朝鮮王朝実録 総序(22)太祖 李成桂18 (終)
総序の最後の部分である。国王派と李成桂派の対立が不可避になり、国王派筆頭の趙夢周を取り除くクーデターが起き、李成桂が王位につくのである。総序に書かれているのは即位の直前までになる。記録ではクーデターは李成桂の意思ではなく、太宗の意思で行ったことになっている。これは太宗を李世民になぞらえたいためだろう。実際のところは部下の暴走の可能性が高い。建国から滅亡まで告げ口外交と讒言ばかり。
太祖の功が高く、余人の心得ていたので恭讓王はこれを忌んでいた。また旧家の一族は私田改革を恨んでいて恭讓王が忌んでいることを知り、あちこちで誣毁し、禑昌の党、姻族王室が連なり、朝夕訴えていた。恭讓王は讒言の手紙をかえして、日夜、左右と太祖を取り除くはかりごとを密かにしていた。
太祖の旗下の兵は、その所為で憤りを感じ、上書し、その誣妄(妄言)を弁じようとし書をなしたが届かなかった。太祖の庶兄壻の卞仲良は変を観る立場に居て、恭讓王の猜疑心がすでに極まっていることを知り、自分に及ぶのを逸れた。そしてと恭讓王の女婿の益川君の王緝と同甲契(党派)を結んで、旗下の兵に集まるように告げる書をなし、後日の地盤をつくろうとした。恭讓王はこれを知り、太祖に言った「卿の旗下兵が禹玄寶らと書論したいと聞いたが、卿はこれを知っているのか?」太祖は愕然とし知らないと答え、旗下の兵を返し事情を初めて知り、これを止めた。
※ 李成桂が、私兵を抱えていたことを意味する
三月、世子王奭が朝見から帰ると太祖は黃州で出迎え、海州で狩りをした。行こうとするとき、巫方兀が康妃に言った「公のこの行いは、例えれば、人が百尺の高台に昇るようだ。足を滑らせて落ちて、何度も地につき、万人が集まり、これをまつるのだ」
妃はこれを深く憂いた。
そして太祖が、狩りで狩りをして鳥を追っているとき馬がぬかるみに嵌まり躓き、余裕なく墜ちたので篭に乗って帰ってきた。
恭讓王は中使を連れていき挨拶した。
鄭夢周は太祖の威徳が日々盛んになり、内外が帰心するのを忌んでいたので、太祖が落馬したと聞いて大喜びし、この機をのがさず乗じようとし、台諫にけしかけた「まず羽翼(補佐)の趙浚らを剪き、そののちはかろう」
そして、太祖が親しく信任する三司左使の趙浚、前政堂文學の鄭道傳、前密直副使の南誾、前判書尹の紹宗、前判事の南在、淸州牧使の趙璞を弾劾し恭讓王はその書を都堂*1に送った。
鄭夢周は、この扇情にしたがい、趙浚ら六人をすべて遠地に流した。その一党の金龜聯、李蟠らを分けて送り、趙浚、鄭道傳、南誾の貶所鞫問*2に送り、殺そうとした。
金龜聯等らが出発にのぞむと我殿下(李芳遠)は内外をうれい、粟村の墓の側のいおりに居た。李濟は茶と果物を持ってきており、殿下(李芳遠)が李濟に話した。
「鄭夢周は必ず我が家に不利益をもたらす、まずこれをとりのぞかないと行けない」
李濟はうなずいた。そして、太祖が碧瀾渡から次の宿に行くところに 殿下(李芳遠)は駆けつけ「鄭夢周は必ず我が家を貶めます」と、告げた。
太祖は答えなかった。また、すぐにみやこに入り宿に留まるべきではないと告げると、太祖はゆるさなかった。強く要請すると太祖は病を押して夜行したので殿下は屋敷に戻るのを助けた。
*1 都堂……都評議使司
*2 貶所鞫問……流罪地での尋問
※ 李成桂を唐の太祖(李淵)に、李芳遠を太宗 (李世民)になぞらえている。これは李芳遠の兄弟殺しを正統化する為だろう。
