朝鮮王朝実録 総序(21)太祖 李成桂17
漢籍を引いて長口上しているが、中身は「辞めさせろ」と「辞めるな」のみである。この手の茶番は中国史でよく見られ、史記に出てくる楚を攻めるときの王翦のくだりは有名である。王翦は、王の猜疑をそらすために褒美をよこせと再三手紙を送っている。60万と言う兵は当時出撃できるほぼ全軍なので王翦は権力より金にしか興味が無いキャラを演じることで猜疑から逃れようとしたのである。他にも三国志の三顧の礼が有名だが、謙虚を強調するために譲位を強要するときですら、わざわざ三回断るのである。ここまで来るともはや茶番である。人治の国だからだろう。
恭讓王三(1391)年辛未正月、五軍を省き三軍にし都総制府に内外の軍事を統べさせ、太祖を都総制使にした。
三月、太祖は、職を辞することを上に箋(手紙)した
「臣は凡庸で劣等なのに、ことさらに格別あつく遇されご恩を賜っています。位は将・相を極め、なお、 きわめてわずかな補佐もなく、賢者を用ちいる道をさけているので聖明の治を開くべきでしょう。いやしい気持ちを自分勝手にかくして再び天聡をけがしたのですが、またもや辞めること許されず、とりわけ深く戦々兢々としています。私が思うに国に大小があり今と昔はことさらですが、その君臣がともに逢うのが難しいのは異なりません。
創業の主の漢の高祖(劉邦)は、人を知り、善を任じ、功臣を待ち、その足りないと感じているところを識者にはかりました。 中興の主、(後漢の)光武帝(劉秀)は豪傑を網羅し、漢室を回復し、功臣に善処し、最後までそれを保ったので、後世の人はその美をみな褒めるのです。その功臣を見てみると韓信*1、周勃*2は張良*3の様に最後を全うできませんでした。寇恂*4、鄧禹*5は、なお子陵*6の高名におよびません。臣は不学ですが、張良、子陵の様になれるように願い、臥して思うに殿下が光武帝の様になられることを願います。臣は丙申(1356年)六月において、父臣李子春に付き従いし、玄陵(恭愍王)の命をさずかり、双城を平定し、辺境を復旧し、余力を使い青州までを併せ、藩鎭になり東顧の憂を無くしました。玄陵はこのその功を喜び、臣父は栄禄大夫、判将作監事を拝し、朔方道万戸にいたりました。また臣を継がせず抜擢し、年まだ三十にして位は宰輔になったのですが、思うように補けられないので、朝から晩まで心配が絶えません。戊辰(1388)年間になり、偽王(禑王)が華夏に侵略しようと兵を発したのですが、いさめるものが無いので社稷(国家)が覆りそうでした。臣は真っ先に大義をとなえて回軍の挙を行い、宗社(国家)を再び安じました。これは人によっては兵を独占したと思うでしょう。また、己巳(1389年)に(王統を)復したとき、聖旨を奉り、偽王(禑王)の一族を滅して真の王に戻し、宗祀を十分に正しましたが、これは人によっては権力を握ったと思うでしょう。今、諸軍事は兵を養い静かに守っており奸雄を鎮圧し外寇は消え潜んでいます。これを人によっては、軍資を消耗していると思うでしょう。物議が紛糾したなら弁明は難しくなります。臣には三つの不幸があります。功が少ないのに恩賞が多いので人にいとわれているのが一つ目の不幸、社稷を保ち、正統を復し、盗賊などの事を止め、未だかつてなく少なくない助力により寵をえていることが二つ目の不幸、以前に功が過ぎたのを隠すことができず、戸惑って勇退できなかったことが三つ目の不幸です。
この件に関して、まことに恐懼するのですが申し上げたいのです。
伊尹は『臣は寵利をもって成功と居ることなし』*7と言い、蔡澤は『四時の序、功を成す者は去る』*8と言いました。これは自然の理で、臣は賢者の路を久しく阻んでいてはいけないのです。田里に帰る事を願い、そこで余齢を保つことが臣の願いです。殿下の慈愛により不肖の功臣の徳を全うし光武帝だけに美名を独り占めさせないでください。」
王はゆるさず、これに答えるには、
「大臣の一身は、開国、家の興亡にかかっており、生民の喜びと悲しみにかかっている。職任のその重さゆえ、去就を軽々しくするべきはない。それゆえに召公*9は告帰(別れを告げる)の心があり、周公*10は篤棐(忠節補助)の義がある。卿は山川間気*11の社稷の重臣だ。公にしたがい私を忘れ、忠誠を日々つらぬき、義を仗り信を安んじ、功業は天に柱する。ここに先王(恭愍王)の時から、余の時代まで、力をつとめて出し、我が国を安らかにした。戊辰(1388年)に猾夏の師(明への侵略軍)*12を抑え、己巳(1389年)に発乱の策を定めた。国祚(王朝)はこれにより再び継続し、生民はこれにより蘇った。そして、その戎兵(兵士)を鍊養(練兵)し、もって王室を捍禦(防御)する。事はみな天の理に合うのに、心はなぜ人の言を恤うのか?寵あることにもし驚いたとしても、卿の自ら善きに則る処による。政をともにはかるとき余は誰をえらべば良いのだ?
