初めに イエズス会と日本、中国における奴隷売買に関する研究は手が付けられたばかりである。全くと言って良いほど研究が行われておらず、ゆえに2-3人の学者の論文のみで判断するしかないのが実情である。
黒人奴隷はイエズス会が持ち込んだ Enslaved Africans were used as servants in the house staffs of Jesuit houses in China and Japan in the 1600s and were a part of the work crew that built the first Jesuit college in Coimbra, Portugal, in the 1540s, just after the order was founded (Alden, 1996, pp. 507, 503-514) 奴隷化されたアフリカ人は、日本と中国のイエズス会の修道院では使用人として使われ、1540年代イエズス会が創立された後にポルトガルのコインブラに創立されたイエズス会の大学でも建築作業員の一員として使われて居た(Alden, 1996, pp. 507, 503-514)
William (Bo) Chamberlin "Silencing Genocide: The Jesuit Ministry in Colonial Cartagena de Indias and its Legacy" 日本と中国にもイエズス会の黒人奴隷が居た。ここまでは確実の様である。ただし、フランシスコ・ザビエルが連れてきた奴隷の洗礼名は分かっているが人種は定かでないようだ。洗礼名から中国人とインド人と推測される。しかし当時既にマカオに相応のカフル人(モザンビーク周辺の非イスラム教系バントゥー系の黒人奴隷)が既に居た事を鑑みると早い時期から居たのは確実だと思われる。
奴隷商人の元締めだったイエズス会 Until 1598, in the absence of official Portuguese representation in Japan, the Jesuits functioned as the overseer of the Portuguese slave trade. The Superior Cosme de Torres (off. 1551-1570) devised the “ballot” system, allowing the Portuguese head captains and merchants from Macao to sell slaves acquired in Japan overseas. The Jesuits collected fees for their certificates, assuring that these slaves were “legally” obtained. 1598年まで日本には公式なポルトガル政府の代表がいないため、イエズス会がポルトガルの奴隷貿易のオブザーバーとして機能していた。(フランシスコ・ロドリゲスの著書によれば)コスメ・デ・トーレス修道院長は「証書」制度を考案し、ポルトガルの船長やマカオの商人たちが日本で獲得した奴隷を海外で販売することを許可した。イエズス会は証明書の手数料を徴収 し、これらの奴隷が「合法的に」入手されたものであることを保証した。
Haruko Nawata Ward " Kirishitan Women in Bondage Defying Persecution in Japan, 1625-1630" この論文によればイエズス会は日本人における奴隷商人の元締めそのものだと考えられる。なお1596年に日本管区長として日本来たペドロ・マルティンスが1598年に禁止令を出すが就任してまもなく亡くなり撤回されている。その次の日本管区長、ルイス・デ・セルケイラがイエズス会による「証書」制度を廃止し、日本での奴隷貿易は名目上禁止される。ただし日本人奴隷の売買がなくなるのはポルトガル商人が追放された後のようである。
「証書」制度(『大航海時代の日本人奴隷』ではballotを証書と訳しているようなのでそれに合わせる)に関しては、上記論文の引用元のLúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan - Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves - "に記述がある。2018年発行なので『大航海時代と日本人奴隷』(2017年版)の1年後に出たようだ。
The Beginning of the Ballot-Paper System As the slave trade was never legitimized by the Portuguese Crown, slavery emerged “spontaneously”; hence, merchants found a way to legalize Japanese slavery with assistance from the Jesuits. After buying the slaves from the canvassers/angariadores/hitokadoi or brokers/corretores/hitoakibito, the European traders went to the closest church and, after baptizing the slave, asked a Jesuit to issue a permit legitimatizing this transaction. In order to be considered legitimate, the slave’s ballot had to be signed by at least one Jesuit priest. 