殿下(李芳遠)の代言の時代に、李達衷の弟の密直提學の李誠中がその子を携え使え、家伝の金飾宝剣を進めたので、殿下と王妃は同坐してこれを受け取った。王妃は笑って「宝剣を送る意味を知っているのかしら?」と言った。
翌日、 殿下(李芳遠)は、李誠中の家により謝して「私は儒生だ。なぜ、宝剣を送ったのか?」と言う。李誠中は答えて「宝剣は、小人が所用するものではなく、明公の所で用いるものなので敢えて差し上げました」
※ 唐突混ぜ込まれるプロパガンダ
鄭夢周は省憲をけしかけ、 交章で趙浚、鄭道傳らを誅するように請うた。太祖は子の 李芳果(定宗)、弟李和の壻の李濟と麾下の黃希碩、趙珪らをつかわし、宮殿で上奏した。
「今、省憲は殿下を立てた際に趙浚が他を立てるようと相談していたと論じているので臣はこれをはばみたい。趙浚の所の相談者は何者か?臣のこれを阻むの言葉を聞いたのは誰か?趙浚らをよび、台諫と廷弁したい」
何度も往復したが、恭讓王は聞かなかった。
群小はますますおとしれようとしたので禍は予測不可能だった。我殿下(李芳遠)は、鄭夢周を殺すこと請うたが、太祖は許るさなかった。殿下(李芳遠)は出て、上王(李芳果)、李和、李濟と相談し入り直して太祖に言った。「今、鄭夢周らは人を使わし、鄭道傳たちを取り調べています。我が家に連なる言葉が欲しいのでしょう。ことを急ぐ必要があります。これを何としましょうか?」
太祖は言う「死生は命が有るからで、それに則り受けいれるだけでよい」
殿下(李芳遠)にいおりに速やかに帰り、自分の用事を終わらせるように命じた。
殿下(李芳遠)は何度も(屋敷に)留まり病に寄り添いたいと願ったが、ついにゆるされなかった。殿下(李芳遠)はやむを得なく出て、崇教里の旧邸に行き、斜廊に座ったが、憂虞はまだ決まらなかった。にわかに門を叩く音があり急いででてこれを見ると廣興倉使の鄭擢だった。鄭擢はきわまって言った。「生きる民の利害を決する時です。群小がかのように乱を起こしているのに、あなた様は何もしないのでしょうか?王侯将相いずくんぞ種あらんや?*3」
殿下(李芳遠)はすぐ太祖の屋敷に帰り、上王(李芳果)、李和と李濟とともに李豆蘭を使わし鄭夢周を撃とうとした。李豆蘭は言った「我が主君の知らぬことを私にできるわけがありません」
殿下(李芳遠)は言った「父君は私の言を聞かない。未だに鄭夢周殺してはいけないと言っている。私がその咎を受けよう」
旗下の兵趙英珪を召して言うには「王室において李氏の功があるのを国の人は皆これを知っているが、今、小人たちにより陥れられている。もし自ら抗弁しなければ、反抗できずに殺されるだろう。彼の小人は必ず李氏に悪名を加えるだろう、後の世に誰がこれを知るだろうか?旗下の兵は多いが、その誰もが、李氏の功績を言わないだろう?」
趙英珪は慨然して言った「あえて、ただ命あるのみ」
趙英珪、趙英茂、高呂、李敷らを使わし都評議使司に入り、鄭夢周を撃ち、卞仲良はその謀を趙夢周にもらした」
趙夢周はこれを知り、太祖の屋敷に病をみまいに行き様子を見ようとしたので太祖は今までの様にこれもてなした。李和は我殿下(李芳遠)に言った「鄭夢周を誅すのはこの時にほかなりません。」
すでに計は定まり、李和はもう一度言った「公は恐らく怒るでしょう、どうしますか?」
相談は決まらなかった。
我殿下(李芳遠)に言った「機会を失うべきではない。公(父君)の怒りは、私が、大義をのべることでとこうと思う」
そして、路上ではかりごとを撃った。
殿下(李芳遠)は更に趙英珪に命じ、上王(李芳果)の館から剣を取り、直接、鄭夢周の家の出入り口の要衝にあたり、高呂、李敷ら数人がこれにしたがった。鄭夢周は入ると留まらずにすぐ出て行った。