ああ、子陵の高は、光武の任じずをもって事とし、留侯(張良)の去は、漢室の安らぎをもって致る*13。古より今を見ると事情はことのほか異なる。その位に留まり余の心の支えとなれ。」
*1 韓信……劉邦の配下の武将。謀叛の罪で誅された。
*2 周勃……劉邦の旗下。呂氏を取り除く功があったが、最後は謀叛を疑われ下野した。
*3 張良……劉邦の軍師。皇帝が立つと莫大な恩賞を断り、半ば隠居していた。張良は生をまっとうできたのに、韓信・周勃は全うできなかったと言うこと。
*4 寇恂……光武帝の功臣
*5 鄧禹……光武帝の功臣
*6 子陵……厳光 光武帝の同門で隠者。仕官せず無職を全うした子陵は、寇恂・鄧禹より著名だと言うこと。
*7 『尚書』から、「君罔以辯言亂舊政,臣罔以寵利居成功,邦其永孚于休」 臣は寵を得て、利するところがあったが成功した後も、その地位に留まるべきではないと言う意味
*8 『史記』から、自分の役割を果たし終えたら、いさぎよく舞台から退くべきと言う意味
*9 召公奭 周建国の功臣
*10 周公旦 周建国の功臣
*11 元の詩人、周霆震の《豫章吟》の一節「山川間氣久封培」から《山川の間の気を久しく封じ培った》の意味か。文が対句になっているので、四文字しか使えないので本歌取りをすることで七文字を表している。王の返書には元詩からの引用が多い。恐らく高麗末は元詩が基礎教養だったのだろう。
*12 『書経』舜典の「蛮夷猾夏,寇賊奸究」より。蛮族が華夏(中華)に侵略すると言う意味。師は軍のこと。
*13 子陵の高名は、洪武帝が、(空気を読んで)任じなかったことにより成立し、張良が国政から去ることが出来たのは、国が安定していたからと言うこと
※ 対句が多くて訳しにくい。雰囲気を残そうとすると意味不明になる。
六月、台諫が上奏した「禹玄寶の罪は李穡と同じです。今、李穡は既に退けていますが、あわせて禹玄寶も追って退けましょう」
上疏はおよそ三回あがったが、みな中に留めた。我殿下(李芳遠)は右代言*14だったので、恭讓王は太祖の館に行くように命じ、台諫を禁止させるよう願うと、太祖は嘆いて「いつ私が、台諫をそそのかしたのだろうか?」といった。
そして、上に職を辞す箋(手紙)書いた。
「政全般がまとまるのは、名君の大臣の選択にあり、多くの責任を集まるところに、臣が賢者を推薦しそろえるべきです。かりに義を忘れ、栄達を好んでも、私にしたがい、徳を積みます。臣を省みると小器に大を任じ、徳が高いほどそしりを受けるので(事修謗興*15)、管仲*16の様な信任を得なくても、曾西*17を取らないことを恐れます。
この卑臣はまごころをつくし、ふたたび殿下のお耳よごしいたします。
三月の日、再び臣の門下侍中を除き、寵があついので正しい議論を恥じています。毎回、違允(辞職を許可しない)の教をたまわり、とても深くおそれいっています。ますます、職務を怠っているとのそしりをうけ、一段と恐懼しています。ましてや病がある身なので、戒めであふれそうです。万物の生成を見ると四季が順番に交代することによっているので、度量の大きさを広げ、憐れみの心をしめし、臣の情を哀れみ、臣の乞骨(辞職)をゆるしてくだされば、そして臣は謹んで、暇を営み病を養生すれば中興の功を長く保てます。分別をまもり心安らかに、かわらず主上の長寿を謹んで祈り申し上げます。」
王は、左代言の李簷に命じて諭旨にいかせ、これに答えて言うには、