「証書」制度の始まり 奴隷貿易がポルトガル王室によって合法化されることがなかったため、奴隷制度は「自然発生的」に生まれた。したがって、商人たちはイエズス会の援助を得て、日本の奴隷制度を合法化する方法を見つけた。ヨーロッパ人商人たちは、勧誘員・アンガレアドレス・人勾引(ヒトカドイ)もしくはブローカー・コレトアーレス・人商人(ヒトアキビト)から奴隷を買った後、最寄りの教会に行き、奴隷に洗礼を施した後、イエズス会にこの取引を合法化する許可証の発行を依頼した。合法とみなされるためには、奴隷の「証書」に少なくとも一人のイエズス会司祭が署名しなければならなかった。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan" ヒトカドイは今で言うところ転職エージェ(以下自粛)、ヒトアキビトは今で言うところの派(以下自粛)
From the beginning of the ballot-issuing process until the year 1596, the Japanese slaves who were sold by the Portuguese carried ballots issued both by common clerics and the Society of Jesus’s elite in Japan. It is even possible to identify three important individuals involved in this process: the Superior in Japan, Cosme de Torres, the Superior in Nagasaki, Antonio López, and Bishop Pedro Martins 証書の発行が始まってから1596年まで、ポルトガル人に売られた日本人奴隷は一般の聖職者や日本におけるイエズス会のエリートが発行した「証書」を携えていた 。このプロセスに関与した3人の重要な人物を特定することさえ可能である:日本の修道院長コスメ・デ・トーレス、長崎の修道院長アントニオ・ロペス、そしてペドロ・マルティンス司教である。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan" すなわちポルトガル商人による日本人奴隷の売買システムはコスメ・デ・トーレス修道院長、長崎の修道院長アントニオ・ロペス、ペドロ・マルティンスが作ったスキームで日本のイエズス会の総意で行われていたのだ。本来、ポルトガル商人の無差別な奴隷売買を統制する仕組みだったと考えられるが機能していなかったことは明らかだ。奴隷貿易にはイエズス会を通さない非合法な取引も数多くあっただろうが、イエズス会の「証書」がガスパール・コエリョに拠ればほとんどが不正だったと言われている。コスメ・デ・トーレスはフランシスコ・ザビエルと一緒やってきた日本に来たイエズス会最初の修道士の一人であるため、かなり早い時期にこの奴隷貿易スキームが導入されたと考えられる。少なくとも1563-1568年の間に言及があるらしい。だからこそ後から日本に来たペドロ・マルティンスやルイス・デ・セルケイラは慌てたのだろう。
日本の奴隷売買には期限付き「証書」と言うものが存在していた。これは既に日本で広まっていた年季奉公制度(江戸時代が日本史上の通説になっているが、これらの記述を調べるに少なくとも九州において年季奉公が16世紀前半にはごく普通だった可能性がある)をポルトガルの奴隷制度に適合させるためにイエズス会が『再発見』した可能性が高い。日本の慣習法による隷属化はローマ法やイスラム法をルーツにするポルトガルの奴隷と全く異なっており、つまるところイエズス会は慣習法の解釈を捻じ曲げたのある。(Stuart M. McManus “SERVITUTEM LEVEM ET MODICI TEMPORIS ESSE ARBITRANTES: JESUIT SCHEDULAE AND JAPANESE LIMITED-TERM SERVITUDE IN GOMES VAZ’S DE MANCIPIIS INDICIS”を参考) ポルトガル人にもスペイン人にも有期奴隷と言う制度に全く馴染みがなかったので年季が無視されることが多発したらしい。
これらの問題に関して不審を抱いたマニラのイエズス会からゴアのイエズス会神父で神学の権威フランシスコ・ロドリゲスに対する質問状が1950年代に送られたらしい。日本のイエズス会の判断の法的正統性が疑われていたようだ。その返答が以下になる。
“Q[uan]to a questão das moças iapoas q[ue] diz que o p[adr]e cosmo de torres da l[icen]ca p[a]ra as cõprarem e asi dos moços chins q os iapães uendem la se pode melhor detreminar en japão p[or]q[ue] se la são catiuos naõ ha questão – examinarmos nos qua ser justa ou não a guerra entre os chins e iapões seria cousa deficultosa a m[ui]to incerta, la se pode melhor saber. & indubijs sendo tanto ho bem q se fas a estes escrauos cõ os fazerem xpãos q he bem prezumirse serem bem catiuos [f. 98v] p[or]q[ue] dado q naõ serã decente catiualos p[a]ra fim de os fazer xpaõs indubijs licito he e melhor escolher esta parte.” コスメ・デ・トーレス神父が日本人の若い女性の売買許可証を与えたとあなたが言うこと、また日本人が売った中国人の若者の問題についてですが、日本国内で解決した方がよいでしょう。