殿下(李芳遠)はなしとげられないことを恐れ、みずから門を出て指揮をし、旗下の兵の馬に鞍を載せたものが門外にあるのでそれに乗った。上王(李芳果)の館までは駆けつけると「鄭夢周はどうなった?」と聞いた。
「まだです」と言われた。殿下(李芳遠)は更に方略(方策)を授け、戻った。
そのとき前判開城府事の柳源が死んだので鄭夢周はその家に弔問により遅くまで留まっていたので、趙英珪らは兵器を備えて、これをうかがった。鄭夢周来たので、趙英珪は駆けて撃ったが当たらず、鄭夢周は之を叱り、馬にむちうち走った。趙英珪は馬首を追撃したので、馬がつまずき鄭夢周は地に落ちたので起きて急いで走ったが高呂ら追いつきこれを殺した。趙英茂は殿下(李芳遠)に戻って話、殿下(李芳遠)は入って告げた。太祖は怒りにふるえ、病をおして起き上がり殿下に言った。
「我が家は、ただ忠孝をもって聞こえている。おまえらは大臣を勝手に殺した、国の人が私のなしたことを知らぬだろうか?父母は經書を子に教え、その忠に孝にしたがわないといけない。おまえが敢えてしたことは不孝ではないのか?余は薬を仰いで死ぬぞ」
殿下(李芳遠)は答えて「鄭夢周らは我が家を陥れようとしました、坐したまま滅びを待つのでしょうか?これは孝によるものです」
太祖は盛んに怒気をはなち、康妃は側にいたが何も言わなかった。殿下(李芳遠)は言う「母は何か解説しないのでしょうか?」
妃はきびしい顔をして告げた「公は、自らのなかに大将軍をやどしています。このようなことにおそれおどろくのでしょうか?」
殿下(李芳遠)は旗下の兵を集めるように言い、不測の事態に備え、直ぐに張思吉らをよび、皮下の兵を率いて守りをめぐらせた。翌日、太祖は、やむをえず黃希碩を呼び「鄭夢周らは、党をなした罪人で、影で台諫をたぶらかし、忠良の臣を冤罪に陥れたが、今は罪を伏せるだけだ」
趙浚、南誾をよび、ともに台諫に弁明して、卿は王のところに行き話した。黃希碩は疑いにおどろき、だまって仰ぎみた。李濟は側にいて、激しい声で叱り、黃希碩は王宮にそろって報告に詣でた。
恭讓王はいった「台諫は弾劾された者と答弁してはいけない。余は、台諫を外に出し、卿らと話せないようにしよう」
そのとき、太祖は、激しい怒りと病により話すこと出来なかった。殿下(李芳遠)は言った「事は急だろう」
李子芬を密かに使わしさとし、南誾らは召還の意をもって、また上王(李芳果)と和李、李濟らと相談し、上王(李芳果)を使わし恭讓王に話した。
「もし鄭夢周の党を不問にするならば、臣らを罰してください」
恭讓王は、やむを得ず台諫を巡軍獄に送った。そして言った「外に流罪にし、尋問する必要は無い」
さらに、判三司事の裵克廉、門下評理の金湊、同巡軍提調の金士衡らに命じ、これをしらべた。左常侍の金震陽は言った「鄭夢周、李穡、禹玄寶は李崇仁、李種學、趙瑚を送り、臣らに『判門下の李成桂功を頼みに専断しているが今、落馬して病が重いので、まず趙浚ら羽翼(補佐)を剪き、そののちはかろう』と言いました」
これにより、李崇仁、李種學、趙瑚は巡軍に捕らえられた。そして、金震陽と右常侍の李擴、右諫議の李來、左獻納の李敢、右獻納の權弘、司憲執義の鄭熙、掌令の金畝ㆍ徐甄、持平の李作ㆍ李申と李崇仁、李種學は遠地に流された。
律(刑法)を按べるものが、「金震陽の罪は、斬刑 *4に相当します」と言った。太祖は言った「私に殺人の嗜みは久しくない。 金震陽らは、鄭夢周の扇動をうけただけだ。 無闇に罰するべきではないきだろう」