「一国の安否は、係わる者達に重大で、大臣は去就を軽々しくするべきではない。なぜ、戒めが溢れそうになるまで礼節に励んでいるのに、身を全うしてやめようとするのだ?卿は、山川間気で、日々一人で忠をつくしている(日月孤忠)*18。義により軍を返したので、国家に再び安寧をもたらし、名を正し策を定めたので、神人ともに悦んだ。そしてこの新造(再建)の間(隙)は、卿の篤棐(忠輔)の材(才)を煩わせる。共にまつりごとをして平穏にすべきなのに、なぜここで職を辞してやめようとするのか?誹謗は道理をもってとくべきで、 病気は、医療をもって治すべきである。位をすて安らかにする必要はなく、心を休めれば、よく保てる。既に三回も上奏しているがそろそろ少し安んじてほしい」
太祖は言った。
「国に大事あれば、これを使わし共にはかり、辺境に急有れば、これを使わし海を防ぐ。その能力をもって臣を責めるのであれば臣はやめるべきだろう?今、臣はとても重責を負っているが、すでにたえきれない。しかも疾と病が交互にくるので医薬をつかい保養したい」
恭讓王はゆるさず、起きることをしいた。太祖は、辞められないので、また上に手紙した。
「臣は戊辰(1288年)に、義により軍を戻し、偽王を廃し真王を立てたので国の人達に猜疑の目でみられています。また尹彛、李初は昌を立て禑を迎える共謀し、証拠がすでに明らかなので、台諫が罪に問うことを上奏するだけなのに、なぜ臣がそそのかしているのでしょうか?今、臣は台諫に禁止を命じ、それでも臣がそそのかしていると疑われるのなら、臣は不才をかえりみて、大任に当たれないので、賢者をえらんで、これに交代させると良いでしょう」
恭讓王は箋(手紙)を見て、我殿下(李芳遠)に言った、「侍中の箋(手紙)中でのべられているところは、全て余の意を表している。余は無能で、大位(王位)に居座っていて、ただ侍中の推戴の力を頼りとしており、父のように侍中を仰いでいるのに侍中はなぜ余にさからおうとしているのか?
昌を立て禑を迎える共謀した人は、すでに前年に議で、事情が明らかでないものを特赦し、侍中もまたこれをみとめている。今、台諫が更に赦免前のことを挙げて罪に問い、そのため、卿を使いとして侍中に話して居る。台諫を見たら、この意を諭して言うだけだ。卿は、侍中に何を言ったのか侍中は、頑なに職を辞そうとしている。もし侍中が職を辞したなら、余はまた、王位に安心していられるだろうか?」
そして泣きながら天に指さして誓い、辞旨を切りきざんだ。それから、我殿下(李芳遠)に命じ、職につくことを説得するように行かせたが、太祖はついに事をみなかった。
*14 右代言……密直司。本来は、王命による軍政や軍事機密を司る中枢院。モンゴル時代に密直司に改称し、軍政だけではなく内政も兼任していたようである。代言は下の方に位置する職位で正三品で、文字通り代言が職務のようで有る。
*15 事修謗興……唐の詩人韓愈の《原毀》から 成功して道徳的に高い地位にある人が、誹謗中傷を受けやすいこと
*16 管仲……中国春秋時代の斉の宰相
*17 曾西……曾子の孫(孟子) 孟子が管仲と比したが創作上の人物の可能性もある
*18 山川間気は前出、日月孤忠は元の楊維大の詩《憤一章和夢庵韻》の「大義揭日月,孤忠懸畎畝」から十文字の本歌取り。つなげると山川の間の気を久しく封じ培い、日々、大義を掲げて田園から一人忠に励んでいる と言う意味になる。
恭讓王はまた台諫を諭して「禹玄寶の罪状は曖昧で、恩赦前なので再び上奏してはいけない」と言った。司楯の黃雲起を使わし太祖を召すと、太祖は病気で朝廷にこれなかった。黃雲起はこれを強いると太祖は人を使わし「臣は病気により朝廷にいけませんが、今、黃雲起がこれを強いており、どうしてよいのかわからず、恐れて身を置く場所がありません」と上奏した。恭讓王は怒り、黃雲起を巡軍獄に送った。