なぜなら、彼らが日本国内で捕虜になっているのであれば、問題はないからです。中国人と日本人の間の争いが正当であるかどうかをここで調べるのは、困難で非常に不確かなことですが、日本国内ではそれがよく知られています。疑わしい場合は、これらの奴隷を改宗させることで彼らになされた善行を考えると、彼らが合法的に奴隷にされたと推定する方がよいでしょう。なぜなら、彼らをキリスト教徒にするために奴隷にすることが不適切であるならば、疑わしい場合は合法であるはずであり、この道を選ぶ方がよいからです。
Rômulo Ehalt "Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan [Doctoral Thesis]" フランシスコ・ロドリゲスは判断を日本に投げ返している上に、異教徒を強制改宗させることは善行だから疑わしくても問題ないと返している。日本のイエズス会は疑わしきは合法であると言う判断を奴隷売買において乱用した可能性が高い。
イエズス会の許可証は違法だった可能性がある At that time, the so-called license was a mandatory provision to import slaves and take them from one place to another. This contract between the monarch and an individual mentioned the number of slaves that could be carried and traded. Under the contract, the contractor paid an amount according to the number of slaves carried and the duration of the license. Exceptionally, a license could be allocated as a reward. As a way of managing this situation in Japan, the Jesuits began to issue slave licenses, legitimizing this trade. However, these licenses did not have royal approval from Portugal, or ecclesiastical endorsement from Rome. 当時、奴隷を輸入しある場所から別の場所へ連れて行くには、いわゆる免許証が必須の条項だった。君主と言及された個人の間で結ばれたこの契約には、輸送および取引できる奴隷の数が記載されていた。契約では、契約者は輸送する奴隷の数と免許証の期間に応じて金額を支払った。例外的に、免許証は報酬として割り当てられることがあった。日本でこの状況に対処する方法として、イエズス会は奴隷免許証を発行し始め、この取引を合法化した。 しかしながら、これらの免許証はポルトガル王室の承認やローマの教会の承認を受けていなかった。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan" この記述からポルトガル国王もヴァチカンも日本人の奴隷貿易の許可を出していないことが読み取れる。当時のポルトガル商人が奴隷を扱うには「許可証」が必要で、「許可証」は輸入する場所、売る場所、その人数までが細かく指定されている。すなわち日本人奴隷貿易の許可はイエズス会が勝手に出したものであり、本来国王や法王に入るべき手数料もイエズス会の懐に入っていたと考えられる。1560年代までポルトガル王室は日本人奴隷に関して無関心だったため、この問題が協議される事は無かった。日本人奴隷に関する扱いに関してはゴアの評議会で決められていた。しかし、実際には高位司祭を含めてほとんど守っていなかったようである。
そうすると1570年にポルトガル王が出した日本人奴隷貿易の禁令とは日本人奴隷に関してイエズス会が発行した許可証が無効であると定義しただけである。そもそもポルトガル国王は日本人奴隷の許可を出していないので実は全て違法な奴隷だったと考えられる。しかもこの禁令は、ほとんどの地域で守られなかった。
さらにポルトガル商人は「証書」や「許可証」のロンダリングまでしていたようだ。こうした行為があまりに酷いのであちこちの国で禁令が度々でたのだろう。