「それでは、 杖*5で痛めつけましょう」太祖は言った「すでにゆるしたのだ、なぜ杖が必要なのか?」金震陽らはこれによって放免された。
*3 王侯將相, 寧有種乎……秦末の農民反乱、陳勝・呉広の乱における陳勝の科白(史記)。王位を簒奪せよと言う意味か。
*4 律(刑法)には斬と絞の二種の死刑がある。高麗は宋律に準拠していたようである。
*5 むちうち。杖と笞の二種類があり杖の方が重い。その上に徒刑(むちうち+懲役)がある。
※ 予想以上にお粗末なクーデター。女真族の李豆蘭は女真の頭目李成桂の直属であり、家に属していないことを示しているようである。
趙浚らを召しかえし、太祖を門下侍中にした。太祖は職を辞したが、許されなかった。
六月、恭讓王は行幸し、太祖の屋敷に見舞いにいった。南誾は威化島回軍の時から、趙仁沃らと(李成桂の王位の)推戴の密議をしており、戻ってくると殿下に告げた。殿下は言った「この大事は軽々しく言うべきではない」
このとき、衆人の心は推戴をあいあらそっていて、あるいはこのように衆人の中で公然とこのように言いふらしていた「天命と人心はすでに、(李氏に)所属しているのだ、なぜ(李成桂の王位)推進を急がないのか?」
それにより、殿下(李芳遠)は南誾と計を定めた。南誾と密かに互いに心を通じあわせていた趙浚、鄭道傳、趙仁沃、趙璞ら五十二人は、推戴を共謀し、太祖を怒りを震わせるのを恐れたので思い切って告げようとしなかった。殿下(李芳遠)は康妃のところ入りに告げたので太祖の耳に入ったが、康妃も敢えて告げなかった。殿下(李芳遠)は出て南誾らに言った「すぐに、王位推挙の儀を準備するように」
恭讓王が殿下(李芳遠)と司藝の趙庸を呼ぶように命じた時、「余は李侍中(李成桂)と同盟しようと思う。 卿等は余に言い侍中(李成桂)に伝えて侍中(李成桂)の言葉を聞き、盟書を草稿するように」と言い、そして「かならず故事がある」と言った。趙庸は答えて「盟は貴きに足らず聖人に取っての悪で、国同士の同盟は古に則ったものがありますが、君と臣の同盟は経籍故事によるものはありません」恭讓王は、「次にこの草稿をつくれ」
趙庸と殿下(李芳遠)は太祖のもとにいって、王の様に教を伝えると、太祖は、「私は何がいえるのだろうか?おまえは、教の起草以上のことをしているだろう」
趙庸は退出した、草稿には「卿がいなければ、余はここにいないだろう。余がいなければ、卿の功と徳を余はあえて忘れないだろう。皇天后土*6がひろく上にあるかぎり、子々孫々、互いに害しないだろう。余の所有が卿者を負うのは、この盟があるからだ」
趙庸と殿下(李芳遠)は、草稿を恭讓王に勧めた。恭讓王は「よろしい」と言った。趙庸はその時史官を兼任しており書に「上は侍中(李成桂)に、国王擁立の功を未だに報いていないのにも係わらず害する意思が既に芽生えているので、すでに天命が去り人心も離れているので、こまごました盟を頼りにできないだろう」
*6 皇天……天を治める神。后土……地を支配する神。
※ 君臣の盟は禅譲を意味する。
※ 国王が旧弊(王族や貴族)を抑えられず人民が苦しんでいるので、やむなく変を起こしたと言う筋書きになっているのだが中身が予想以上にグダグダで締まらない。太宗は、あくまでも文官で武官でないと言うことを強調したいのだろうか謎である。国王(太宗)に忖度して曲筆しているのにこの内容なのは本当に行き当たりばったりだったのだろうか?
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