メキシコにおけるイエズス会の奴隷売買
初めに
前回書いた様に、中世を通じてイスラム圏だったポルトガルとスペインは、中世ヨーロッパと違い奴隷制が近世に入っても存続しており特に植民地では奴隷制は存続し続けていた。家庭内奴隷、雑用奴隷、奴隷兵が主なもので農場奴隷は少なかった。イスラム圏と同じようにスペインやポルトガルにも奴隷兵が存在しており、マニラやゴアに日本人の奴隷兵が相当数が居たとされている。
イエズス会がアメリカ最大の奴隷所有組織だったのは事実である。日本人と英語圏の人間が知らないだけである(公権力をのぞいた団体では、世界最大級の奴隷使役組織だったと考えられる。残念なことにこれらの資料の多くはポルトガル語かスペイン語で書かれている)
メキシコは1519年スペイン領になりヌエバ・エスパーニャ(ニュースペイン)と呼ばれていた。そこには副王がおかれた。このヌエバ・エスパーニャはフィリピンまでを含んでいる。フィリピンは1521年にスペインの宣教師が乗り込み少しずつ占領を続けたわけだが、1565年にスペインのメキシコ副王は、フィリピンのルソン島に船団を送り込み、ルソン島以外にセブ島とミンダナオ島の北部までを占領し、スペインはフィリピンーメキシコ間の太平洋航路を確立していたのである。
メキシコのイエズス会
メキシコのイエズス会は1534年に設立され、1540年にローマ法王に認可されている。そして、このメキシコのイエズス会は、アルゼンチンに奴隷貿易の中心が移るまで南米奴隷貿易の中枢だった様である。それからイエズス会は1767年にスペインから追放されるの間、アメリカ最大の奴隷所有者だった。そもそも2万人の奴隷を所有していたイエズス会が奴隷制に反対なわけがない。本当に反対なら2万人の奴隷を解放しているはずだが実際にはスペイン政府に接収されるまで奴隷を売買していたのが真実である。それどころかイエズス会はアメリカ合衆国で憲法違反になるまで奴隷を保有し続けている。
ただしイエズス会にも奴隷制に反対していた会士はいる。ユダヤ人への偏見やブラジル原住民の奴隷化と戦ったアントニオ・ヴィエイラ神父などだ。しかし現実には奴隷反対派はイエズス会では少数派だったのである。この少数派の奴隷反対派をあたかもイエズス会の総意の様にでっち上げているのがイエズス会擁護派である。見つけ次第駆除して欲しい。
イエズス会の奴隷に関する書類もスペイン政府に接収されたのでイエズス会に関する奴隷の資料が大量に残っている。逆に言うとイエズス会が現在保有している資料は政府に対する言い訳なのである。それを使ってイエズス会は奴隷制に反対していたと歴史捏造までしている。残念なことに、イエズス会の奴隷売買及び所有に関する資料の多くはスペイン語やポルトガル語で書かれているため認知度がかなり低い。それゆえ、これらの事実が明るみに出てこなかった。そのためジョージタウン大から英語のイエズス会の奴隷売買記録が出てきた結果、袋だだきにされて謝罪と賠償に追いこまれたのだ。しかし南米とアジアの奴隷使役に関しては、イエズス会は未だに謝罪しない。さすが奴隷使役団体イエズス会といったところか。アメリカ合衆国に於けるイエズス会の奴隷使役・売買に関しても未だ不明点が多い。(https://www.jesuits.org/our-work/shmr/what-we-have-learned/)早くから研究が始まっていたスペイン圏と比べると全く行われていないと言って良い。
メキシコの奴隷貿易
南米のプランテーション農業が本格化する前、つまり1521年から1639年の間にアメリカに運ばれた奴隷のうち約半分がヌエバ・エスパーニャに輸出されていたとされている。まだプランテーション奴隷より家庭内奴隷や鉱山奴隷の方が多かったと思われる。鉱山奴隷はボリビアのポトシ銀山に送り込まれていた。
ヌエバ・エスパーニャの副王が原住民の奴隷化に反対したため、メキシコでは奴隷のほぼ全数を輸入する必要があった。そのためイエズス会は奴隷を輸入し続けたのである。修道会は自給自足の原則があるから、活動資金や食料も自分達でまかなう必要がある。そのために大規模プランテーションを経営して資金を確保していたのである。しかしイエズス会の農場で働くのは修道士ではなく奴隷だった。
イエズス会の奴隷の確保方法は寄進、相続、出産と言う形もあったが、購入して補充することが多かった。プランテーション中心の奴隷運用の場合、女性の奴隷より男性奴隷の方が数が必要になるため、どうしても男性奴隷が不足する。そのため男性奴隷を購入し続ける必要があった。
16世紀のメキシコ・イエズス会の奴隷構造
16世紀は、西アフリカの奴隷船貿易が本格化する前なので奴隷の出身地はさまざまだったようだ。イエズス会は、西アフリカのコンゴやアンゴラだけではなく、東アジアの中国人、東アフリカのモザンビーク出身者、それからメキシコ本土出身のクレオールなども奴隷購入の対象にしていた様だ。なおモザンビークはイエズス会のアフリカ拠点である。西アフリカ出身の奴隷がメキシコ東海岸のベラクルス港で売買されたのに対し、これらの奴隷はメキシコ西海岸のアカプルコ港で売買されていた。恐らくポルトガルのインド洋奴隷交易ネットワークを利用し、マニラから太平洋を横断したものと考えられる
メキシコのイエズス会が日本人の奴隷を保有していたかは分からないが、メキシコに日本人奴隷がいたことは記録から判明している。その書類には、ほぼ必ずイエズス会による証明書(スペイン圏の奴隷売買ではどのような経緯で奴隷になったか証明する証明書が必要だった)がついてくるのだが、そのいくつかで自由民を奴隷に落していることが判明している。そもそも16世紀末に日本に於ける年季奉公人制度は自由民に対して行われる契約金先払い方式の年限雇用契約であり(現代でも野球やサッカーで行われている方式)、ポルトガルやスペインで行われ居た焼き印を付ける奴隷と全く異なる。また神学上、正しい戦争の捕虜以外は奴隷として行けないとされていたため劫掠や人さらいによる奴隷はそもそも認可してはいけないはずだが人さらいによる奴隷や債務奴隷もイエスズ会が奴隷として認可していることもこれらの資料から分かる。不当な理由で奴隷にされたと言う理由で奴隷解放を訴えた日本人による裁判記録が多数残っているからである。
イエズス会は奴隷を購入するだけではなく売却も行っていた。ただし投機的な売買や仲介取引をしていたわけではなく、不良債権化した奴隷を売却していたようだ。要するに金にならない奴隷を売り飛ばしていた。イエズス会は間接的にだけではなく直接的にも奴隷売買を行っていたのである。
イエズス会の奴隷の用途
イエズス会は修道会でありながら身の回りの雑務を自分でしない傾向があり、家庭内の雑務を全て奴隷にやらせていた。そのためメキシコにおいてはプランテーション奴隷より家庭内奴隷の比率の方が高かったらしい。その内容は主に家事、伝令、通訳だったようである。奴隷を通訳として酷使するには勉強させないといけないのでイエズス会は奴隷教育には力を入れていた。
17世紀中頃になるとアルゼンチンのコルドバやブエノスアイレスがイエズス会の奴隷売買の中心になるようだ。