*11に入った。京城が侵略されようとしていると言う噂が流れ、内外は多いに震え、兵衛は宮城の門に列をなし、賊が来るのを待った。城内はどよめき、坊里軍に命じ城に登り、様子を見た。諸軍を分けてに命じて東江、西江に出て駐屯した。判三司事の崔瑩が監督する諸軍は、門下贊成事の楊伯淵が副官にし、軍を海豐郡に置いた。
賊はこれを偵察して知ると、こう思った。「崔瑩の軍は破れる。そうすれば京城を伺うべきだ」
そして駐屯地から出て捨て争わず海豊にむかい中軍に直行した。
崔瑩は「社稷の存亡はこの一戦で決する」と言い、楊伯淵と賊を攻撃したが賊は崔瑩を蹴散らし崔瑩は逃げた。
太祖は精鋭騎兵を引いて直進し、楊伯淵と兵を合わせて賊を大いに破った。崔瑩は賊がなぎ倒されるの見て旗下の兵を率いて進み傍らからこれを撃った。賊はほとんど敗れ、残りも夜に紛れて逃げた。
*11 京畿道豊徳郡か(今の開城特別市の南西側)
※ 高麗史第一百三十三 辛禑一 四年「四月倭寇德豐、合德等縣,火都巡問使營。倭船大集窄梁,入昇天府,中外大震,我太祖與楊伯淵,合擊大破之。」
八月、虎が京城(開城)に入り、人や物に多大な被害を与えたので、太祖が射殺した。
※ 高麗史第一百三十三 辛禑一 四年「八月慶尙道元帥裴克廉,擊倭于欲知島,斬五十級。虎入京城,多害人物,我太祖射殪之」
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