高句麗の略称は高麗なのだが、このことを書くと韓流ガ◎ジと酷使キ◎ガイが暴れまくるので取りあえず調べることにした。
実は、高句麗の略称が高麗になるのは後の話で、漢代は高句驪と綴り、句驪と略されていた様である。
これは漢書地理志、後漢書東夷伝の記述から推測できる
また、新の王莽が高句麗を下句麗と改名した記録が残っている。
したがって漢代は高句麗は句麗と略していた様だ。しかるにいつから高麗を使い始めたと言う点だが、どうやら北燕の様である。
北史では高麗、高句麗、句麗が勢ぞろいして居る(いい加減に編纂したな)
句麗は後漢、後燕
高句麗は漢、三国、北魏
高麗は北燕、北斉、隋、唐
また、他の史書の引き写しばかりで捏造が多い三国史記の新羅本紀を確認すると、高句麗を高麗と書いている部分が存在する。
特に新羅文武王の部分(新羅本紀第六、新羅本紀第七)は、高句麗が全て高麗になっている。ここは全て高麗(高句麗)と註が打たれているため訳本では気がつかない可能性がある。原文をあたるべし。しかし、この様な記述は百済本紀では見あたらず高句麗は全て高句麗になっている。したがって新羅本紀は、唐の記録をそのまま引き写したのではないかと疑ってしまう(三国史記新羅本紀は、中国の史書の引き写しが随所見られる。しかも割と年代間違えている)。他の部分でも唐の史書を引き写したところは全部高麗になっている。