Despite the connivance of the Society of Jesus with the slave merchants, some members of this group, such as that of the Superior of the Society of Jesus in Japan, Gaspar Coelho, emphasized the immoral aspect of this trade and, considering Japanese slavery carried out by the Portuguese a serious impediment to the project of evangelization of Japan, urged the King of Portugal, Sebastian I, to prohibit it. Efforts to create a law to protect the Japanese and the interests of the Society of Jesus in Japan were rewarded, in 1570, with the publication of a law against Japanese slavery throughout Portuguese territories. However, despite its publication in the European metropolis, this law was never implemented in Goa, then the center of Portuguese administration in Asia. イエズス会が奴隷商人と共謀していたにもかかわらず、このグループの一部のメンバー、たとえば日本イエズス会の長ガスパール・コエリョは、この貿易の不道徳な側面を強調し、ポルトガル人による日本人奴隷制度が日本の福音伝道計画の重大な障害であると考え、ポルトガル国王セバスティアン1世にこれを禁止するよう要請した。日本人と日本イエズス会の利益を保護する法律を制定する努力は、1570年にポルトガル領土全体で日本人奴隷制度を禁止する法律が公布されるという形で報われた。 しかし、ヨーロッパの大都市で公布されたにもかかわらず、この法律は当時アジアにおけるポルトガルの行政の中心であったゴアでは施行されなかった。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan" この部分から読み取れることは、イエズス会の大半が奴隷貿易に組みしており反対して居た方が少数派である点である。さらに1570年の日本人奴隷制度を禁止する法律はゴアでは施行されていなかった。この禁令がインド太平洋地域で効力をもたなかった事を意味する。ヨーロッパまで運ばれた日本人奴隷は少ないためほとんど無意味な禁令だったのである。
イエズス会の独占崩壊と日本人奴隷売買の禁令 The Shimabara Peninsula of the domain of Hizen, where many final battles of unification took place, contained the largest centers of the Jesuit Japan mission and international trade. The Arima mission was founded in 1563. Baptized in the same year, Daimyo Ōmura Sumitada Bartolomeu (r. 1550-1587) opened his port Yokoseura for Portuguese traders and, in 1580, entrusted the port of Nagasaki to the charge of the Jesuits.14 Even after Hideyoshi confiscated Nagasaki as his domain in 1587, the region maintained various slave markets and a sizable Kirishitan population survived in Ōmura until 1658, decades after the apostasy of Sumitada’s son Yoshiaki Sancho (1658-1616) in 1606 and ensuing persecution. 肥前の島原は、多くの天下統一の最後の戦いが行われた場所で、イエズス会の日本宣教と国際貿易の最大の拠点があった。有馬伝道所は1563年に設立された。同じ年に洗礼を受けた大名、大村バルトロメオ純忠(1550-1587)は、ポルトガル人貿易商のために横瀬浦港を開き、1580年には長崎港をイエズス会に任せた。1587年に秀吉が長崎を領地として没収した後も、この地域はさまざまな奴隷市場を維持し、1606年に住忠の息子義昭(1658-1616)が棄教して迫害を受けた数十年後の1658年まで、大村にはかなりの数の切支丹が存続していた。
Haruko Nawata Ward "Kirishitan Women in Bondage Defying Persecution in Japan, 1625-1630" イエズス会の奴隷貿易スキームはキリシタン大名の協力があってなりたっているため日本における奴隷貿易の一大拠点として島原の存在が浮き上がってくる。島原は明らかに違法な日本人奴隷をロンダリングするために使われていた可能性が高い。
実際バテレン追放令以降も日本人奴隷貿易は継続していた。イエズス会の「証書」制度の廃止はそもそも効果が無かったと考える。一つは九州のキリシタン大名が奴隷貿易に関与していた点。二つ目は、日本におけるイエズス会の独占が崩れている点。1594年にスペイン領フィリピン総督の使節としフランシスコ会のペトロ・バウチスタが来日した。1580年からポルトガル王はスペイン・ハプスブルク家に変わっており、秀吉はペトロ・バウチスタに布教活動をしないことを前提に在日許可を出しているためサンフランシスコ会はスペインとポルトガルの両国の代表として振る舞っていた可能性がある。一方、イエズス会はバテレン追放令により潜伏活動している状態だった。ただしフランシスコ会は度重なる忠告を無視し秀吉を挑発し続けたために1597年に火刑もしくは追放になっている。しかし秀吉が亡くなった後、この布告は撤回され、1602年には家康により布教の許可も降りている。しかも1600年にはヴァチカンが日本地域におけるイエズス会の宣教独占も無効化していたためフランシスコ会以外にドミニコ会も入ってきていた。つまり日本におけるイエズス会の独占が崩れたのである。イエズス会の「証書」は禁令以前に意味を失ったと考えられる。なにしろフランシスコ会もドミニコ会も奴隷売買に関しては一日の長があるのだ。コンゴから追い出されるぐらいには。