太祖は鄭道傳、南誾、趙仁沃らに言った。
「私とあなたたちは王室に協力したのに讒言がしばしば上がってくる。私は相容れぬことを恐れ、私は東帰することでこれをさけたいと思う」
まず家人に旅装するように命じ、行こうとするとき、鄭道傳らが言った。
「公の一身は、宗社の人々に係わります。どうしてその去就を軽々しく決められるでしょうか?王室にとどまり、賢者を進め不肖を退き、綱紀を振った方が良いでしょう。いくばくもなく讒言は消え去るでしょう。今もし一角に引きこもれば、讒言はますます煽られ、その禍は予想できません」
太祖は言った 「昔、張子房(張良)が赤松子*19にしたがったとき、 高祖(劉邦)は罪に問わなかった。我が心に他意が無いのに、王が私に罪をあたえると言うのか?」
互いの議論は決まらなかった。
家臣の金之景は康妃に言った「鄭道傳、南誾たちが、公の東帰を勧めれば事は間違ってしまうでしょう。この者達を去らせましょう」
康妃は之を信じて、我殿下(李芳遠)に「鄭道傳、南誾たちが、すべて駄目にしてしまう」と告げると答えて「公が讒説に困っているのを引き留める者達です。 鄭道傳、南誾たちは力強く利害をのべ、それをとめるでしょう」
そして金之景を責めて「その者達は、公と喜びと悲しみを同じくしたものだ。お前はもう黙っていろ」
*19 伝説上、張良が弟子入りしたとされる仙人
七月、恭讓王が太祖の屋敷に行幸し、酒を置き、楽を奏で、夜中になるまで続けた。
太祖と康妃が恭讓王をもてなし、恭讓王は太祖に衣襨*6、笠子、宝纓、鞍と馬を与えた、太祖は即座に服すと拝謝した。
夜になると柳曼殊が門を閉め、殿下(李芳遠)が密かに太祖に出て行くことを話し、これに太祖は命じ、金直(鍵を預かる者、今の司鑰)を使わし、門を開け、まもなく太祖を屋敷に返した。馬上で殿下(李芳遠)に振り返って「宝纓は珍品なので、わたしはおまえにこれを伝えるだろう」と言った。翌日、王は怒り金直を捕らえた。太祖は宮殿に行き、飲酒に勝てず門を開けさせましたと謝したので王は金直をゆるした。
*6 国王、王妃、王世子などが着る服
九月、太祖を判門下府事にした。
十一月、李穡はよびだされ、貶所(流刑地)からみやこに戻ると太祖の私邸に行った。太祖は驚喜し、上座に迎え入れ、跪いて酒をすすめ、李穡に立って飲むように言ったが、李穡はゆずらなかったので、人はみなこれを非した。歓が極まるとやめた。
※ 李穡は尹彛の一件で連座していたが釈放された。
十二月、太祖に安社功臣の号を加えた。
兀良哈*20と斡朶里*21が来朝の長を争った。斡朶里は「我らが来るのは、長を争うためではない。昔、侍中の尹瓘平が我が土地に『高麗の国境』と言う碑を立てた。今、国境内の人民は、みな、諸軍事の威信を慕っているので来ただけだ」と言い争わなかった。太祖は享兀良哈と斡朶里を屋敷で持てなしたので、その誠意に服した。
*20 兀良哈……野人女真の一部、本来は、シベリアの遊牧民をさしていたらしい
*21 斡朶里……建州女真の一部 清の愛新覚羅の祖先とされる。
恭讓王四(1392)年壬申の正月、 密直使の李恬は酔って王に不礼をおこなったので、諫官は極刑することを願った。太祖は上訴した「李恬に罪が有るといえども, その言は狂直*22によりでたものだから、これを貸しにするようもとめる」
そのため杖流にした。
* 22 酒癖の悪さか?
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