そのためか、ルイス・デ・セルケイラは1605年にポルトガル王に禁令を出すように申請している。この時代のポルトガル王はスペイン・ハプスブルク家が兼任していたためこの禁令はハプスブルク君主国全てで効力を発揮した様だ。スペイン領でも有効だったため売り先が存在しなくなった訳である。この禁令はゴアでも施行されたが2年遅れの1607年になる。しかし奴隷貿易が完全になくなった訳ではなかった。
禁教令と日本人奴隷貿易の消滅 In 1613, faced with the growing number of Japanese in Macao, many of whom were slaves purchased by the Portuguese from Japan, the Haidao fushi, Yu Anxing, was dispatched by the governor of Guangdong and Guangxi, Zhang Minggang, and the Guangdong inspector Zhou Yingqi to negotiate with the Portuguese in Macao. 1613年、マカオに居住する日本人(その多くはポルトガル人が日本から購入した奴隷)の数が増えていることに直面し、広東省と広西省の知事である張明剛と広東省の査察官である周英奇は、マカオのポルトガル人との交渉に海道府使の于安興を派遣した。
Yang Liu "Macao's Moral Maze: Sino-Portuguese Efforts Against the Early Modern Chinese Slave Trade" 1613年に入ってもポルトガル商人は日本人奴隷貿易を続けて居た。そして禁教令の原因になった1612年の岡本大八事件は、その調査の過程でキリシタン大名の奴隷貿易の関与が発覚したと考えるべきだろう。岡本大八事件の片割れの有馬プロタジオ晴信は奴隷売買の一大拠点である島原の支配者であったのだ。キリシタン同士の醜い事件がそのまま禁教令の理由になるとは考えにくい。なお、この件に関して引用可能な日本語の論文はオープンジャーナルでは見つけられなかった。
Records dating back to 1610 tell us that in that period 2000 to 3000 Japanese were bought by the Portuguese, and in 1613 between 5000 to 6000 Japanese and African slaves had been sold in the city.Although the veracity of the figures may be arguable, we can say only that both European and Chinese sources agree that Macao was an important trade center of Japanese slaves 1610年に遡る記録によると、その時期に2000人から3000人の日本人がポルトガル人によって買われ、1613年には5000人から6000人の日本人とアフリカ人の奴隷がマカオで売られた。数字の信憑性については議論の余地があるかもしれないが、ヨーロッパと中国の両方の資料がマカオが日本人奴隷の重要な貿易センターであったことに同意しているということだけは言える。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan” 裏を返すと、1613年のマカオからの日本人追放令と江戸幕府の禁教令は奴隷貿易に対して劇的な効果があったのだろう。
江戸幕府は奴隷貿易を無くすために宣教師とキリシタン大名を国外追放するだけではなく、日本人の出国を禁止しポルトガル商人を出島に隔離し、さらには国外追放する必要があった。
しかし、ポルトガルの奴隷商人がいなくなった訳ではなかった。彼らは日本以外から奴隷を調達し続けたのである。
Faced with a downturn in Japanese slavery, the Portuguese slavers redirected their attention to the Philippines and, as a replacement for Korean and Japanese slaves, increased their supplies of Chinese slaves, as well as slaves from other countries in Southeast Asia, India, and Mozambique. 日本の奴隷制度の衰退に直面したポルトガルの奴隷商人は、フィリピンに目を向け直し、朝鮮人と日本人の奴隷の代わりとして、中国人奴隷や東南アジア、インド、モザンビークなどの他の国からの奴隷の供給を増やした。
Lúcio de Sousa "The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan"